1
なんてきれいな人なんだろう。
恐怖をほんの一瞬忘れさせてくれる程、彼は美しいと思った。
女性のような線の細さはない。むしろ長身痩躯のその人は、十分に男らしかった。鳶色の髪と形の良い顔のパーツ。美丈夫という言葉が良く似合う。けれど何より美しかったのは自分を見つめる緑柱石の瞳。宝石など碌に見たことはなかったけれど、きっと世界中のどんなものより美しいに違いない。何故だかその時、本気でそう思った。
***
――どうしてこうなったのか、わからない。
そう、何も、わからなかった。わからないまま、如月香澄はここにいる。
目の奥が、痛い。眩しさと、喉の奥を焼くような乾いた空気が突き刺さったと思った。次の瞬間熱風が身体を包み込んだ気がした。気がしただけで、その実何が起きたのかもわからないまま、如月香澄はただ、その場に立ち尽くしていた。
学生服の裾がかすかに揺れる。まだ春先のはずの日本から、気づけば、見知らぬ場所に立ち尽くしていた。どこからか吹き込んでくる風は肌を刺すように冷たい。今朝、桜の花の開花を告げるニュースを見たばかりだというのに。
「……え?」
言葉にならない声が漏れる。立っていたはずなのに、次の瞬間には膝から崩れ落ちていた。足が震える。呼吸が浅くなる。状況がまるで理解できない。
──気づけば、そこは大理石の祭壇だった。
視界の隅に、光に包まれた円環があった。魔法陣……というのだろうか。日本で見たことのあるどんなものとも違う、恐ろしいほど精緻で、不気味に美しい光の文様。その中心に、自分が立っていた。
誰かの声が聞こえた。
「聖女が……」
「いや……これは……少年、では?」
ざわ、と。空気が揺れる。周りを見渡せば、ローブに身を包んだ奇妙な集団。自分を取り囲む視線に、不穏なものが混じる。
見知らぬ場所。見知らぬ人。何もかも奇妙な、けれど明らかに整えられた『場』。
本能的な恐怖が全身を支配する。
「ま、待って……俺は……!」
声が震えた。けれど、誰も香澄の言葉をまともに聞こうとしなかった。
「召喚は……失敗……?」
「いや、けれど光は確かに──」
知らない言語。なのに、不思議と意味が頭に染み込んでくる。
それすらも恐ろしかった。体がまったく、自分のもののように思えなかった。
「お前!!お前は男なのか!?」
年かさの男の声が響く。びくりと身を竦ませた香澄の様子など気にも留めず、ずかずかと近付いてきた声の主が、座り込んでいた香澄を引き立たせるようにグイ、と腕を掴んだ。
「痛ッ!!」
思わず呻いた香澄の声に、また「やはり男か!!」と忌々し気に吐き捨てるその人間は、唾を飛ばしながら居丈高に宣言する。
「失敗だ!この者は聖域を穢す不埒なる者!」
男の声にざわめきが再び大きくなる。
「では此度の召喚の儀は――」
「いやしかし、聖女の光は――」
「ではどうすれば――」
あちらこちらで戸惑いの声が上がる。香澄には、何がなんだかさっぱりわからない。それでも一つ、わかることがあるとすれば。
「この者が、『暁の聖女』であろうはずがない」
自分は間違えられた。彼らがいいたいのは、つまりそういうことではないのか。
「お前、聖女様をいかがした」
いかがした、と問われてもわかるはずがない。そもそも聖女とはなんのことだ。
問うように自分の腕を掴んだままの男を見上げる。その視線が気に入らなかったのか、男が香澄の腹を蹴った。
「――ッ!?」
「おい、それはさすがにやりすぎでは!」
「聖女を騙る不埒な者ぞ?」
誰も騙っちゃいない。痛みと怒りで睨む香澄に、男が眦を上げる。振り上げられた拳に咄嗟に目を閉じた。
そのとき。
足音。
固い靴音が響く。香澄を取り囲んでいた男たちの動きが一斉に止まる。波が引くように道ができ、そこを歩く人影があった。
「何があった?」
どこまでも静かな声だった。
無感情にも、穏やかにも聞こえる、不思議な声だと、ぼんやりと香澄は思った。
「誰……」
「――ッ。無礼者!!」
香澄の腕を掴んだままの男が叫ぶ。立たせようとしていたくせに、今度は頭をぐいぐい押して、床に這いつくばらせようとする。恐怖よりも直接的な痛みへ意識が向かい、顔を顰めると、また叱責が飛んできた。
「皇太子殿下の御前であるぞ!無礼な!!」
「こうたいし」
香澄は繰り返すように呟く。
「ログラード、止めろ!」
制止の声は、殿下と呼ばれた青年の側から聞こえた。
「しかしハイランド卿」
なおも何か言い募ろうとしたログラードは、こつりとまたひとつ靴音を響かせて一歩踏み出した皇太子その人により封じられる。
「止めろと言っているんだ。ログラード」
「殿下……」
ぐっと押し黙ったログラードの腕から力が抜ける。香澄はその場でぺしゃりと潰れた。まるで状況がわからない。喚くばかりの男は、香澄を排除しようとしたが、状況を説明してくれるほど親切ではなかった。では誰が、教えてくれるというのだろう。
ぼんやりと香澄は『殿下』と呼ばれた男を見上げた。
なんてきれいな人なんだろう。
恐怖をほんの一瞬忘れさせてくれる程、彼は美しいと思った。
女性のような線の細さはない。むしろ長身痩躯のその人は、十分に男らしかった。鳶色の髪と形の良い顔のパーツ。美丈夫という言葉が良く似合う。けれど何より美しかったのは自分を見つめる緑柱石の瞳。宝石など碌に見たことはなかったけれど、きっと世界中のどんなものより美しいに違いない。何故だかその時、本気でそう思った。その瞳に浮かぶ感情が何であるのかはわからなかったけれど。
「大丈夫か?」
美しいその人が眉を顰める。どんな表情でも様になっている。テレビで見る俳優でもこんな人は知らないなあ。感覚が麻痺し始めたのか、呑気にそんなことを考えた。
「あ、はい……」
差し出された手を、思わず取ってしまった。ログラードからは人を殺さんばかりの視線が突き刺さるが、皇太子が顔を向けるとそれも霧散した。
「君が……『聖女』だと……?」
「あの、聖女って何ですか?俺は何でここにいるんですか?ここは一体どこなんですか?」
香澄を起こし支えてくれた腕は、敵意を感じさせない。
顔を上げると緑柱石の美しさが一層輝いて見えて、思わず香澄は矢継ぎ早に訊ねた。
「ここは……」
「殿下」
ログラードからハイランド卿と呼ばれた青年が制止をかける。
「ログラードの所業を肯定するわけではありませんが、その者は少年では。これは一体……」
戸惑いを滲ませる彼に答える者はいない。この場に居合わせた誰もが共通して持ち合わせていた疑問。場の視線は、香澄に向かう。
「あの……?」
香澄は縋るように皇太子を見た。
その時。
「――ッ」
ちり、と痛みが走って、香澄は咄嗟に自分を支えていた皇子の腕を払った。
誰もが驚き目を瞠る。けれどそんなことに構う余裕はない。
「あ、あああああ……!!」
痛い。掌が、焼けるように痛い。一体これは何だ。
痛みに蹲る香澄の手を、慌てたように皇子が掴み、掌を開かせた。
どこか呆然としたように、彼は呟く。
「君がこの国を救う、聖女だと言う」
「……は?俺が?聖女?」
妙な言い回しに、眉を顰める。
「聖痕が……」
誰かの声が悲鳴のように聞こえた。
多弁の花。暁を告げ、一夜で咲き、散り、そしてまた咲く花。ルクシア。
香澄の掌にくっきりと刻まれたそれが、聖女の証。それを知る前に、香澄は痛みに意識を手放した――。