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 室内は重苦しい沈黙に満ちていた。


 テーブルを挟んで目の前には緑柱石の瞳の美しい、第二皇子――いや皇太子ヴィクトールがいる。


 やっぱりこの人の目は綺麗だな、などと香澄はちらりと盗み見をしながら考える。面と向かい合って入るが、真正面から見るには緊張感が漂いすぎている。彼は何かピリピリしているようであるし、便宜上香澄の部屋であるこの居間に現れてから、碌に口を開かない。


 何故こうなったのか、香澄にはわからないし、部屋の隅で縮こまるようにして息を潜めているシャロンには気の毒な事だと思った。思ったが、何をしてやることもできない。居た堪れない気持ちばかりが育っていくのを、香澄はただ眺めるしかなかった。


 穏やかな昼下がりのはずだった。召喚の儀以降、夜になると頻繁に発熱していた香澄だったが、体調がようやっと落ち着いてきた。シャロンが医師から聞いた話だと、環境の変化や召喚の際に世界を跨ぐというイレギュラーな事態に身体が弱っていたらしい。どうも歴代聖女となった人間の多くにこの症状は現れていたらしく、聖女の為に選ばれていた医師たちは文献から事態を予測し準備に余念がなかったという。香澄にとっては不幸中の幸いであった。海外旅行に行ったことはないが、異国でひとり体調を崩すと不安になるに違いない。状況を知っていてくれる人間がいるというのは何にしてもありがたいものだ。シャロンは「お優しいですね」と感極まったように声を上ずらせていたが、別に自分は普通だよ、と香澄は首を振った。医師にしてもシャロンにしても「聖女様だから」とかいがいしく香澄の身の回りの世話をしてくれる人を無碍に扱うような教育は受けていない。人として普通のことを言っているだけなのだが、どうも聖女フィルターでもあるのか、何気ない一言に感銘されてしまうのが、困りものだ。などと考えながら、シャロンの淹れてくれた薬湯茶を啜っていた、のだが。


「…………え、あの、今ですか?」


 扉を叩く音がして、対応すべく顔を出していたシャロンが、困惑気味な声を上げた。


 ちらりとこちらに振り返った彼女の顔は、困りましたと言わんばかりの下がり眉である。


「シャロン?どうかした?」

「あ、あの、ルクシアの君。それが、殿下がこちらにおいでになるそうです」

「殿下?殿下って……」

「ヴィクトール皇太子殿下にございます」

「皇太子様が」


 何で、と言いかけて、それが間抜けな問いだと思い直す。ここは皇太子宮の一角であるし、香澄を聖女として保護したのは、ヴィクトールその人だ。顔を見に来たとて、何ら不思議ではない。今までは何かと多忙でなかなか時間が取れないと聞いていたので油断していたが、来るべきと時が来たのだ。


 ヴィクトールは香澄を罵ったりしないだろうとわかっていたが、この先がどうなるのかわからない状態に変わりなく、気分は重くなるが、そう言ってもいられない。


「シャロン、殿下に会うなら準備がいるんじゃない?」

「はい、お召し物を整えさせていただければ……ですがルクシアの君はまだ病み上がりですし」


 心配ですと顔に貼りつけている侍女を安心させるように笑って、香澄は皇子の来訪を迎えるべく立ち上がったのだった。


 そして話は冒頭へ戻る。


 この沈黙をどうするべきか。先に口火を切るべきか?いやでもそれが不敬とか言われたら困るしな……。


 内心で冷や汗をかきながら、香澄は先ほどから皇子の一挙手一動を窺っているという次第である。


「……殿下」


 ごほん、と咳ばらいをしたのは殿下――ヴィクトールの後ろに立つ青年である。香澄が受けた紹介では、ヴィクトールの乳兄弟であり侍従である、ロレンツ・ハイランドだった。


「殿下、そんな仏頂面だと、ルクシアの君が戸惑っておられますよ」


 軽口を叩けるのも乳兄弟故か。普通の臣下にはない気安さで、ロレンツは香澄にも愛想笑いを向けた。


「ねえ、ルクシアの君」

「はい?いえ、あの」


 急にこちらに振るのはやめてくれ。振られたところで「はいそうですね」とか言える空気でもない。


自分は別に人見知りする性質ではなかったつもりだが、あくまで自国での話で、異世界の、しかも王子様相手にフランクに接することができるほど毛の生えた心臓を持ってはいない。


 ……などと言えるわけもなく、香澄は曖昧に微笑んだ。日本人の事なかれ主義というか性分がこんなところで発揮されようとは。


 それを余裕ととったのか、主従は揃って意外そうな顔をした。口を開いたのはまたしても侍従の方であったが。


「ルクシアの君が寛大な御方でよかったですねえ殿下」


 もうやめてくれ、こちらの心臓が持たない。慌てて話題を変えようと、香澄はロレンツに向かって口を開いた。


「あの、シャロンにも言ったんですけど、そのルクシアの君っていうの、止めてもらえませんか」


「おや」とロレンツが眉を上げる。その仕草に何故か見覚えがあった気がするのだが、と香澄が首を傾げるより先に、ロレンツが笑った。


「話に伺っていた通り、気さくな方のご様子で」

「話?」

「ええ、うちのちびがルクシアの君にはお世話になっておりますからね」

「ちび?」


 何のことだと問い返す前に、隅で固まっていたはずの少女が話に割り込んできた。


「ちょっと兄さん!ルクシアの君に失礼でしょう?」

「兄さん?え、ロレンツさんてシャロンのお兄さんなんだ?」

「ロレンツとお呼びください。ルクシアの君。――ええ、そうです、こいつは俺の妹でして」


 いつもお世話になっております、と頭を下げられ、香澄も慌てて「こちらこそ妹さんにお世話になって」と返す。


「兄さん、殿下の御前で、ルクシアの君にもご無礼でしょう」


 ぷりぷりする妹に怯む様子もなく、ロレンツは笑う。そのそばかすが浮いた笑顔が、確かにシャロンとよく似ていた。


「……ロレンツ。あまり聖女殿を困らせるな」

「困らせてませんよ。ねえ、ルクシアの君」


 窘めるようにやっと口を開いた皇子の声は、低く落ち着いたテノール。顔が良い人とは、もれなく声も良いのだろうか。天は二物を与えずというが、割と大盤振る舞いしているのではなかろうか。


 香澄がそんなことを考えているとも知らない主従は、二言三言軽口を叩き合う。呆れ顔で器に茶を注ぐシャロンには見慣れた光景のようで、二人が乳兄弟ならば、妹である彼女もこの二人には近しい存在なのだな、などと思わせた。


「さて、聖女殿」


 改めて、とばかりにようやく口を開いた皇子はまっすぐに香澄に向き直った。


「正式に顔を合わせるのは初めてになるか。俺はヴィクトール・エーリッヒ・エルグリンド。君の保護権は俺が持っている。君の身の安全や生活は俺が保証させてもらう。」

「俺は、如月香澄です。ええと……助けていただいたんですよね。ありがとうございます」

「キサラギカスミ」


 馴染みのない音のようにヴィクトールが香澄の名を口にする。


「あ、こちら風に言うならカスミ・キサラギになるのかな。カスミが名前です」

「カスミ……そうか。ではカスミ、何か不自由はないか?」

「いえ、シャロンにも助けてもらってますし、お医者さんまで手配してもらって、十分よくしていただいています」

「だが君は、故郷からこの国のために、言うなれば無理に呼ばれた存在だ。俺にできることなら何でもするつもりだ。遠慮なく言ってくれ」

「はあ……」


 ヴィクトールの声音はどこまでも真摯で、真摯過ぎるが故に香澄を困惑させた。


「あの、それって俺が聖女だからですか?」

「聖女として招いたのはこちらの一方的な都合だ。君が気にするべきところじゃない」


 ヴィクトールは答えになっているようで、微妙に違和感の残る言い回しをした。遠慮なく何でも言えと言われはしたが、香澄の疑問には答えていない。しかし深く追求できるほど、ヴィクトールとの距離が近いわけでもなく、香澄は大人しく引き下がった。何より聞きたいことは他にもあったし、彼に会ったらまず頼みたいと思っていたことがあったのだ。


「ひとつお願いがあるんですけど」

「何だ?」

「俺のこと、ルクシアの君って皆が呼ぶの、止めさせてもらえませんか」


 ヴィクトールが面食らったような顔をした。香澄は慌てて言い募る。


「ほら、ルクシアの君って何かよそよそしいし!俺は名前があるんだから、それで呼ばれたいし!シャロンに言ったら、聖女の名前は陛下か殿下しか呼んじゃダメなんだって……でも殿下が許可してくれたら」

「上流の貴婦人たちは、名で呼ばれるよりも通称で呼ばれることを好む方が多いんだが」

「いや、俺普通の高校生だし。そもそも男だし……」


 比べる相手を間違ってないか?


「「…………」」


 沈黙。香澄とヴィクトールは互いに押し黙った。


「ッふ…………」

「え?」


 形の良い唇からこぼれたのは、聞き間違いでなければ笑い声で。


「あの、殿下?」


 恐る恐る彼を窺う香澄に、ヴィクトールは思わずと言ったように笑い出した。

 え、そんなに笑うところじゃないだろ。


「す、すまない……」

「いいですけど、別に」


 そんなに妙なこと言ったっけ?


 先ほどまでの何とも言えない空気は、違う意味で何とも言えない空気となった。息が詰まることはなくなったが、これはこれでいいのだろうか?


 ヴィクトールはひとしきり笑い、少し冷めた紅茶を口にする。


「では聖女殿……いや、カスミ。君の望みのままとしよう。ロレンツ」

「は」

「カスミの望みを、皆に伝えてくれ」

「心得まして」


 名前を呼んでほしい。ただそれだけ。当たり前のことを頼んだだけなのに、何か重大な命令のように扱われ、香澄はそこで初めて気付いた。聖女とはただの肩書ではないのだと。今更のように。


「あの、殿下、俺」

「ん?」

「俺はここに何で呼ばれたんですか?」

「…………国が求めた。だから君はここにいる。千年前の彼女の祈りの形として」

「千年前?」


 それは何?それは誰。彼女とは、はじまりとなった初代聖女だろうか。

 ヴィクトールの、歌うような節回しはどこか現実離れしているように聞こえた。今こうしていることからして、奇妙な夢のようではあるが。


 だが次の彼の言葉が、香澄からすべての思考をはぎ取っていった。


「君は、俺の妻となるべくここにいる」



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