第七話 最強
「さあ……かかってこい、“魔人”」
血に染まった大地には、風一つ吹いていなかった。柔らかな下弦の月明かりの銀光だけが、二人を悠々と照らしていた。
一瞬の、沈黙。
次の瞬間、魔人が音もなく姿を消した。
「ははっ、そう来るか」
エリィが、魔法陣を両手に構える。美しい湖のように、月明かりを赤黒く反射させている血溜まり。そのどこかから、ぴちゃぴちゃという、規則的で、異常に小さな音が響く。その音はみるみるうちに増大し、耳障りなほどの濁流となって耳の奥を掻きむしった。
だが、エリィは落ち着き、微動だにせずに構えを解かない。濁流が決壊し、音が最高潮に達したであろう、その瞬間だった。
——真横。
気配は、一切感じられなかった。なのに、エリィの真右、距離約一メートル。そこに、突如として魔人が出現した。まるで、煙のように、滲む空気が突然捻れ、そこから魔人の黒い脚が伸びてきたのだ。
次の瞬間月明かりに煌めいたのは、魔人の五本の狂爪。それは、迷いなくエリィの喉元へと振り翳された。だが——
「甘いな。気配の隠し方が成っていない、出現も典型的だ。せめて他方向からの同時攻撃くらいはしないと」
魔法陣の浮かび上がるエリィの右腕が、あっさりとその狂爪を受け止めた。
「手本を、魅せてやろう」
そう言った瞬間、今度はエリィの姿がどこかへと消失する。混乱する魔人は、辺りを見渡して警戒する。
「先ほど言っただろう? この戦法なら、全方向からの急襲程度はこなさないといけない」
突然、血溜まりが弾けた。地面からの衝撃を受けた血液は壁のようにして、魔人の周囲を一瞬にして覆う。
「簡易錬成《戟》」
視界を制限された魔人にとどめを刺すかのように、赤黒い壁の至る所から棘状の何かが突き出る。反射的に魔人が飛び上がった、その時だった。
「極限まで逃げ場をなくし、術者の独壇場に敵を追い込んで本命の攻撃を放つ——魔法を使う者の基本だろう?」
魔人が飛び上がった先で待ち構えていたエリィは、そのまま魔人に左手を翳し、詠唱を試みる。
「律命……」
だが、魔人も簡単にそれを許してはくれない。即座にエリィとの距離を取り、地面に着地する。
次の瞬間、頭上に閃光。
「“地を圧し、空を裂け”、第七階級魔法《断空》!」
詠唱後、突如として、魔物のいた場所が大きく抉れ、ぐしゃりと音を立てながら消失した。“断空”——それは、指定範囲内の物体密度を強制的に極限まで高め、面積を縮小して抉り取る魔法。魔人は、跳躍して攻撃を回避しようとするが、間に合わない。断空の衝撃波でそのまま吹き飛ばされた魔人は、鮮血の軌跡を空に描きながら地面に転がった。
ゆっくりと、血溜まりから起き上がった魔人の胴体、右脇腹から腰にかけてが大きく抉られていた。エリィは宙に浮かんだまま、魔物を睨み続けている、その時だった。
ズズ……ッ、ズルゥ……
まるで、肉が喉を鳴らして奇声を上げているような、耳障りな異音が魔人から発せられる。そしてすぐさま、抉られたはずの胴体が再生を始めた。
まるで時間を巻き戻すかのように骨が伸びて繋がり、同時に内側の内臓が再生していく。数秒後には、元の人型に戻っていた。
それを見たエリィは、乾いた口調で呟く。
「再生魔法……どこで手に入れたんだか」
魔人は、何も言わずに再び攻撃を仕掛ける。
手を上方向に挙げ、そして、喉の奥から唸り声のような言語を吐き出す。それは、少なくとも人間には理解し得ない、呪詛のような響きを孕んでいた。
その言葉が終わると同時に、大地が震え始める。次の瞬間、地面が、まるで巨大な刃物で切り取られたように隆起し始めた。
整然と切り取られた、直方体型の土の塔。二十メートルはあろうかという巨大なそれが、数十本も空に向かってそびえ立っていた。
あらゆる場所が死角になり得る、どこから攻撃を仕掛けられてもおかしくないトラップ。その一つ一つが、エリィを殺すためだけに造られた巨大兵器のようであった。
地面に着地したエリィは冷静を保ちながら、先の、魔物がいた方向に向かって走り出す、その時だった。
エリィは、瞬時にそれを感じ取り、前方に飛び出しながら身体を反対に捻り、上空方面に青色の魔法陣を展開する。
遙か上空、一本の土の塔の上で、静かにエリィを見つめる黒い影があった。
次の瞬間、一本の閃光が空を裂いた。それは、瞬時に彼女の元に到達したが、かろうじて魔法陣がそれを弾いたことでその光線は右方向へと逸れ、大爆発を起こす。
エリィは、光線の残滓から、上空にいる魔人の位置を正確に捉えた。
白銀の月明かりを背にし、魔人が一本の塔の立っていた。その真っ黒な眼窩は、どこまでも冷たく、正確にエリィの存在を射抜いているようであった。
爆発によって倒壊した塔によって巻き起こった土煙が、辺りを覆う。
「だが……」
——見られているのは、お互い様だ。
「こっちから出向いてやろうじゃないか。砕け散れ、“斬昇”」
エリィの言葉と共に、土煙が横真っ二つに切断される。そのまま、魔人のいる場所目掛けて放たれた巨大な斬撃は、大量の土の塔を斜め上方向に分断していった。
だが、エリィの策略は破壊ではない、構築だ。
切断された断面が、段階的にずれ落ちていき、まるで階段のように変形を遂げていく。土の塔は、みるみるうちに“登るもの”へと姿を変えていった。
エリィは土煙から飛び出し、そのまま土の階段を駆け登っていく。上空から迫る殺気、それが、一気に膨れ上がった。
——来る。
階段へと変貌と遂げた土の壁と水平方向、遙か上空から、殺気の塊が飛んでくる。それは、魔人の手から放たれた圧縮魔力弾。エリィは、それを走りながら躱し、どんどん速度を上げてさらに近づいていく。
魔人は、咆哮と共に次々と魔力弾を打ち出す。詠唱すら必要としないその技は、質より量にものを言わせた焦りの象徴であり、同時に自身の限界を物語っていた。
魔人が再び咆哮する。まるで、止まれ、とでも懇願するかのように。だが、エリィは止まらない。
閃光が走り、爆発が起きるたびに、彼女はそれを躱し、相殺しながら地を蹴り、空を駆ける。まるで、攻撃全てが幻覚であるかのように、魔人の全力は何一つとして届くことはなかった。
悲鳴のような咆哮と共に、魔人が右腕を振り上げる。その瞬間、数十本の土の塔が再びエリィの前に生成された。魔人の最後の力を振り絞った全力。だが、無情にもそれが、彼女に敵うことは無かった。
「邪魔だ。“斬壊”」
赤い魔法陣の展開と共に、呆気なくその全力は崩れ落ちる。粉塵の中を、真っ直ぐエリィが突き進んでいく。既に、彼女と魔人の距離は数メートルまで迫っていた。
魔人は、声にならない悲鳴と共に、両手を上に上げる。しかし、何も起こらなかった。もう、魔力を練るための力は残っていなかった。
「終わりだ、魔人」
その言葉と共に、土煙からエリィが現れる。その右手には、純白に染まった魔法陣を展開していた。彼女は、そっと魔人の胸に右の掌を当てて詠唱する。
「律命葬、ここに告ぐ。彼の者の魂を、永劫の闇に封じよ」
魔人の眼から光が消え、黒い肉が崩れて塵となり、徐々に全身が霧散していく。
決着の後、一人月明かりに照らされたエリィは、半壊した塔の頂で静かに佇んでいた。