#009 記憶の欠損分析
金曜日の放課後。
カノンは音楽室で、律と二人きりで向き合っていた。昨夜の黒塗り体験から一晩経ったが、15分の空白は戻らない。それどころか——
「なんか、もっとぼやけてきてる」
カノンは不安そうに言った。24時間のスワップ体験が、まるで夢だったかのように感じられる。
「僕もだ」律がタブレットを操作しながら答えた。「だから、今のうちに分析しておきたい」
画面には、二人の記憶ログが詳細に表示されていた。律が独自に開発した解析ツールらしい。
[MEMORY ANALYSIS TOOL v2.1]
被験者A: 綾瀬カノン
被験者B: 朝凪律
スワップ期間: 24時間15分
黒塗り区間: 15分(23:00-23:15)
記憶保持率: 82.3%(低下中)
感情結合度: 96.2%(上昇中)
「見て」律が画面を指差した。「記憶保持率は下がってるのに、感情結合度は上がってる」
「感情結合度って?」
「お互いへの感情的な繋がりの強さ。これは通常、記憶と連動するはずなんだけど……」
律の表情が険しくなる。
「まるで、記憶と感情が分離してるみたいだ」
カノンは胸に手を当てた。確かに、律と過ごした具体的な記憶は薄れている。でも、彼への信頼感や安心感は、むしろ強くなっている。
「これって、普通じゃないよね」
「全然普通じゃない」律は断言した。「LINKの仕様上、ありえない現象だ」
二人は顔を見合わせた。そして、同じことを考えた。
Dr.バグの仕業?
「もう一つ、気になることがある」
律が新しいデータを表示した。それは、黒塗りになった15分間の帯域ログだった。
[23:00:00] 帯域: 1.8 M Pbps
[23:05:00] 帯域: 2.3 M Pbps
[23:10:00] 帯域: 2.7 M Pbps
[23:14:50] 帯域: 3.1 M Pbps [CRITICAL]
[23:15:00] [DATA LOST]
「3.1メガクオンタム……」カノンは息を呑んだ。「それって——」
「通常の4倍近い。人間の脳が処理できる限界を超えてる」
でも、それだけじゃなかった。
「このデータフロー、見て」律が別のグラフを示した。「通常、記憶交換は双方向で対称的なはずだ。でも——」
グラフは明らかに非対称だった。カノンから律への流れは通常通り。でも、律からカノンへの流れの一部が、別の方向に分岐している。
「これ、まさか……」
「第三者に流れてる」律が重い声で言った。「僕たちの記憶の一部が、誰かに送信されてる」
カノンは背筋が凍った。黒塗りの記憶は、消えたんじゃない。盗まれたんだ。
「Dr.バグ……」
「間違いない」
二人の間に重い沈黙が流れた。
その時、カノンのスマホが鳴った。見知らぬ番号からの着信。
「出ない方が——」
律の制止を振り切って、カノンは電話に出た。
「もしもし」
『A-137、調子はどうだい?』
機械的に変調された声。Dr.バグだ。
「あなた、あたしたちの記憶を——」
『記憶? ああ、あの15分のことかな。心配しないで、大切に保管してるよ』
やはり盗まれていた。
『ところで、君たちの記憶、なかなか興味深いね。とくに、感情データの純度が素晴らしい』
「返して!」
『返す? どうして? 君たちは自分から差し出したんだよ。時間をオーバーしてね』
Dr.バグの声に、嘲笑が混じる。
『それより、提案がある。もっと深い実験に参加しないか? 今度は48時間。より完全な融合を体験できる』
「断る」律が電話を奪って言った。
『R-404か。君の冷静さは評価するが、A-137の選択を邪魔する権利はないよ』
「カノンは——」
『彼女はすでに中毒になりかけている。記憶を失う恐怖より、繋がりへの渇望の方が強い。違うかい、A-137?』
カノンは何も言えなかった。図星だった。
『また連絡する。それまでに、よく考えておくことだ』
電話が切れた。
律が心配そうにカノンを見つめる。
「大丈夫?」
「……分からない」
カノンは正直に答えた。Dr.バグの言う通り、また体験したい気持ちがある。理性では危険だと分かっているのに。
「これ、見て」
律が新しいデータを示した。それは、カノンの脳波パターンだった。
「通常の依存症と同じ兆候が出てる。多幸感を司る部分が過剰に活性化してる」
「つまり?」
「スワップ体験が、麻薬みたいな効果を持ってる可能性がある」
カノンは震えた。自分が依存症になりかけている?
でも、否定できない。今も、律と繋がっていた時の感覚を求めている自分がいる。
「どうすればいいの?」
「まず、Dr.バグから離れること。そして——」
律は言いかけて口を閉じた。
「そして?」
「……僕も、正直わからない」
律も苦しそうだった。
「僕も、また君と繋がりたいと思ってる。理性では危険だと分かってるのに」
二人は見つめ合った。お互いに同じ葛藤を抱えている。
記憶を失う恐怖。
でも、繋がりたい欲求。
理性と感情の板挟み。
「ねえ」カノンが小さく言った。「もし、本当に記憶を全部失っても、この気持ちだけは残るなら……」
「カノン」
「ダメだよね。分かってる。でも……」
涙が溢れた。
昨日までの自分なら、こんなこと考えなかった。フォロワー数や「いいね」を気にして、表面的な繋がりで満足していた。
でも、本物の繋がりを知ってしまった今、元には戻れない。
「一緒に乗り越えよう」律が優しく言った。「二人でなら、きっと——」
[PING!]
カノンのスマホに通知。Dr.バグからのメッセージだった。
『君たちの15分の記憶、面白く拝見させてもらった。とくに、最後の5分間。あんなに深い感情の交流は、10年ぶりに見た』
『興味があれば、動画を送ってあげてもいい。もちろん、次の実験に参加することが条件だけど』
自分たちの失われた記憶の動画。
それは、究極の餌だった。
「見たい……」
カノンは思わず呟いていた。