31. 憧れへの漸近
月曜日、椎菜先輩は本当に俺の前に現れなかった。
「今日は三重野先輩、お家の用事とのことでお休みだそうです」
部室で財津が教えてくれたことだ。
月曜日は、どんなに辛いことがあっても必ずやってくる。
甲斐との短かった関係が無くなって、今度は椎菜先輩との関わりが消えようとしている。
甲斐との関係は"元に戻った"とも表現できるが、椎菜先輩との関係は失ってしまうわけにはいかない。
土曜日に椎菜先輩から課された題目は俺が俺自身を知ることだった。
だからといって俺が日曜日1日かけて赤嶺健二という人間に関するレポートを10枚でも書いてくれば満足してくれるかといえば、そうではないらしい。椎菜先輩は俺よりもその他大勢が見ている俺の方が多いと言った。
見ているだけの人間には俺の内面はわからない。だいたい、俺は文学少年という姿を見せている以上、それだけの答えしか返ってこないはずだ。そんなことを何人に答えさせたところで椎菜先輩の知りたい答えが出るわけでもないのに。
「あの……赤嶺先輩、今日はお身体大丈夫ですか?」
「え?」
財津は先週と同じように、俺を案じるような言葉を投げかけてきた。
「いつもいつも聞いちゃって……本当に見当違いだったらごめんなさい。気を悪くされないでほしいですけど、ただ、やっぱり心配で……」
「財津はなんでそう思ったの? 俺が体調悪そうに見えた?」
思えば財津は今まで何度も俺が意識していない俺を指摘していた。
彼女には俺がどう見えている?
「えっと、先週も話したみたいに本を読んでる姿がいつもと違うとか、部室に入る時の表情とか、鞄の置き方とか……どれかひとつじゃなくて、色々合わせてそんな気が……します」
「それってさ、いつも俺のことを見てる前提だよね?」
「すみません! ストーカーみたいで気持ち悪いですよね」
財津は慌てて言葉を取り消すように本で口を塞いでしまう。
「いやっ、そういうわけじゃなくて、なんで俺なんか見てるんだろうってことだよ。別に俺たちってわざわざ顔を突き合わせて表情見なきゃいけないような部活じゃないし、たいていお互い本で顔が隠れているのにって意味。そこまでして癖って言えばいいのかな? 相手の特徴とかを見る意味がわからないというか」
財津は焦っていたが、俺も相当焦っていた。
財津なら、何か手がかりになるものを教えてくれるかもしれない。
「それは、同じ部活の先輩には元気でいてほしいですし……」
口を塞いでいた本を目の下まで持ち上げると彼女の表情が隠れてしまう。
「それだけ?」
「……はい」
「そっか」
部活の先輩にそこまで気がつかえるのだとすればそれは財津の美徳だ。
期せずして財津のことを知るに至ったわけだが、椎菜先輩の課題については未だ白紙のままだ。
しかし、そんな彼女だからこそ俺の表情の僅かな変化さえ見逃さなかったのだろう。
「すみません、やっぱりそれだけじゃ……ないです」
彼女は一瞬ハッとしたように目を見開くと、本をおいて代わりに大きく俯きながら先程の言葉を訂正した。
「先輩を見ていたのは……赤嶺先輩が特別です」
特別という言葉にドキッとする。彼女の表情は見えない。
俺はかける言葉を見つけられず、財津の次の言葉を待った。
「先輩は、今年の1月に女の子を助けたこと覚えてますか?」
言われてもピンとこなかったのは俺にとって大した話ではなかったからだろう。
「高校入試の日、体調を崩した私に声をかけてくれたの……赤嶺先輩ですよね?」
そこまで聞いてようやく思い出す。近所で起きたちょっとした気まぐれによるほんの僅かな手助けでしかなかったあの出来事を。
「あの時の中学生って財津だったの?」
「そうです。あの時はありがとうございました」
一瞬顔を上げてまたすぐに下げた財津の目が潤んでいた。
「私が先輩を見ていたのはあの時助けてくれた恩人だったからです。だから特別で、そんな人には嫌な思いとか、辛い思いはしてほしくないって思って……」
財津の想いに言葉が詰まる。
あれは本当に大層な何かがあったわけではないのだ。
むしろもっと醜悪な感情だ。
冬の寒い日にバス停近くで体調悪そうにうずくまる女の子がいて、みんな見て見ぬふりをしていた。
そのうちバスは来ただろうし、すぐそばには学校もある。俺だっていつもそんな人を助けているわけじゃない。
その日は気づいてしまったから、見過ごしたら後味が悪いなと思っただけで。
その頃は椎菜先輩みたいに先輩らしいことをしてみようと考えてた時期だから、先輩らしい行動の真似事に興じてみただけで。
その時は人助けをするだけの時間と心のゆとりがあっただけで。
良いことをすればまた良い子になれるんじゃないかとほんの一瞬、頭をよぎっただけで。
放っておいても大丈夫な程度に見えたから、逆にいえば失敗しても大きな影響は出ないと踏んだだけで。
そういういくつものプラスと打算がたまたま重なってできた小さな勢いに気まぐれで乗っかっただけで、理想も理念もないその場限りの人助け。
まさかそれを恩に感じてこうしてお礼まで言われるとは思ってもみなかった。
お礼を言われて初めて、あの日の無責任な行いがひとりよがりで自分勝手な行いだったことを自覚する。
だって助けた子がその後どうなったのか、興味ひとつ持っていなかったことに今更気づいたのだから。
「あれは全然、大したことはしてないよ」
「先輩にとっては大したことじゃなくても、他の人が通り過ぎる中で差し伸べてくれた手はすごく暖かかったです」
「でもそれは……こういう言い方は傷つけることになるけど、財津を助けたくてやったわけじゃなくて俺がなんとなくでやっただけのことなんだよ」
気づいた以上、言わなくちゃならないと思った。
ここで恩を打って財津から尊敬や恩義や好感を得るのはひどく狡くて醜いことに思えた。
「それでも、私にとっては大切な支えになりました。それが先輩の中でどんなきっかけや理由でも関係ないんです。私にとっては差し伸べてくれた手であることに変わりはありませんから……それに、私はどんな理由であれ見ず知らずの誰かを助けられる人は優しい人だと思います。私は赤嶺先輩が困った人を放っておけない素敵な人だと言うことを知っています。だから応援したいと思うし、元気がなければ支えになりたいと思います。そしてもっと知りたいとも思うんです……だから、私にももっと先輩を見せてほしい……です!」
やっぱり他人は俺のことを正しく観ることなんてできない。
俺があの日抱いた感情はそんなに純粋なものじゃない。もっと暗く濁っている。
でも、収穫が2つある。
1つは俺が他人に見せている面が文学少年以外に存在するってことがわかったこと。
もう1つはそんな邪な動機でも、お礼を言われるのは嬉しいってことだ。
「……ありがとう」
「お礼は、こちらのセリフですよ。それと……知り始めより少しわかってきてからが楽しいのは人も本もおなじだと思うんです。だから……最初はつまらないかもしれませんが、私のことももっと見ていただけると嬉しい……です」
本が読んでいくうちに面白くなって途中から止まらなくなることは、財津のお陰で知ることができた。
きっと人も同じなのだろう。
財津が俺を文学少年以上の何かとして認知してくれたように、俺も彼女を文学少女以上の何かとして見ることができるのかもしれない。これまで見ようとさえしていなかったのだから、これはかなり割の良い賭けだ。
いつだったか、財津の言葉には心がこもっていると感じた。
心が伴う言葉は人を動かすことができるのかもしれない。
だとすれば、彼女の言葉には俺自身の言葉で答えよう。
「じゃあ財津のこと色々と教えてもらおうかな……とりあえず、なんで今までその時のこと黙ってたの?」
「それは先輩が私のことをこれっぽっちも覚えてなさそうだったからです!」
財津が不服そうに頬を膨らませる。
それは俺がイメージ付けていた文学少女としての財津千尋が決して見せることのない表情で、俺は早速彼女の新しい一面を知ることができた。




