#011 BUG.CHURCH―記憶の大聖堂
土曜日、深夜23時45分。
カノンは自室のベッドに座り、震える手で旧式LINKを確認していた。黒い金属の表面に、自分の顔が歪んで映っている。
「本当に、やるんだ……」
小さくつぶやいた声が、静かな部屋に響く。
パソコンの画面には、律の顔が映っていた。ビデオ通話で繋がったまま、お互いに最後の準備をしている。
「カノン、まだ引き返せるよ」
律の声も緊張で震えていた。でも、カノンは首を横に振る。
「ううん。ここまで来たんだもん。それに……」
視線が、デスクトップに保存された動画ファイルに向く。15分の記憶。二人が同時に「愛してる」と言った瞬間。あの続きを知りたい気持ちが、恐怖に勝っていた。
時計が23時55分を指した。
「そろそろだね」
「うん」
二人は深呼吸をして、指定されたURLをクリックした。
[ACCESSING: BUG.CHURCH]
[PROTOCOL: BODY_SWAP_EXTENDED_v4.5]
[認証中……]
[旧式LINK Ver.0.9β 確認]
[アクセス許可]
一瞬、視界が真っ白になった。
そして——
「わあ……」
カノンは思わず声を漏らした。
目の前に広がっているのは、巨大な大聖堂だった。天井は見えないほど高く、壁一面にステンドグラスが輝いている。床は鏡のように磨かれた黒い石で、歩くたびに足音が響きそうだ。
でも、これは現実じゃない。仮想空間。なのに、冷たい空気の感触まで再現されていて、鳥肌が立つ。
「カノン!」
振り返ると、律のアバターが駆け寄ってきた。顔はモザイクで隠されているけど、声ですぐわかる。
「すごい人……」
カノンは周りを見回した。少なくとも50人、いや、もっといるかもしれない。みんな顔は隠されているけど、若い感じがする。話し声があちこちから聞こえてきた。
「前回、36時間やったんだよね」
「マジ? やばくない?」
「でも、めっちゃ良かった。記憶の3割は消えたけどさ」
「今回は48時間でしょ? 限界に挑戦って感じ」
カノンは背筋が寒くなった。みんな、記憶を失うリスクを知ってて参加してる。まるで——
「中毒者の集会みたい……」
小さくつぶやいた言葉を、律が聞き取った。
「僕たちも、その一人なんだけどね」
苦笑いを交わしていると、大聖堂の中央に光の柱が現れた。
参加者たちがざわめく。
柱の中から、ゆっくりと人影が現れる。白い神父服を着た、顔の見えないアバター。Dr.バグだ。
「ようこそ、記憶の探求者たち」
機械的に加工された声が、大聖堂全体に響き渡る。まるで、本当の神父様みたいな荘厳さだった。
でも、カノンは違和感を覚えた。
声の方向が、一定じゃない。
まるで、複数の場所から同時に話しているような——
「あれ?」
小さく首を傾げた時、Dr.バグの次の言葉が響いた。
「今宵は特別な夜だ。48時間という、人類未踏の領域に挑む勇者たちが集まった」
参加者から歓声と拍手が起こる。カノンは、その熱気に圧倒された。
「そして」
Dr.バグの視線——見えないはずなのに、確実に感じる——がカノンと律に向けられた。
「我々には特別なゲストがいる」
スポットライトが二人を照らす。
「A-137とR-404。適合率94.7%という、奇跡のペアだ」
一斉に、参加者たちの視線が集中した。ざわめきが大きくなる。
「94.7%!?」
「やばっ」
「あの二人かー」
「配信で見た!」
「A-137って、すげー番号だな」
「どこかで聞いたことある」
最後のコメントに、カノンは薄っすらと不安を感じた。A-137。まるで、商品の型番みたい。
カノンは恥ずかしさと居心地の悪さで、律の後ろに隠れたくなった。でも、隠れる場所なんてない。
「彼らの挑戦を、今夜は特別に配信させてもらう」
Dr.バグの言葉に、カノンは凍りついた。
「え? 配信?」
「聞いてないよ!」
律も驚いている。
Dr.バグは肩をすくめた。
「参加規約に書いてあっただろう? 『データは研究目的で使用される場合があります』ってね」
あの小さな文字。カノンは完全に読み飛ばしていた。
でも、今気づいた。「研究目的」って、ただの配信じゃないかもしれない。
「配信も立派な研究だ。多くの人に、記憶融合の素晴らしさを知ってもらう」
「でも……」
カノンは言葉に詰まった。また見世物になる。フォロワー20万人時代を思い出して、胃が重くなる。
「嫌なら、今すぐ退出してもいい」
Dr.バグが指を鳴らすと、空中に映像が浮かんだ。
15分の記憶動画。最後の部分だけ。
『愛してる』
二人が同時に言った、あの瞬間。
「ただし、この続きは諦めてもらうことになるがね」
カノンの心臓が跳ねた。
ずるい。これは脅しだ。でも——
「……やります」
「カノン!」
律が心配そうに見る。
「だって」カノンは震え声で言った。「もう、失うものないもん」
嘘だった。まだまだ失うものはある。でも、知りたい気持ちの方が強かった。あの瞬間の続き。本当に一つになれた時の感覚。
「賢明な判断だ」
Dr.バグが満足そうに頷く。そして、両手を大きく広げた。
「では、始めよう!」
参加者たちの前に、光の円が次々と現れる。
「パートナーを選び、円の中へ。48時間の旅が、まもなく始まる」
カノンと律は、お互いを見つめ合った。そして、同時に頷いて、同じ円の中に入る。
他の参加者たちも、それぞれのパートナーと円に入っていく。興奮した話し声が飛び交う。
「今回はレベル5での融合だ」
Dr.バグの説明が続く。
「肉体の交換ではない。意識そのものを融合させる。より深く、より完全に」
意識の融合。
その言葉に、カノンは震えた。前回のスワップとは次元が違う。もっと危険で、もっと深い体験。
そして、ふと気づいた。
Dr.バグの声が、また別の方向から聞こえる。さっきは右側だったのに、今度は左側から。
まるで、複数の人が——
いや、まさか。
「最後に警告しておく」
Dr.バグの声が、急に低くなった。今度は真正面から。
「48時間を1秒でも超えると、元に戻れなくなる可能性が高い。タイマーは絶対に守ること」
参加者たちが、緊張した様子で頷く。
[接続開始まで、10秒]
カウントダウンが始まった。
カノンは、震える手で律の手を握った。温かい。この感触を忘れないようにしなきゃ。
「何があっても、一緒だから」
「うん」律も強く握り返す。「絶対に、お互いを見失わないようにしよう」
[5、4、3、2、1——]
最後の瞬間、カノンは思った。
これで良かったのかな。
でも、もう遅い。
[接続開始]
次の瞬間——
世界が、爆発した。
「あぐっ——!」
声にならない悲鳴。
前回のスワップなんて、優しいものだった。今回は、まるで魂を粉々に砕かれるような衝撃。意識が肉体から完全に引き剥がされ、どこか分からない場所に放り出される。
真っ暗。
いや、違う。
光と闇が激しく点滅している。
そして——
何かとぶつかった。
律だ。
いや、律の意識だ。
二つの光がぶつかり、火花を散らす。最初は反発し合う。水と油みたいに、混ざろうとしない。
でも、少しずつ——
境界線が溶け始める。
カノンの記憶が、律に流れ込む。
律の感情が、カノンに流れ込む。
「これ、すごい……」
誰の声か分からない。もしかしたら、二人同時に言ったのかも。
怖い。
でも、気持ちいい。
今まで知らなかった感覚。完全に理解し合える喜び。秘密も嘘も、何もない世界。
そして、カノンは気づいた。
これが、配信されている。
どこかで、誰かが見ている。
いや、「感じる」。
視聴者の意識が、薄っすらと伝わってくる。好奇心、羨望、恐怖、興奮——いろんな感情が、波のように押し寄せる。
これが、48時間続く。
最後まで「カノン」でいられるかな。
それとも——
全く新しい誰かになっちゃうのかな。
答えは、48時間後にわかる。