17:不機嫌なクレーマー
人のうわさは四十九日というけれど。
希望亭で変わった曲を弾くピアニストの噂も1か月近くすれば、だんだん落ち着いてくる。
それでも希望亭のテーブルは毎晩だいたい埋まっていて。
客足が落ち着いてきたからと、カナデの演奏を聞きにくる新しいお客もいれば。
「給料が入ったから」「10日に1度のお楽しみ」
と、それぞれの理由でまた演奏を聞きにきてくれる人もいる。
瑞々しい薫風が吹く牧草月——5月のある夜。
ディナータイムが始まり、ステージから客席を見まわしたカナデはふと気づく。
(今日のお客さん、初めて見る顔の人が多いわね)
ステージ前のテーブルにひとり座る、不機嫌そうな顔つきの男をはじめ、中央のテーブルでは体格のいい男3人組が豪快にジョッキを打ち鳴らし、楽しげに食事をしている。
自分の演奏を初めて聞きに来た人が多そうな今日は酒場の人たちからも人気が高い、明るい曲調のクラシック曲を中心に弾こう。
ピアノの前に座りながら、カナデは頭の中で今日演奏する曲たちを選び直す。
不機嫌そうな顔つきの細身の男性は仕事でイヤなことがあったのだろうか。
「疲れたがその分、メシがうまい!」と笑う体格のいい男3人組は、どんな仕事をしてきたのだろう。
ねぎらいの気持ちをこめて、カナデは軽やかなメロディを奏ではじめる。
モーツァルトが作曲したピアノソナタ第11番。トルコ行進曲だ。
冒頭のフレーズの演奏を2回くり返し終えた直後——ダンッッッ!!!!
「ワケわかんねえ曲ばっかり弾いてんじゃねえよっっっ!!!」
突然の怒声にビクリとし、カナデの指が止まる。
声がしたほうを見ると、ステージ前で不機嫌な顔で座っていた青年が自分をギロリとにらみつけていた。
年齢は20代半ばくらい。赤い猫っ毛髪に神経質そうな顔立ち。
今日、初めてみる男性だ。
「あいつはランディじゃねえか」
静まり返った店内に響くスタッフの声が男の名前を教えてくれた。
ランディは大きな舌打ちを一つし、恨めしげな表情でカナデを指さす。
「その耳障りな演奏をやめろ! オレに対する当てつけかッ!?」
「えっ、当てつけ?」
ランディとは初対面だ。
話の流れが理解できず、カナデはうろたえる。
「お前の演奏を聞いて、オレがどれほど惨めな気持ちを味わってるか、ちったぁ考えろよッ!」
荒々しい声で容赦なくぶつけられる、怒りの言葉たち。
ものすごい剣幕にカナデがすくみあがっていると。
「カナデの演奏を邪魔するなんて許さない! 天罰をあげるわっ!!」
真上からリュカの可憐な声が響く。
上を見れば、2階席でカナデの演奏を聞きつつ食事、もしくはリリアンに熱中するリュカが青い瞳を三角につりあげていた。
2階席のさくに両手をつき、今にも1階へ飛びおりそうな体勢。
落下しながらカンガルーに似た子竜に変身したら、ランディを確実に押しつぶす上、ジゼやお客たちにはリュカの正体がバレてしまう——彼女を止めないと。
(だけどそうね、わたしにはリュカがいる……!)
自分のために怒ってくれる、リュカの存在がカナデの背中を押す。
恐怖でこわばった全身の奥底から勇気がわいてくる。
カナデはリュカの目をじっと見て「ありがとう、リュカ」と、声をあげる。
「わたしは、だい、じょうぶだから」
声が少しだけ震えてしまった。
喉元にグッと力をこめ、カナデはランディを見据える。
「ランディさん、あなたが怒る理由を教えてください」
旅は恥のかき捨て。
異世界にいる間は、自分の考えや気持ちを伝えていくと決めた。
両手を強くにぎりしめて、恐怖を抑えこみ、カナデは「はぁ?」と声をあげるランディに問う。
「わたしの仕事はここでピアノを演奏して、みなさんに楽しんでもらうこと、ですから」
「オレは不愉快だ」
「だ、だから、その理由を」
「オレは楽しくねえつってんだよっっっ!!」
吠えながら、ドンッ!
ランディがジョッキをテーブルに叩きつけ、勢いよく立ちあがる。
店内の緊張がさらに高まり、カナデはすくみ上がる。
(だ、だめ……この人とはきっと会話が成り立たない)
これ以上刺激したら、なぐられるかもしれないと恐怖が脳裏をよぎった直後。
「もうやめぬか、ランディ」
店内の奥から男性の低く、しわがれた声が響く。
カナデやリュカをはじめ、希望亭にいる人たちが声がしたほうを見ると、1人の大男が近づいてくるところだった。




