閑話–ジェイ 天使のまなざし、輝く誇り
その少年を初めて見た時の胸の高鳴りは忘れない。
見たことのない服を着て、ベスティアに襲われていた少年は、鈴が鳴るような軽やかな声でミチルと名乗った。
栗色の髪に、紅茶のような赤みがさした茶色い瞳。白い肌が、私を見て桃色に染まる様が愛らしい。
異世界から来たという身の上を冷静に説明できるほどの賢い子だった。
幼いのに、と感心していたらミチルは18歳だと言う。
この愛らしさで18歳……。私は急によくわからない不安が胸に広がった。
何故かこの子には隠し事ができない。気づけば私はミチルにつまらない己の身の上を話していた。
戦で近衛衛士だった父を亡くしたこと、その後母も病で亡くしたこと。
恩人のネモフィラ将軍のことも気づけばミチルに全て話してしまった。
私は人に話をするのが得意ではない。
たいていの人は私が話している途中で首を傾げてどこかに行ってしまう。
だが、ミチルは大きな瞳を輝かせて将軍の話を聞いてくれた。
私が出世したい理由。それはネモフィラ将軍に仕えたいからだ。
将軍は私の父の形見の剣を預かってくださっただけでなく、『再び会える日を待つ』と手紙を贈ってくださった。
たった一行だなんて冷たい。
ここまで世話してくれたのだから、将軍から呼んでくれればいいのに。
亡き父の部下としての義務はもう果たしている。
今まで私の話を聞いた人は、そんな事を言ってせせら笑っていた。
その度に私は「そうではない」と思っていた。しかしそれ以上私の話を聞いてくれる人はいなかった。
ミチルだけが、私と同じように考えてくれた。
「俺の位置まで上がってこいってことでしょ? ジェイさんを鼓舞してるでしょ!」
ああ、それだ。
将軍は今でもずっと私を信じて待ってくださっている。
ミチルだけが、その事を……将軍の深い御心を信じてくれた。
そのためには何かを成さねばならない。
それはわかってはいるが、どうもうまくいかない。
最近は私自身も少し諦めつつあった。
だが、ミチルは。
「悔しいよ……っ」
私のために懸命に考え、泣き出しそうになっていた。
この時の胸に広がる気持ちを何と言ったらいいのか、わからなかった。
私の事を自分の事のように考えてくれたミチルの気持ちがとても嬉しかった。
だがもっと、「嬉しい」の先にある感情のような気がした。
思わず触れてしまったミチルの髪は、この世のものとは思えないほど柔らかかった。
まるで絵本で見た天使の、輝く髪の毛。それに触れてしまった私には、罰が下るだろうか?
ミチルは何処から来て、何処へ行くのだろう。
それは、私が関わっていい事なのだろうか。
漠然とした不安から、ミチルにどうしたいか聞いてしまった。
ミチルは答えられずに黙ってしまう。
無理もない。ミチル本人にもわからないのだろう。
であるならば、私がその一助となることは可能だろうか。
それをミチルは許してくれるだろうか。
朝になったら聞いてみよう。そう思って疲れているであろうミチルにベッドを譲って眠りについた。
ふと、胸のあたりが温かくて目を覚ます。
何か柔らかいものを抱いているような感覚だった。
……本当に柔らかいミチルを私は抱いていた。
何がどうしてこうなった。
ベッドで寝たはずのミチルが、何故床の上の私の腕の中に?
「ふに……」
ミチル。寝てる。
可愛らしい。
意識が戻ってしまった私はどうしたらいい。
この手は、この腕は、このままミチルを抱いていてもいいものなのか。
それとも起こしてベッドに戻すべきなのか。
「んん……」
寝息を立てながら、私の胸に擦り寄るミチル。
天使か。
閉じられた睫毛が、闇夜の中なのに輝いている。
桃色の唇が少し湿り気を帯びて、月明かりに照らされる。
「ふっ……」
私は思わずミチルの唇に指で触れてしまった。
綿のように柔らかく、それでいてしっとりした肉感もあり、胸が高鳴った。
「ん……」
漏れる吐息が、私に甘い痺れをもたらす。
それは、私の理性を危うくさせた。
この唇にもっと触れたい。
己の唇で、こじ開けてみたい。
だが、この天使を汚すようなことが私に許されるはずがない。
その夜は、父を失った時よりも、母を亡くした時よりも、眠れなかった。
◇ ◇ ◇
結局、ミチルをベッドに戻すのが明け方になってしまった。
ミチルを腕に抱いたままの数時間、この上もない至福と罪悪感のせめぎ合い。
もしも私のせいでミチルが風邪を引いたら死のう。
目が覚めたミチルは元気そうだった。カミよ、ありがとうございます。
そして私がどうやらミチルを腕の中に引きずり込んだらしい。
何ということだ。こんなに自制ができないで何が騎士か。やはり死ぬべきか。
だが、私がここで死んだらミチルはどうなる。
私以外の誰かを頼るなど許せない。だから私は死ねない。
私を死から遠ざける、やはりミチルは天使。
「朝食を食べたら私はそのまま出勤するが、君はどうする?」
どうするだなんて聞くよりも、言ってしまえ、ジェイよ。
どうかしばらくの間だけでもここにいてほしいと。
「あの、仮に戻る方法を探すとしてもどう探せばいいかわからないし、この世界に来たのも何かの縁かもしれないし、少しここで色々経験してみたいんです」
ミチル、それは本当か?
私は自分の耳が都合の良い解釈をしたのではないかと疑った。
「あ、でも、そしたらジェイに迷惑かけっぱなしになっちゃうし、でもオレ、行くとこないし……経験してみたいって言っても何したらいいかわかんないし……」
迷惑など、露ほどもあるはずがない。
「私は構わない。確かにこれも何かの縁だろう。君がよければしばらく共にいよう」
「あ、ありがとう!」
ありがとう? それは私のセリフだ、ミチル。
私の側を選んでくれて、ありがとう。
◇ ◇ ◇
東の森、今日は特に危険な匂いがしていた。
だが私は怯むわけにはいかない。
ここで武勲を立てて出世しなければならないのだ。
私がもう少し騎士として上にいけたら、ミチルの事を調べることが出来るかもしれない。
こことは違う、ミチルの世界のことがわかるかもしれない。
わからなくてもいい。出世して身入りが増えればミチルと長く暮らすことも可能になる。
私は初めて違う理由で、すぐにでも出世したいと焦った。
それがミチルを危険な目に合わせてしまった。
「ジ、ジェイ……!」
「怪我はないか?」
「大丈夫、ごめん! ごめんなさい!」
謝るのは私の方だ。
君とずっと暮らしたいという欲が、私のあさましい欲がミチルを危険に晒してしまった。
「良かった。君が無事ならそれでいい」
君が、ここに居てくれるなら私は何でもしよう。
東の森は、この日、本当に危険だった。
見たこともない形の巨大なベスティア。
何故、今日、この瞬間なのだ。私はカミを呪った。
ミチル、ああ、ミチル。
君だけでも無事に逃さなければ。
「私は騎士だ。敵に背を向ける訳にはいかない」
君を守って死ぬのなら。
何の後悔もない。
「あきらめんな!」
ミチルの力強い声が聞こえた。
「オレたちは、二人でこいつを倒して帰る!」
ミチルが無事なら後悔はない。
それは嘘だ。
ミチルの側には私がいたい。私も、まだ生きていたい。
ミチル、私は君に誓う。
何があっても、君の側を離れないと。
蒼く輝く大いなる剣。
ミチルが私に与えてくれた奇跡。
ならば、私は君のためにこの剣を振おう。
私は、君のための騎士。
「あのさ、ジェイ」
「うん?」
「オレ、決めたよ。元の世界に戻れる方法を探すことにする」
言われた瞬間は寂しかった。
だが、そう言うミチルの瞳は一際美しく、私を魅了した。
「でもさ、そんなには簡単に見つからないと思うんだよね」
「そうだな。私もさっぱり検討がつかない」
せめて帰る時が来るまでは、思い出くらい作ってもいいだろうか?
「だからさ……手伝ってくれる?」
ああ、ミチル。
「もちろん」
君の望みが、私の全て。
ミチル、やはり君は天使なのだろう。
風のように軽やかに私の心を奪い、光のように姿を眩ませてしまった。
だが、君との絆は終わってなどいない。
この青い石を見ていると、その自信は揺らがない。
必ず探し出す。
ミチル、私の天使。
この手で君をもう一度抱きしめる。
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