第六話 魔人
「……フィオナ?」
「おはよう、ミラ」
ミラが目を覚ました瞬間真っ先に視界に映ったのは、夜の闇の中でも白く浮かぶようなフィオナの顔であった。
近い、吐息が感じられるほど、近い。
ミラは、自分がフィオナに膝枕をされて眠っていたことに気づき、起き上がると、すぐさま、彼女と距離を取ろうとする。
膝の温もりを失ったフィオナの表情が、わずかに曇った。
「ご、ごめん……フィオナのこと、僕が看病しないといけないのに……」
「ううん、大丈夫」
大丈夫——僕がいなくても、フィオナは平気なのだろうか。
その、純粋な良心から発せられたはずのフィオナの一言はミラの心にぐさりと刺さり、返しがついているかのように抜けない。それは逆に、深く、心の奥底に埋もれていくようであった。
「フィオナの心の拠り所」としての自分の存在意義を、彼女は失いたくなかったのだ。
フィオナは、自分を頼ってくる立場でいてほしい。助ける側に、回らないでほしい。それは、フィオナに対する束縛のような、強く、重い、ミラの本心であった。
ミラは、自分の拳を強く握りしめる。
吐き出したい言葉が、土砂降りの雨粒のように、大量に溢れ出しそうになる。けれど、それらを口にすれば、フィオナは傷ついてしまうかもしれない。そう強く思ったミラは、許容量を超えた雨粒を自分の中に流し込み続ける。それが、いつか暴発するとも知らずに。
フィオナもまた、何かを言いかけようとしたが、唇を微かに動かしただけで視線を伏せた。
唯一の心の拠り所であったミラに、拒絶されているような気がして、でも、それを聞いたら、もう後戻りはできないような感じがして——。
微妙な温度差が、夜の闇の中に広がっていく。
気まずい。だが、それを埋める術を、二人は何も持ち合わせていなかった。
ただ、虫の音と、それを聞きつけた蛙の鳴き声だけが、五月蝿いくらいに、強く、響く。だが、その沈黙は、暗い森の中から静かに現れたエリィによって終わりを迎えた。
「……二人とも、起きているな」
そう言いながら、フィオナとミラと視線を交わすと、すぐさま二人に背を向け、森の中に再び歩を歩め始める
「ついて来い、見せたいものがある」
ミラとフィオナは顔を見合わせ、わずかに逡巡した後、黙って立ち上がり彼女の後を追った。
* * *
五分ほど、歩き続けただろうか。エリィが立ち止まったその先では、何故か森がぱったりと姿を消していた。だからと言って、そこに何かがあるわけでもない。
「ミラ、それに、近づいてみろ」
ミラが、恐る恐る森の境界線に近づくと、その「何か」の正体が明らかになった。
壁だ。
真っ黒で非光沢の壁が、見渡す限り、限りなく続いていた。
「エリィ……何? これ」
「……二人には、“ネフィリム”の殲滅を最終目標とした、器探しに出てもらうと言ったな」
エリィは続ける。
「ネフィリムは、肉体を持たない。では、どうやってこの世界に侵略してくるのか? その答えが、これだ」
エリィが、指をぱちんと鳴らす。その瞬間、真っ黒な球体が姿を消した。
そして、ミラが先程まで見ていた、黒い壁の向こう側。そこには、恐ろしい形相で三人を睨みつける巨大な魔物がいた。
「ひっ……!」
フィオナが短く声を上げ、ミラの肩にしがみつく。彼女たちの数歩先にいる巨大な魔物は、二、三メートルほどの巨大な体躯と、熊のような顔、エリィの身体と同じくらい大きく、地面を引きずっている巨大な爪を持っていた。
「エリィ、大丈夫なのか、これ……!?」
ミラが声を震わせながらそう言うと、エリィは動揺する素振りも見せず、淡々と答える。
「安心しろ、結界の向こう側を可視化しただけだ、こちらには来れない。奴らがこの結界を越えることはできない」
エリィはそういう時、一歩、結界の向こう側に足を踏み入れた。
「見ていろ」
そう一言言い捨てると、彼女は魔物とたった一人で対峙した。
「さあ……私を楽しませてくれよ」
魔物の咆哮、地響きと共に突進する群れ。その中心で、エリィは一人、笑っていた。
魔物の攻撃が、エリィに到達しようとしたその瞬間、エリィの姿が煙のように霧散する。
「詠唱破棄、第八等級魔法《終律》」
魔物の真上に移動したエリィがそう言った、次の瞬間だった。
至る所で魔物が爆散し、血飛沫を上げる。美しく舞う血液と肉片は、まるで花火のような華やかさを見せた。
徐々に音が収まり、最後に一体だけが残る、それを確認したエリィも、高度を徐々に下ろしていく。その地面には、地面の土が吸収しきれなかった血液が、水溜まりのように溜まっていた。
全身を焼かれ、溶けたような皮膚、真っ黒で光沢を持った、兜のような頭部、空洞の眼窩の奥で光る、真っ赤な双眸。その姿を見たものは問答無用で死を迎えると言われている、知能をもつ伝説級の魔物。
「さあ……かかってこい、“魔人”」
エリィが地面に降り立ち、血溜まりに波紋が浮かぶ。
咆哮と共に、魔人が赤を蹴って勢い良く飛び出す。
魔人とエリィの、一騎討ちがが始まった瞬間であった。




