序
帝都リュミエールの空は、黒鉄のように重く分厚い雲に覆われている。太陽が姿を見せる気配は未だなく、王宮の尖塔は黒い影を落とすのみ。
宮廷の回廊に揺れる青白い灯火の下を陰鬱な顔をした衛兵たちが無言で巡っていた。
花の都と謳われる帝国の都。その心臓部である宮廷は今、黒衣の未亡人の表情を隠すヴェールに包まれたように、静かに喪に服していた。
薄闇に包まれた謁見の間。空の玉座を前に、佇む青年がいる。すらりと伸びた手足は長く、憂いを帯びた緑柱石の瞳はそれでも人を引きつける美しさを持つ。
じっと玉座を見つめるその表情から、何を考えているのか読み取ることは難しいが、彼もまた悲しみに沈む人間の一人であった。
ヴィクトール・エーリッヒ・エルグリンド。
かつて第二皇子として軍に身を置き、辺境の地で軍務を指揮していた男は、今や――帝国エルグリンドの皇太子である。
兄、第一皇子シグムントの急逝から、わずか三十日。
突然の後継ぎの死に、帝都は混乱し、貴族たちは血眼になって次の政を占おうとした。
だが、皇帝はただ一言「ヴィクトールに後は任せる」と告げただけだった。
「……俺は、帝の器じゃない」
誰に向けたものか定かではないない呟きは、虚しく響いて消えてゆく。
皇帝の言葉に対する弟の誠実な沈黙を、重臣たちは忠義と捉えたが、彼の心は嵐だった。
兄を、尊敬していた。戦で民を守ったその背を、追い続けていた。追い続けるはずだった。これまでも、これからも。
正妃である皇妃を母に持つ第一皇子。誰からも慕われる聡明さと、上に立つ厳格さを併せ持ち、父帝からの信頼も厚かった異母兄。その背中を追い、支えることが自分の存在意義。誰からもそう教えられ、己もまた信じて生きてきた。兄に対して、ほんのわずかな憐憫がなかったかと言えば嘘になる。彼は生まれながらの世継ぎであり、『彼のひと』を妻とすることが定められていた。恋のひとつも自由にできない。遊びであっても、清廉潔白を求められた籠の鳥。尊敬と、わずかな憐れみを抱いた自分への罰なのだろうか。
――兄がいなくなった今、自分がその場に立たされている。
「殿下。間もなく『その時』でございます」
扉の外から、侍従長の声が響く。
『その時』――百年周期で現れるという、『彼のひと』――『聖女』の召喚。
エルグリンド帝国の栄の礎こそ、聖女によりもたらされるとされる。異世界から招かれる彼女らは、世界各国の聖女たちの中でも抜きんでた力量を持つことで知られていた。
伝承では、異界より来る聖女は天より遣わされ、帝国を災厄から救うという。
だがヴィクトールは、その言葉をまるで子どもの幻想のように感じていた 。
(天界など、幻想だ)
聖女は確かに現れる。しかしそれが天の国だとか、神の御許だとか、そんな話は信じられそうにもない。だがもしも本当に天界現れるのなら。
この帝国を、兄の不在を、そして自らの空虚を埋める存在が現れるのなら――。
「どんな姿で現れようと、俺はその者を迎える。守り抜く。それが……皇太子の責任なら……」
それは、彼の覚悟だった。
けれどその直後。
光の中、神殿に降り立った『聖女』は――
長めの制服の袖に泳ぐ肩、小柄な身体を震わせ、目を見開く一人の『少年』だった。