08. 天秤は光風に揺らぐ
椎菜先輩のおかげで少しだけ軽くなった気分も、朝を迎える頃にはすっかり元通りだった。
それから3日経って金曜日の夜だと言うのに、居心地の悪さは消えてくれない。
『この問題は答えを出さなくてもそのうち解決する』
そのうちってどれくらい先なんだろうか。
そもそもこれってこんなに悩む話なのか?
たまたま普段話さない子と話して、秘密を知って、ちょっと気まずい別れ方をしただけで俺の生活はこの一週間何も変わっていない。
それなのに今も俺が甲斐について引っかかっていて、こんなに思い悩む理由は果たしてあるのだろうか。
『上部の条件だけじゃなくて、思考を紐解いてそれぞれの価値ある部分だけ抽出するんだ』
あの時は整理できているつもりだったけど、改めて月曜日の放課後について考えると、そもそも悩む理由がどこにあるのか今の俺にはわからなかった。
「とりあえず書き出してみるか」
俺はルーズリーフを1枚取り出してシャーペンで乱暴に価値あるものだけ書き出した。
俺が大切にしたいもの <命>
・平穏な高校生活(友達はいらない)
・それを守るための文学少年キャラ
・椎菜先輩との繋がり
俺が甲斐と話したい理由 <虎児あるいはうさぎ>
・何も言わずに逃げた罪悪感を拭う
・
俺が甲斐と話をしたい理由って本当にこれだけなのか?
・甲斐に友達ができてほしい
確かに甲斐が1人でいたくないなら、友だちが欲しいなら、そうなるのが理想的だと思う。
でもそれは俺が話したい理由じゃない。甲斐に友達ができてそれで俺は何を得るんだ?
俺が友達を作ってやったって悦に入るのか?
気持ち悪い。
最後の行はすぐに消した。
『決められないなら君にとってどちらも最優先される程に大切なものではなかったと言うことだ』
本当は大切にしたいものがどちらかなんてわかっている。
わかっているけど、謝ることを避けて自分を守るという事実が情けなくて悩んでいる風を装っている。
誰が見ているわけでもないのに、俺は俺自身に正直になれない。
俺はどうありたいんだろうか。
明日は土曜日だというのに気が重い。
甲斐と話すチャンスが0で、声もかけられない情けない自分を自覚しないでいいだけ平日よりは気楽かもしれないけど、どちらにしたっていつもの週末ではなかった。
水曜日から今日に至るまでの日々も、甲斐はいつも通りだった。
決まった時間に登校して、常に集団の中で1人でいて、放課後になるとすぐにどこかへ消えていく。
甲斐はどこへ行っているのだろう。
……図書館か?
甲斐と初めて会ったのは図書館だった。
それまで図書館で見かけたことがないから考えてもみなかったが、甲斐はもしかすると図書館にいつもいるのかもしれない。
だとすれば月曜日だ。ちょうど図書委員の仕事がある。そこで甲斐に会えれば良いが……
2人きりで会って謝罪さえできればこちらのものだ。
罪悪感とはおさらばしていつもの日常を取り戻せる。
こんなことでいつまでも悩んでいられない。
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迎えた月曜日の放課後、彼女は図書室へやってきた。
正確には、放課後になって教室を出た甲斐を尾けて図書室へ入るところを確認したのだ。
先週のように下校のチャイムに気がつかないとも限らない。用事があって早く帰ってしまう可能性だってある。
委員会にはまだ時間が早いが、声をかけるなら今しかなかった。
あの場所で今も1人、人の気持ちを知ろうとしている彼女と話をしなくては。
図書室はあいも変わらず閑散とした空間だった。
俺は足音を殺して本棚を縫うように進んでいく。その足取りは重い。
甲斐が座っているであろう最奥の席に近づくほど嫌なことを考えてしまう。
甲斐になんて話しかけたらいい?
甲斐と話しているのを誰かに見られたら?
そもそも、甲斐はもう問題を解決していて、俺が話しかけるのが迷惑でしかない可能性もあるだろう。
自意識過剰なのはわかっていても、自然と湧いてくるものは仕方ない。
思考は制御できないものだ。勝手に湧き出す感情を整理することしかできない。
1度足を止めてゆっくりと後ろを振り返る。
今日は気配を殺して背後を取るような趣味の悪い人間はいないらしい。
角を曲がれば甲斐がいるはずだ。
未だ落ち着かず、湧き出てくる思考から一度目を逸らす。
やりたいことは逃げ出したことの謝罪で、謝ればそれでおしまいだ。
甲斐の提案に協力できないことは心苦しいが、できないものはできない。
とにかく余計なことは考えずに目的を果たせばそれでいいんだ。
長居はしない。少し話してすぐ帰る。それだけだ。
ゆっくりと書架の間を覗く。
その場所に甲斐は1人で座っていた。
背筋をピンと伸ばしてお行儀良くページを規則的にめくっている。
俺は甲斐にだけ気づいて欲しくて、わざと足音を立てながら近づく。
静かな図書室で少しだけ響く足音に、彼女はすぐに気がついてくれた。
甲斐はこちらを見ると少し驚いた顔をして、それからいつも通りの機械のような無表情に戻った。
俺は本棚から適当に本を取り出して甲斐の隣に座る。
そして癖がついて開きやすくなった真ん中あたりのページを開く。
並んで座って小声で言葉を交わす。
お互いに本を読んでいるから目線は交わらない。
「何か用ですか?」
それはそれは熱のない声で、今にも怒られるんじゃないかと錯覚しそうだった。
彼女にとってはこれが普通で、教室でも同じトーンで喋っているはずなのに、いざその声が自分に向けられると耐えられない。
少なくとも先週ここで話した彼女の声はもっと生きていた。
「先週の話、続きがしたくて」
「迷惑だったよね、ごめん」
「こちらこそ、逃げるみたいになって、それを謝りたかったんだ」
「それは気にしてないよ。あれ以上ないんじゃなかったの?」
「ないって言うのは?」
「協力することはできないんでしょ? だったら、無理はしなくていいよ。強引にお願いして本当にごめんね」
声色がほんの少しだけ寂しさを含んだように聞こえて、俺は思わず目線を甲斐に向けてしまった。
その表情が一週間前に見たものと同じで、ずっと頭から離れなかったあの顔で、覚悟を決めていたのに俺は彼女を見捨てることができなくなってしまった。
それどころか、ここで自分だけ満足して帰るなんて余計に罪悪感が湧いてしまいそうだった。
「聞かせて欲しいんだ。甲斐の事情とか、どうなりたいとか。力になれる気は正直しない。してあげられることも限られてると思う。でも、逆にそれくらいならできると思うから」
だから絶対に言うべきではないことを口にしてしまう。
甲斐は驚いた表情になって、それから少し顔を綻ばせた。そこからはもう止めようがない。
「じゃあ、先週みたいに図書室に残ってたらいいかな?」
「うん、他の委員にはうまく伝えるからまた後で、ここで」
天秤はいつだって自己保身に傾いていたはずなのに、甲斐笑顔に当てられて逆方向に傾いてしまった。
それでも心の引っかかりが取れたように思えたのは、甲斐の笑った顔が見られたからだろう。
来たくなかった場所なのに、今はもう少しこの場所にいたいとさえ思えた。