第八話 魔法訓練と刺客
魔物のいた場所は真っ赤に染まり、巨大な土の塔だけが残されていた。
魔神との死闘を終えたエリィが、ゆっくりと地面に向かって降下していく。その姿を静かに見つめるフィオナとミラは、ただ唖然とし、その場に立ち尽くしていた。
静寂の中、エリィが二人の前に降り立つ。傷一つ、いや、それどころか、返り血一つ、彼女の身体にはついていなかった。何も無かったかのようにその場に立つ少女の姿は、まるで神話から抜け出して来たような、恐ろしく、神々しい、強者の風格を振り撒いているかのようであった。
「……嘘。こんなの、人間のできることじゃ……」
ミラが、震えた声でそう呟く。フィオナは、無言で下を向き、拳を握りしめていた。圧倒的な精度、判断力、戦術、そして、力。
——この境地に至らなければ、“願い”を遂行することは、叶わないのだろうか。
フィオナは、そんな悔しさを、強く胸に抱いていた。
「ネフィリムは、魔物の身体を依代にしてこの世界に君臨している。そして、先の魔人は、ネフィリムに晒される前の個体だ」
エリィは続ける。
「本物のネフィリムは、あれの何十倍、いや、何百倍も強い力を持ったものばかりだ。今後、ああいった存在とも数えきれないほど遭遇するだろう」
彼女は、二人を見据え、はっきりと言った。
「だから、修行をしてもらう。フィオナも、ミラも。そして、今後現れる“器”たちも全員、私と十二分に張り合えるまで育て上げる」
やがて日が傾き、三人は少し離れた森の縁に、簡単な野営地を設けた。焚き火の火は小さく、周囲を照らす陽光は傾き始め、空には星がちらちらと瞬き、風の音だけが耳に届く。
ミラは焚き火の前にしゃがみ込み、黙々と枝をくべていた。かつては得意げに火起こしをしていた彼女も、今は沈黙の中にいた。
その背を見つめながら、フィオナは膝を抱えて座っていた。ゆらゆらと揺れる焚き火の火が、その瞳に温かく差し込む。
エリィは木の根元に背を預け、目を閉じていた。だが、眠ってはいない。
「……怖くないの?」
静かに、フィオナが口を開いた。しばらくの沈黙の後、エリィはわずかに瞼を開ける。
「何が?」
「ネフィリムと、戦うこと。そんな……そんな訳の分からないものと、向き合うことが」
その問いに、エリィは一度だけ目を伏せ、そして言った。
「怖いと思うことはある。だが、それは止まる理由にはならない」
「それは、強いから……?」
フィオナの声は、どこか頼るような響きを帯びていた。
けれど、エリィは小さく首を振った。
「違う。“願い”があるから、進むだけ。強さは、そのための手段に過ぎない」
焚き火の音が、ぱちぱちと小さく弾けた。
「自分の願いを、他人任せにしたくない。ただ、それだけだ」
その言葉に、フィオナも、ミラも、何も言い返せない。
エリィはただ目を閉じて思考を巡らせ、ミラは焚き火の灯を見つめながら歯を食いしばり、フィオナは胸に去来する悔しさと希望の入り混じった感情の中で葛藤を繰り返していた。
『自分の願いを、他人任せにしたくない』
先のエリィの言葉が、フィオナの心の中で響き、増大していく。
私の、“願い”。
本当にそれは、正しいのだろうか?
牙への復讐と、自殺という名の自分への断罪。それは、私が本心から願っている結末なのだろうか?
解の出ない空白の解答用紙が、フィオナの中で量産されていく。誰の助言も助けも求めず、ただ独り、心の中で。
あたりを包む夜の暗闇が、深く静かに、彼女の意識を微睡の中に溶けさせていった。
—————————そして、夜が明けた。
澄み渡る空の下、朝露を踏みしめながら、エリィが背を向けて歩き出す。
「さて、行くぞ。」
エリィの一声で、簡単な朝食を済ませて荷物をまとめた三人の少女たちは再び歩き始めた。目的地は、拠点から少し離れた所にある開けた草原。魔法の練習にうってつけの場所だ。
朝の澄んだ空気を吸い込みながら、彼女たちは歩を進める。やがて視界が開け、見えてきた草原には、心地の良い風が吹き、既に天頂に到達した太陽が地面をきらきらと煌めかせていた。
「ここなら、思いきりやれるな」
エリィが足を止め、振り返る。
「では、始めるぞ」
フィオナとミラは緊張と期待を込め、エリィを見つめた。エリィは深呼吸を一つしてから、ゆっくりと彼女たちに向き直った。真剣な表情を浮かべると、手を軽く振り上げながら話し始める。
「魔法を使う時の第一ステップは魔力を『集める』ことだ」
そう言ってエリィが振り上げた腕を下げると、彼女の腕の周りに赤くキラキラした粒子状のものが発生する。
「大気中の『魔力』は、『火、水、草、風、土』の五大属性が混在した状態で存在している。私の場合、属性は『火』だから、この中から火属性の魔力を抽出した状態ーー火属性の魔粒子を司る色である『赤色』に辺りの魔粒子が発光する」
そう言うと彼女は、それを手で覆い始める。
「次に、この魔力を魔法に変えるために、手のひらを通してこの『魔粒子』を脳内器官の『魔核』に送り込んで魔粒エネルギーに変換する」
彼女が手で覆った魔粒子は発光したまま、彼女の腕、首を伝って頭の方に向かっていった。
「その後、変換したエネルギーを再び手に送り込んで……」
脳に送り届けられた魔粒子は魔粒エネルギーへと姿を変えてさらに発光し、彼女の首、腕を伝って再び手の中にエネルギーを送り出す。
「この状態で前方に魔力を押し出すイメージで手を開くと、エネルギーを使って『魔法』が出る」
彼女がパッと手を開くと、そこから小さな火が発生した。
「このように、『魔力の抽出による魔粒子の精製』『魔粒子を魔粒エネルギーに変換』『魔粒エネルギーを魔法に変換』『魔法を行使する』と言う4工程で『魔法』は成り立っている、そして……」
そこまで言った彼女は、自分の手を開いたまま前に突き出す。
「フレイヤ」
そう彼女が唱えた直後、目の前に全てを焼き尽くすような大きな炎が出現した。太陽をも凌ぐかのような熱気と明るさに、ミラとフィオナは圧倒される。
「このように、先の魔力変換工程を無視して魔法を打ち出すために使う詠唱等の儀式——これを、“魔術式”と言う」
強くなりたい、やってみたい。でも、本当にできるのだろうか。フィオナとミラは、そんな興奮と不安を抑えきれない様子で手のひらを見つめる。
「じゃあ、実際にやってみろ。二人に今からやってもらうのは、属性の適正検査だ。」
エリィは腕を組んでそう言う。
「人間は、生まれつきニ属性までの使用が限界であると言われている。これから行う初の魔力抽出、そこで発生した色を、魔法使いはその生涯をかけて極めていくんだ」
エリィがそう口にする。先に動いたのは、フィオナだった。
——守りたい。でも守れなかった、あの子たちのために。
——もう誰にも、願いの邪魔をさせたくない。
——だから、強くならなくちゃ、いけないんだ。
フィオナの掌の上で、徐々に魔力が色付いていく。
「やった……! エリィ、できた……よ……?」
フィオナの横にいたエリィは、彼女を見て驚愕していた。それは、これまで余裕の表情を常に見続けてきた二人にとって驚くべきものであった。
「嘘……だろ……?」
『魔法は、一人につきニ属性までしか使用できない』
それが、これまでの世界の常識、そうであったはずなのに。
——彼女の周りに発生し、飛び交っている魔粒子は、五つの色を発していた。
少しの間唖然としていたエリィだったがすぐに状況を理解したのか、平静をとり戻して話し始める。
「……今、君の禁忌が判明した。“人を殺す魔法”——その名は、間違いだったようだな」
彼女は、フィオナの目をまっすぐ見て伝える。
「『全属』、全ての魔法を使用できる魔法。それが、君の能力だ」
その言葉を聞いたフィオナは、少し驚いた後、目を細めて微笑んだ。静かに、深く熱を孕んだ笑みであった。
「……そう」
フィオナは、嬉しかった。
今まで名前すらなかった、縦横無尽に命を刈り取る“人を殺す魔法”。それが、明確な殺意を持って刺し向けることのできるものであったと、判明した瞬間であったからだ。
——これで、あの連中を皆殺しにできる。
そんな、執着にも近いような感情が、彼女の心の空白を埋め尽くしていく。
「ありがとう、エリィ。教えてくれて」
フィオナは真っ直ぐとエリィの目を見つめ返し、まっすぐに微笑む。
その表情は、まるで長年の“空腹”を満たすための餌を目前にして、自分は既に満腹であるという錯覚と快感を抱いた獣のような、喜び、落ち着き払ったものであった。
その表情を見て、ミラの喉がごくりと鳴る。
喜びでも、感動でもない。自分の私欲をフィオナに貶される恐怖と彼女自身に対する畏れを、ミラは見せていた。
「じゃあ……次はミラ、君の番だ」
エリィがそう言い、ミラが立ち上がる。彼女はこくりと頷き、緊張で震える右の掌を胸の前に出した。
——フィオナは出来たんだ、僕に出来ない訳が無い。
けれど、どれだけ気をこめても、掌には何の変化も起きることは無かった。
ただの、静寂。魔力が出てくる感覚の一切すらも、ミラは感じることができなかった。
「……っ」
ミラは必死で笑みを作り、もう一度、掌に力を込め始める。
——思いを、祈りを、願いを込める、イメージ。
しかし、その沈黙が破られることはなかった。
「……ミラ」
フィオナが、心配そうに声をかける。
その優しさは、親友として、家族として、かつてはかけがえのないものだった、そのはずなのに。
——いつからこの目が、声が、存在が、自分に苦痛を与えるものになったのだろうか。
ミラは、自分の拳を強く握りしめる。
「まだ、やれる……!」
声は掠れ、心が焦り、全身から脂汗が吹き出す。
「ミラ、落ち着け」
そんな時、エリィが彼女に近づき、その突き出した腕にそっと手を置いた。
「君は、魔力に対する適性が極端に弱いみたいだ。無理に魔力を引き出そうとすればするほど、生命力を使って死に近づいていく」
その言葉に、ミラの肩が震える。
「そんなはず……ない。私だって……私だって、フィオナの隣に立ちたくて……っ」
唇を噛み、俯き、啜り泣く。
フィオナは、ミラの背中を摩ってあげようと近づいた。
——そんな憐れむような目で、僕を見るんじゃない。
——————消えて、しまえばいいのに。
「触るなッ!」
ミラは、近づけたフィオナの手を思い切り払い除ける。
その行為は、フィオナとミラ、どちらの心にも大きな傷を残した。
* * *
その日の夕方、陽が傾き、薄紅色の空がフィオナたちの全身を染め上げ始める頃であった。
彼女は、ものの数時間のうちに、信じられない速さで全属性の基礎魔法を覚えていった。
火の弓矢、草の腕、水の刃、風の障壁、土の盾。
一つ一つの精度はまだまだ荒いものの、実用面においては十分な威力を備えていた。
「……見事だ。この調子なら、一ヶ月以内に中位魔法も扱えるようになるかもしれないな」
エリィが腕を組みながらそう言う。
その後ろで、ミラは地面に座ったまま、ただ静かに膝を抱えて俯いていた。魔力の出力どころか、抽出すらも、彼女は最後まで成功させることができなかった。
——どうして、できないの?
——どうして、フィオナばかり?
——おかしい、嫌だ。こんなの、認めたくない。
自分だって、ずっと支えてきた、いつだって傍にいた。
それなのに、フィオナは“力”に選ばれ、自分は“無能”に選ばれ、その現実を嘲笑い、突きつけてくる。
ミラは、顔を膝の間に埋めたまま、肩を小さく震わす。
自分では押さえ込んでいるつもりであったが、フィオナの耳にはその呼吸音がひどく乱れているのがはっきりと聞こえていた。
だが、声をかけることはできなかった。もう、自分の優しさがミラに届くことはないのだと、フィオナは悟っていた。
そんな時、ふと、エリィの視線がどこか遠くへと向けられる。
そして、顔を一瞬、僅かにしかめた後、静かに小さく舌打ちを漏らした。
「……面倒だな」
フィオナが、その声に反応する。
「エリィ?」
「結界が何者かに破られた。おそらく、私と同程度……もしくは、それ以上の力を持った魔法使いの仕業だ」
そう言って、エリィは警戒を始め、辺りを見回し始める。緊張が走り、痛いほどの静寂が三人を包んでいく。
「おやおや、こんな所にいたとはね」
次の瞬間、一つの人影が闇世に紛れたまま座り込んだミラの後ろに現れた。
一切の気配を感じさせなかった。なのに、それが口を開けた瞬間、数百トンもあるかのような錘に押しつぶされたかのような重圧を孕んだ存在感を一瞬にして纏わせていく。
「誰!?」
ミラが咄嗟に後ろを振り返ると、そこにいたのは、真紅のローブを羽織った謎の女。全身を覆い隠した格好、恐ろしいほどの存在感。それは、先の白装束の雰囲気を彷彿とさせていた。彼女は、にやりと不気味な笑みをミラに見せたまま口を開ける。
「君は……いや、君も、器なのかな? まあ、私の標的ではないさ……今はまだ、ね」
そうミラに告げた彼女は次に、フィオナを見つめて言った。
「こんにちは……名を、“フィオナ”と言ったかな。私は“追跡者”のユズ。今宵、君が器に相応しいかどうか、“選別”を行わせてもらう」
そう言って、謎の女——ユズは詠唱を初めた。
「選定の輪よ、試練と審判の劇場よ、神の目より外れし魂を写し賜え。隔絶結界《聖壇》」
そんな時だった。ユズの背後に、彼女のものを軽く凌駕する程の殺気を纏った少女、エリィが現れる。彼女は、魔法陣を展開した右手をユズの後頭部に当てながら口を開けた。
「どう言うつもりだ、ユズ」
「どう言うつもりも何も、私は自分の使命を果たすだけ。それが、我がノア一族の役目ですから」
激しい怒気を纏ったその問いに、いまだ不気味な笑みを浮かべているユズはあっけらかんとした口調で返答する。
「では始めようか、“全属の器” よ」
その言葉を皮切りに、二人の周りが一瞬で漆黒の結界に覆われた。