第二話 暴走
フィオナに命令を下された「それ」は、まっすぐ白装束の方に伸びていき、あっという間にその身体を捉える。
「やめ――」
フィオナは、突き出した右手を握りしめた。
すると、「それ」に握りしめられた白装束の身体が潰れ、四散する。
それはまるで、破裂する風船のように、儚く、一瞬の出来事であった。
「殺す……全部、殺す……」
フィオナの瞳は赤黒く染まり、ぶつぶつとそう繰り返す声は低く、怒りと絶望に満ちていた。「それ」が床を這い、壁を伝い、みるみるうちに部屋中を黒く変色させていく。
「くそっ、発現したのか……ッ!」
一人の白装束がそう呟きながら、仲間に指示を出してフィオナ目掛けて一斉に攻撃を仕掛ける。
しかし、それは全く以て無駄な行為であった。
フィオナが腕を振り上げると、黒く変色した床から、棘のような姿へと変形した「それ」が無数に突き上がって白装束達の身体を貫いた。
フィオナは、串刺しにされた大量の死体の中心で天井に空いた穴から刺す月明かりに照らされている。神々しく、狂気と残虐さに塗れたその姿は、まるで地獄の王を連想させるようであった。
貫かれた白装束の殆どは即死、又は致命傷を負って動けなくなっていた。しかし、そんな中で一人だけ、頭部以外を貫かれた状態で一命を取り留めていた。フィオナはそれに気づき、とどめを刺すためにゆっくりと歩き出す。
「フィオナっ!」
その時、物置にいたミラがフィオナに向かってそう叫ぶ。彼女は、どこか悲しく、そして怯えている、まるで主人に突き放された子犬のような表情を浮かべていた。
フィオナは、その姿を一瞥し、ミラに一言だけ呟いてから次の動作に移る。
「子どもたちを、お願い」
彼女は、棘によって空中に固定されている白装束の仮面を優しく取り、その素顔を見つめる。かろうじて残った、その双眸は、恐怖で大きく散大していた。
「くそっ……!」
「……あなたは何も分かってない」
そう言ってフィオナは彼の頬にそっと手を当て、「それ」を纏わせてから自分の顔に近づける。
「これは、あなたたちが私たちにやったこと」
「ヒッ……!」
彼は、殺気に満ち、血で赤く滲んだフィオナの眼を見つめ、顔を引き攣らせる。
「……ギャッ……!」
その瞬間、「それ」が収縮し、彼の顔が潰れた。
「……ぜんぶ、殺す」
依然としてそう独り言を呟き続けるフィオナは、壁の一部を吹き飛ばし、外に飛び降りた。
フィオナが地面に着地し、次の標的を仕留めるために辺りを見渡す。
次の瞬間、空間が歪み、そこから長槍を持った五人の白装束たちが現れ、彼女を取り囲んだ。
しかし、誰一人として動くことができない。
フィオナの殺気と、「それ」を纏った異常な光景に怖気付いたのだ。
「うわあああぁぁぁぁ!」
今動かなければ死ぬ――、そう悟った槍持ちの一人が叫びながら、フィオナを貫こうと飛び上がる。
フィオナは空気のように軽やかに動き、その一人目を真っ正面から迎え撃つ。彼女は、まっすぐ突き出された槍を右に交わして槍を掴んで白装束ごとこちらに引き寄せ、その頭に手をそっと触れる。
その瞬間、頭蓋骨が砕け散る音があたりに響いた。とどめの瞬間、一瞬のフリーズ、他の四人はそれを見逃さなかった。
それぞれがフィオナの周りに槍を突き出す。避ける場所を最大限まで削り、一撃で敵を絶命させる連携技。
しかし、フィオナは、避けなかった。
身体を貫通した――はずだった。
貫いたはずの箇所は黒ずみ、ドロドロとした粘液のような状態になっていた。
彼女の体に入っていた槍が吸収され、白装束たちは武器を失う。次の瞬間、五人は全滅し、周囲には首のない死体が無惨に転がった。
フィオナの足元に、滴る血と黒い粘液が混ざり合い、広がっていく。その光景は、まるで本当の地獄を連想させるようであった。彼女に恐怖し、逃げる白装束たちが、叫び声も上げられずに体の一部を消され、次々と静かに血の海に沈んでいく。
それはもはや“戦闘”ではなかった。
虐殺だった。
そんな時、全滅を悟った白装束の一人が生き残った仲間に向かって叫ぶ。
「奴を、捕獲対象から討伐対象に変更する。“あれ”を、解放するぞ」
その言葉が響くと同時に、その場の空気が変わる。
「隊長!“あれ”って……まさか!」
「やらなきゃ全員死ぬ!考えている暇はない、やるぞ!」
白装束たちが会話をしている間にも、フィオナの影は彼らに向かってみるみるうちに近づいてくる。
白装束たちは一斉に、傍にあった森へと走った。
フィオナもそれを追いかけたが、気配を隠した彼らを、我を失った彼女は見つけることができない。
すると、森の影に身を潜めた白装束の一人が魔法を唱え始める。
「神よ、我等に力をお貸しください!あ……」
「待て」
「おい、今は詠唱中だ!死にたいのか、お前……」
彼の横にいたのは、どこからか現れた、身長の低い少女だった。銀の長髪を靡かせ、真っ黒なレース付きのドレスを着ている。彼は、その姿を見た瞬間驚き、即座に距離を取る。
「お前はっ『回収者』……!」
その瞬間、轟音と土煙が辺りを包む。
「今度は一体なんだ!」
轟音が連続し、地面は地震の如く揺れ、ひび割れ始めた。
辺りが土煙に覆われる。
次に視界が開けた時に目にした光景は、到底信じられるものではなかった。
目の前にあった森の一部が、消失していた。白装束を見失ったフィオナが、怒りに任せて腕を肥大化させ、森を地面ごと抉ったのだ。
彼女の目的は、彼らへの復讐。
辺りの、生きた白装束の気配が完全に消え去るまでその勢いは止まらない。彼女は次に、自分の腕を五百メートルほどの長さに延ばして、横に一回転する。
「しゃがめ!」
少女のその言葉で咄嗟に、横にいた白装束も男は屈む。
次の瞬間、森の木が全て切り倒されていた。
木の断面が恐ろしく歪なことから、切断したのではなく、断面を無理矢理抉り取ったことが分かる。
辺りには、首や上半身が吹き飛んでいる者と、運良く避けられた者が残っていた。しかし、その生存者も即座に接近したフィオナによって、次々に殺害されていく。
「あれは一体なんなんだ……!?」
「禁忌魔法」
怯える男の問いに、少女は静かに答える。
「あれは、持ち主の願いに合わせて能力が変化する最強の魔法だ。まさに、お前たちが欲しがっていた、な」
「嘘……だろ……?」
男は、絶望した表情で蹂躙される仲間たちの姿を見ていた。
「……私に、一つ作戦がある。お前のそのローブを私に……」
そこまで言いかけた少女は、横にいる男の雰囲気が急変したことに気づいた。
男がその場で立ち尽くし、嗤いはじめたのだ。
「ハハ……ハハハ……ああ、そうか。もう、終わりなんだな……」
乾いた笑みを浮かべながら、彼の頬に涙が伝っていく。
男は、最初で最後の「敗北」を味わったのだ。
その感情は、恐怖とも、絶望とも名状し難いものであった。
男はゆっくりと顔を上げながら静かに白装束を脱ぎ捨て、自らの上半身を露わにする。
「……もうどうなってもいい。全ては、我らが神の御導きのままに……」
彼の胸元には謎の紋章のような刺青が大量に彫られており、その首元には一本の首飾りが掛けられている。その先端には、禍々しいオーラを持った黒い球体が繋がれていた。
「貴方に全てを捧げます。どうか、我に力を――!」
そう叫んだ直後、男は謎の球体を口に入れて飲み込んだ。
「信徒化ッ!!」
黒い球体が男の喉を滑り落ちた瞬間、周囲の空気が凍りつくように変質する。
ごぎ、ぐぎぎ、と肉が軋む音が男の全身から響く。男の体表は瞬く間に紫黒色に変わり、皮膚が裂けて血管が浮き出し、骨格そのものが音を立てて歪み始めた。
「うっ……がああああああああっ!」
苦悶と快楽の混じったような咆哮を上げながら、男の体は膨張する。黒く変色した身体中の骨という骨が、変形しながら皮膚を破り、外界に晒される。
破れた皮膚からは、無数の眼球のようなものが湧き出てきた。共に肥大化した手足は、その巨体を支えるために四足歩行のような形態になり、最終的にヒトの形を完全に失ったその全身は、黒く濁った粘液で構成されているかのような様相を見せた。
ぼたぼたと爛れ落ちる皮膚だったものは、触れた地面を溶かし、辺りに蒸気と激臭を振り撒いている。
「……これが、例の“切り札”……」
少女の声は低く、未だ冷静さを保っていた。
「唯一神よ、同志を殺したこの不浄なる者に、天罰を――ッ!」
男の言葉と共に、最後に残った小さな顔も歪みながら姿を消す。同時に巨大化した腕が地を裂き、少女へと振り下ろされる。
しかしその一撃は、少女には届かなかった。
フィオナが、男だったものに襲いかかったのだ。
それに襲いかかったフィオナの肥大化した双眸は、既に焦点が定まっておらず、正気の沙汰とは思えない様相を見せていた。
彼女の、体の各所から伸び、怪物の巨体に絡みついた「それ」は、暴れる怪物の上でフィオナを固定し、彼女の身長の十倍はあるであろう怪物相手に、彼女は次々に攻撃を与えていく。
「グアアァァァ!!」
ようやく「それ」を引き剥がすことに成功した怪物がフィオナを吹き飛ばした。
異常な速度で再生する怪物と、傷だらけのまま狂ったような笑みを見せるフィオナ。
彼女は再び、怪物に攻撃を仕掛ける。
手足を獣脚類のように変化させ、超高速で怪物に急接近した。突進されると悟り、怪物は反射的にフィオナのいる方向に防御を集中させる。
しかし彼女は、衝突直前で真上に飛び上がり、腕を怪物と同程度まで急激に肥大化させ、落下速度を上乗せした一撃を怪物に叩き込んだ。
無防備な真上からの攻撃によって、怪物は地面に捩じ込まれるようにしてめり込む。フィオナは、動けない状態の怪物を前にして、笑いながら連続して打撃を叩き込んだ。
自在に姿形を変化させる手足、大きく裂けて牙を見せる血塗れの口、そして、額に生えている一本の黒角。
そんな彼女の姿も、信徒化した男同様、もはや人間の形を保っているとは言い難いものであった。破壊衝動と戦闘欲求に支配されたフィオナが怪物を蹂躙するたびに、音が爆ぜ、地面が揺れる。
怪物が咆哮し、打撃から逃れようと暴れる。
フィオナは、その様子を見て愉しむかのようにして、粘液の槍を複数生成させると、次々と怪物の背中に打ち込んでいった。
フィオナの心は、家族を殺された恐怖と苦痛ですでに壊れてしまっていた。
ただひたすらに、「殺す」、その衝動だけが、彼女の体を突き動かしていた。
無数の打撃の衝撃によって地割れが起こったことで、怪物はやっとのことで地面から抜け出す。フィオナの打撃を回避し、そのまま彼女を空中に殴り上げて攻勢に転じようとする。
しかし、殴り上げられたフィオナは空中で体勢を整え、そのまま一気に怪物の顔面へと飛びかかった。鋭く変質し、肥大化した巨大な爪が、怪物の巨体を貫く。
「ガアアアアァァ!!」
落下と同時に、フィオナは、突き刺した腕を触手のように変形させ、怪物の内部を蹂躙していく。
そんな時だった。
「フィオナ、もうやめて!」
その時、少し離れた悲痛なミラの叫び声が響いた。
しかし、その訴えはフィオナの耳には届かない。
「フィオナまでいなくなったら、僕……もう……」
「大丈夫だ」
地面に突っ伏して涙を流すミラに、誰かが声をかける。
そこには、白装束のローブを片手に立っている黒ドレスを身に纏った少女の姿があった。
「彼女……フィオナの心は、まだ完全に飲み込まれたわけじゃない。怪物は、おそらく手遅れだがな」
そう言って、少女は白装束を羽織る。
「フィオナを鎮静化してくる。君は、ここで待っていろ」
そう言った直後、彼女は音もなくその場から消え去った。