プロローグ:黒塗りの朝
新しい話を試しに投下してみました。
スマホの画面に表示された名前が、まるで他人のもののように見える。『綾瀬カノン』——これが本当にあたしの名前? 指先の感覚さえ自分のものか分からない。
あたしは誰?
鏡に映る少女は、見覚えのない顔で微笑んでいた。いや、これはあたしの顔のはずだ。でも——知らない。この長い髪も、大きな瞳も、ピンク色の唇も、全部他人のもののように感じる。
「やだ……何これ……」
震える手でスマホを掴む。画面に表示される名前は『綾瀬カノン』。これが、あたしの名前? でも、ちっとも自分の名前って気がしない。
[LINK-MEMORY: ACCESS]
名前: 綾瀬カノン
日付: 2042.03.21
時間: 18:00-19:00
████████████████
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██ ██
██ 記憶欠損検出 ██
██ ██
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[ERROR: CRC mismatch]
昨日の18時から19時。たった1時間分の記憶が、真っ黒に塗りつぶされている。
必死で思い出そうとする。でも、頭の中に浮かぶのは真っ黒な靄だけ。まるで、誰かが記憶を黒いペンキで塗りつぶしたみたいに、何も見えない。
17時59分までは覚えてる。誰かと一緒にいた。大切な人。でも、顔がぼやけて見えない。名前も出てこない。ただ、胸が締め付けられるような切なさだけが残ってる。
19時01分。気がついたら自分の部屋にいた。全身がぐったりと疲れ切っていて、まるで魂を抜かれたみたいだった。
その間の1時間に、何があったの?
[PING!]
通知音で現実に引き戻される。差出人は『Dr.バグ』。知らない名前。でも、なぜか背筋が凍る。
『実験は成功です。A-137、とても良い商品でした。購入者も満足しています』
A-137?
まるで心臓を鷲掴みにされたような恐怖が襲ってくる。なぜか分からないけど、それがあたしのことだって、直感的に理解してしまう。
商品。
あたしは、売られた?
スマホが手から滑り落ちる。カーペットに落ちた衝撃で、画面に別の通知が表示される。
『未読メッセージ:朝凪律』
律。
その名前を見た瞬間、涙が溢れた。
なんで? 誰なの? でも、この名前を見ると、胸の奥が熱くなる。守ってくれる人。信じられる人。あたしの——
でも、それ以上が思い出せない。
震える指でメッセージを開く。
『カノン、大丈夫? すぐに助けに行く。絶対に諦めないから』
3時間前の送信時刻。返信しようとして、手が止まる。
なんて返せばいい?
「助けて」?
でも、何から助けてもらえばいいの? そもそも、この人は本当にあたしを知ってるの?
いや、違う。
あたしは本当に「綾瀬カノン」なの?
鏡をもう一度見る。そこに映る少女は、相変わらず他人みたいな顔で——でも、今度は泣いていた。
頬を伝う涙だけが、本物みたいに熱い。
記憶を失くしても、感情は残るんだ。この人を大切に思う気持ちだけは、黒塗りにされなかった。
「律……」
名前を口にした瞬間、フラッシュバックのように何かが蘇る。
温かい手。優しい声。「必ず君を守る」という言葉。
でも、映像は見えない。ただ、感覚だけが残ってる。
窓の外が明るくなり始めていた。夜が明ける。新しい朝。
でも、あたしにとっては、すべてがゼロになった朝。
記憶も、自分も、何もかも失った朝。
それでも——
スマホを握りしめる。この中には、あたしが「綾瀬カノン」だった証拠があるはずだ。そして、律という人が、きっと助けに来てくれる。
根拠はない。でも、この感覚だけは信じられる。
[System Notification] 記憶リセットまで、あと71時間32分
え?
画面に突然表示されたカウントダウン。これは何? 71時間後に記憶が戻るの? それとも——
完全に消えるの?
恐怖で体が震える。でも、同時に決意も生まれた。
71時間32分。
それまでに、あたしは自分を取り戻す。
たとえ今は、誰かも分からなくても、すべてが黒く塗りつぶされていても。
あたしは——綾瀬カノンは、ここにいる。