06. 1人分の隔たり
昨日の夜は何も手につかなかった。寝つきが悪くていつまでも夜が続くと思ったらいつの間にか朝だった。
せっかく作ろうと思っていたオムライスも、帰りがけにスーパーへ寄り忘れたから作れなかった。代わりに何を食べたかと聞かれると正直覚えていない。机の上には買いだめていたカップ麺の空が転がっていた。
ゲームだってそうだ。図書委員の仕事をしているときはワクワクしながら攻略法を考えていたのに、気がつけばゲームオーバーの文字がテレビに映し出されていた。
財津と約束した本はただの一文字も読み進められなかった。
見てもいない夢の続きを進むように学校へ向かうと、図書委員会の顧問に呼び出されて施錠忘れを怒られたが、そんなことはどうでもよかった。
鞄の外ポケットに手を入れると、図書室の鍵につけられた鈴がチャリンと鳴った。
鍵を顧問へ返し、頭を下げて教室へ向かう。
心を伴っていない行動はともすれば機械と変わらないのかもしれない。
俺はいつもと変わらない教室へ入り、冷たい自席に腰を下ろして椅子が自分の体温と同化するのを待った。
彼女は今日、どんな顔をして俺の隣に座るのだろうか。
過ごした時間も重ねた言葉もほんのわずかだが、俺たちは狭く苦しい空間を共にしてしまった。
そのことは何の価値も意味も持たない。だとすれば昨日のあの時間は全て無かったことにできないだろうか。
俺の頭からはどうしても彼女が流した涙が消えなかった。
彼女の頬を伝う雫の意味を考えずにはいられない。
意味を問うくらいなら昨日、逃げ出さなければよかったのに。
保身に走って、逃げて、後悔して。取り戻そうとした結果余計に失ってしまう。
中学生の頃から変わらない悪癖だ。
その時はすぐに訪れた。
朝のホームルームが始まる5分前。甲斐真希奈は決まってその時間に教室へ入ってくる。目覚ましが毎日同じ時間に鳴り出すように、それは変わらない。
今日もその時間になると彼女は教室へ入ってきた。誰からの挨拶も無いし誰にも挨拶をしない。それがこのクラスの当たり前だった。そこに悪意はない。
教室は昨日と変わらない1日を始めようとしている。教室に馴染まない窓際最前の俺だけは昨日と意味合いが違う1日を過ごそうとしている。甲斐は果たしてどうだろうか。
甲斐の表情はいつもと変わらない無味乾燥なもので、俺を見ることもない。
昨日の出来事がまるっきり無かったことになっているみたいだった。
それで俺も彼女と同じように全てを無かったことにできるのならば、夢か幻だったと信じられたらどれほど幸せだっただろうか。
あの言葉は、仕草は、涙は全て俺にこびりついて離れなかった。
———————————————————————————————
授業が始まっても甲斐はいつもと変わらなかった。教室の最前で真面目に授業を聞く彼女は教師からの受けが良い。教師からの問いかけにも甲斐は淀みなく、正解を答える。そんな時、「すごいね」と一言声をかけてくれるクラスメイトが存在したら彼女は救われるのだろうか。
昼休みに机同士をつなげることもなく、黒板を向いて弁当を食べる。輪の中心にはなれなくても、どこかのグループの端っこに彼女の居場所があれば、弁当の味がもっと美味しくなるのだろうか。
委員会の仕事を手伝ってくれる友達が、帰りがけ寄り道に誘ってくれる友達が、授業のわからなかった部分を聞きにきてくれる友達が、どれか誰か1人でもいれば、彼女は幸せになれるのだろうか。
『人の気持ちがわからない』と彼女は言った。周囲からの呼び名に違わぬ”機械”のような発言だが、その裏ではうまく話せないもどかしさや、1人でいることの寂しさ、なんとか改善したいと願い努力するひたむきさ、それ以外にもきっとたくさんの感情が秘められているはずだ。全然”機械仕掛け”なんかじゃない。
表情が一切変わらないのは、困った顔や寂しそうな顔をしてもその先が見えないからだ。一時的に差し伸べられた手を掴めたとしても、その後のコミュニケーションに自信がないから結局同じことを繰り返してしまう。それがきっと怖いのだろう。
だからといって俺のように1人を選ぶこともできない。
そうやって鉄仮面の裏で迷い、悩み、苦しんでいることを誰も知らない。
誰か気づいてあげてくれ。
昨日まで彼女の真実を知らなかった俺が偉そうに言えた義理ではないが、誰かに彼女のことを気づいてもらいたい。救い出してもらいたい。甲斐真希奈のことはよく知らないが、彼女が悪人ではないことは昨日の会話の中でわかった。年相応な等身大の女の子なのだろう。
しかし俺は知っている。
そんな“誰か”が存在しないことを。
“誰か”になるには相当な覚悟が必要だ。成り行きや軽い同情では務まらない。覚悟を持たない”誰か”に救いを与えることはできない。
それがロクに関わったことのないクラスメイトなら尚更だ。
だから俺も力になれない。なれないのに目で追って救われてほしいと無責任に願う自分が醜く思えて嫌になる。これじゃああの時と一緒じゃないか。
もう一度だけ甲斐と話がしたかった。
昨日見捨てるように帰ってしまったことと、力になれないことを謝りたい。彼女がそれを望んでいないことは知っている。彼女が求めているのは謝罪ではなく救済だ。それでも、このままじゃ俺は弱っているクラスメイトを見放しただけの薄情者だ。それが事実であることは変わりないが、せめてそこに拒絶がないことを知って欲しかった。甲斐が悪いのではなく俺自身の問題なのだと。これが俺自身を救うためエゴだということは気づいている。それでもやらなくてはならない。
そうしなければ、俺はまたあの時と同じことを繰り返してしまいそうだ。
———————————————————————————————
しかし待っているだけでは甲斐と2人で会話をするチャンスはやってこなかった。
授業中はもちろん声をかけられないし、授業間の5分休みも甲斐はたいてい席から動かない。昼休みも同じだ。彼女はいつも単独行動をしているが、その周りにはたくさんの人がいた。
誰にも見つからない場所で隠れているのではなく、集団の中でぽつりと1人浮いているのだ。不幸なことに彼女がそれを望んでいないことを誰も知らない。
昨日、甲斐を見つけたのが御手洗だったらもっとうまくやっていただろう。
どこか嘘くさくて仲良くなりたいとは思わないが、御手洗は多分そういう時に迷わず手を差し伸べられる人間だ。そういう人間だからこそ多分好きになれないんだろう。
2人の時でさえまともに会話できず自分を守ることに必死だった俺がこんな大勢の中で声をかけるなんてできるわけがない。一言声をかけて、教室の外へ連れ出せばいいのに。多くのクラスメイトはそれを難なく達成できるのに。俺はたまたま周囲に誰もいない状態の甲斐を見つける以外に声をかける術を持たない。
どうしても席を立ち上がることができなかった。
それどころか、彼女はすぐ隣の席なのに手を伸ばすことも声を発することさえもままならない。
昨日のような偶然を期待するしかできない。
俺はどこまでも臆病者だった。