07. うさぎと虎
放課後はようやく訪れた。休み明けで面倒くさかった昨日の何倍も長い時間を過ごしたような気がするが、成したことは何もない。
重い足取りで文芸部の部室へ向かう。
そういえば本、結局全然読み進められてないや。
ぺちん。
足音もなく、突然背後から背中を叩かれて俺は体を跳ねさせた。昨日の御手洗を思い出して苛立ったが、続く音が俺の聞きたかった声だったからすぐにそんな気持ちは消えていった。
「浮かない顔してどうしたの?」
「顔は見えてなかったでしょう、椎菜先輩」
「でも、正解だったね」
椎菜先輩は俺の顔を指差して微笑んだ。
「何やら悩んでいるようだね」
「背中に書いてありました?」
「背中だけじゃなくて顔にもだよ。それに、オーラも出てた」
「オーラ?」
「私に話を聞いて欲しいって」
椎菜先輩はこういうことを恥ずかしげもなく言う。
それが的外れじゃ無いのもタチが悪いところだ。
実際、俺は今回の話を誰かに相談するならこの人だと思っていた。正直なところ、他に相談できる相手が1人もいない。俺の中の信頼できる人ランキングは常に椎菜先輩が単独トップで、信頼できない人ランキングもまた然りだ。
とことん、甲斐のことをどうこう言えた立場ではない。
「俺、学校じゃああいうキャラクターでやってるじゃないですか?」
「寡黙な文学少年だよね。だいぶ板についてきたんじゃない?」
「そうですかね?」
「キャラ変したくなった? もしかしてゴールデンウィークデビューに失敗した?」
「そんなんじゃ無いですよ」
「だろうね……部室へ行く前にコンビニ寄ってお菓子買っていこうよ」
椎菜先輩は部室を目前にUターンする。俺の話が長くなると見たのだろう。
なんでもお見通しだ。
「教室の隅っこで本を読んでる地味なやつが突然、教室のど真ん中でクラスで1番可愛い子に声かけたら目立っちゃいますよね」
「そうだね。めちゃくちゃ目立つだろうね」
椎菜先輩はわかっていて続きを言わない。
俺から言葉が出てくるのを待っている。
椎菜先輩は意地悪だ。
「だけど、例えばどうしても声をかけたいとするじゃないですか。そういう時はどうすればいいんですかね?」
椎菜先輩は俺の過去も今も知っている。だから隠す必要がない。
「恋でもしたのかな?」
ふざけて茶化すと椎菜先輩のツインテールがはしゃぐように揺れる。
左側の尻尾が肩に触れていい匂いがした。
「そんなんじゃないですよ」
それ以上は言わない。言えない。
俺のことはいくらでも話せるが、甲斐の秘密を話すつもりはなかった。
自然と察されるのなら仕方ないが、伝えなくともこの会話は成り立つ。俺の問題は解決できる。だから話さなくていい。
俺の日常と甲斐との和解。どちらもは得られないのかもしれない。
「二兎追うものは一兎をも得ずってやつですかね?」
「健二くん、それはちょっと違う気がするよ。君が今追いかけているのは1羽のうさぎさんだけじゃないの?」
椎菜先輩が両手を頭の上に持ってきてうさぎの真似をする。ツインテールもうさぎの耳のように跳ねる。
「むしろ虎穴に入らずんば虎児を得ずだと思うけどね。うさぎあるいは虎の子を捕まえるために、君は自分の命を賭けなきゃいけない。だからうさぎを取るか平穏なる学生生活を取るか、天秤にかけて測りかねている。私にはそんな話に聞こえるよ」
椎菜先輩は両手を秤のように上下に揺らす。
それに合わせて左右の髪もゆらゆら揺れる。
「どちらかに振り切ってしまえば結論も出て楽なのにね」
「椎菜先輩だったらどうします?」
「私だったらうまくやるよ」
その言葉はとても自信に溢れていた。
「そのうまい方法を教えて欲しいんですよ」
「それは企業秘密。それに、私にとってのうまい方法が君にとっても良い方法とは限らないよ」
「どういうことです?」
「エセ文学少年・赤嶺健二と校内きっての才媛たる私・三重野椎菜じゃ条件が違うからね」
自分でこういうことを言うのになぜか憎めない。
彼女は多くの人間から愛される人間だ。
不思議な発言も突飛な行動も許される人間だ。
残す足跡を認められる人間だ。
だから憧れてしまった。真似したくなってしまった。
「さあ着いたよ。お菓子は1人300円までね。それ以内だったら今日は優しい先輩がご馳走してあげよう」
「先輩、ごちそうさまです!」
こんな戯けたやり取りだって、椎菜先輩の前でしかしない。
「私はこれとこれとこれかな……いや、これだと10円オーバーか。じゃあこいつを戻して……」
「先輩は自腹なんだからちょっとくらいオーバーしてもいいんじゃないですか?」
「それはだめだよ。健二くんと同じルールにしないと不公平だ」
「ゲームでもないのに不公平って」
「精神的な話だよ。それに条件の中で最高の答えを見つけるのが楽しいんだ。あっ、健二くんは千尋ちゃんの分もよろしくね」
椎菜先輩はそう言いながらチョコレートを一箱棚に戻して、代わりにグミをカゴに入れる。
「先輩は財津の好きなお菓子とか知ってますか?」
「いや、知らない。だから健二くんに任せたんだよ」
「俺も知らないんですけど……」
「そんなんじゃ先輩失格だよ」
「それブーメランじゃないですか?」
「まあチョコレートは外れないでしょ」
都合の良いお耳を持ってらっしゃる。
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お会計は891円で、ちゃんと予算に収まった。
「最後の方、300円に近づけるのがメインになって本当に欲しいもの棚に戻してたでしょ」
時間をかけただけあってかなり満足のいく買い物になった気がしていたのに、椎菜先輩のその一言で最初にカゴに入れて最後に棚へ戻したキャラメルが妙に口惜しくなった。
「一つだけ言えるのは」
コンビニを出た途端、椎菜先輩は話の続きを始めた。
「この問題は答えを出さなくてもそのうち解決する。だから悩み続ける、あるいは悩むふりをして時間を過ごしていけばいい。そうすればきっと降って湧いた気持ちは落ち着いて徐々に天秤は今の君の価値を示すだろう」
「それまでは苦しめってことですか」
「苦しむのか、苦しむふりをするのかは君の自由だよ。だけどどうしても答えを出したいなら、ちゃんと向き合うことだね。上部の条件だけじゃなくて、思考を紐解いてそれぞれの価値ある部分だけ抽出するんだ。そうやって不必要なものは全部取り除いて、残った価値あるものだけもう1度秤に置く。その上で天秤がどちらに傾くか、改めて試せば良い」
それは一応やったつもりだった。昨日の夜、今朝、ついさっきだってこの24時間はずっとそんなことばかり考えている。
「それでも振り切れなかったら?」
「最後は自分の意思だよ。それしかない。決められたならそれこそが君にとって価値があるもの。決められないなら君にとってどちらも最優先される程に大切なものではなかったと言うことだ」
そこで話は終わりとばかりに椎菜先輩は踵を返した。
「さあて私たちの部室に向かおうじゃない! 可愛い後輩が1人寂しく待ってるし」
「案外、椎菜先輩が来るとうるさいから1人を満喫しているかもしれませんよ」
「なんですって!? じゃあ千尋ちゃんには私のお菓子も分けてあげることにしようかな」
「それじゃあ300円オーバーしちゃいますよ」
「私の気持ちは無償の愛だからセーフだよ」
「思いっきり打算的な気がするんですけど……」
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椎菜先輩が部室の扉に手をかける。
「あ、それとね。私はうさぎと虎だったらうさぎが好きだから」
「え?」
「後輩だけじゃなくて先輩のこともちゃんと知っておきなさい!」
椎菜先輩が扉を開く。俺の時は全然スムーズに開いてくれないのに、椎菜先輩はいとも容易くその扉を開け放った。
「千尋ちゃん、お待たせ。お菓子買ってきたからみんなで食べよ!」
椎菜先輩には敵わない。
結局答えは出なかったが、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
やっぱり彼女は俺の憧れの人だ。