01. 憧れの人
一週間ぶりの授業はいつも以上に長く感じて、退屈な学校生活に拍車をかけるようだった。そう感じていたのは俺だけではなかったようで、帰りのホームルームが終わる頃にはすっかり教室の集中力は切れており、放課後を目前にした弛緩した空気が流れている。
委員長の号令に合わせてまばらな挨拶を終えると、俺は席につくことなく教室を出ることにした。
鞄を肩にかけて歩き始めると、甲斐の背中がスッと俺の前に現れる。俺を遮ったわけではないのだろうが、特段俺に気をつかうそぶりもない。そんな道端の石ころと変わらない扱いは、俺が大切に座っている椅子を如実に表すようで、俺はホッとする。石ころの気持ちなどつゆとも知らないであろう彼女の背中は”機械仕掛け”という呼び名がよく馴染んで見えた。
彼女はこれからどこに向かうのだろうか。ふと頭に浮かんだ疑問はよくよく考えれば俺にとって何の価値もない情報で、だからその疑問に対する興味はすぐに消え失せた。
部活の準備をしたり寄り道の相談をしたり、教室の喧騒に追い出されるように俺は甲斐の後ろに続いて教室を出る。
そしてこの学校において唯一、俺自身が選んで所属した場所へとまっすぐ向かうことにした。
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その場所は特別教室棟の2階の一番奥にあった。
普通教室棟と渡り廊下を挟んで隣、北側に位置する特別教室棟はグラウンドや体育館からも離れている。俺が渡り廊下を渡り終えるころにはあれだけ耳障りだった喧騒もすっかり聞こえなくなっていた。
それから一階分だけ階段を降りると見慣れた先輩が壁にもたれかかっていた。
「椎菜先輩」
「やっ! 待ってたよ」
先輩は軽く右手を上げると俺の方にゆっくり近づいてきた。
彼女、三重野椎菜は俺の先輩で、俺の居場所である文芸部の部長で、俺の憧れの人だ。
甲斐が2年の顔なら椎菜先輩はこの学校の顔と言えるだろう。成績は良いし運動神経も抜群、家柄もかなりいいらしい。性格は天真爛漫で分け隔てなく、俺のようなやつも目にかけてくれる。人が集まればその輪の中心にはいつも椎菜先輩がいる。
頭にぴょこんと生えたツインテールや誰も理解できないような持論を展開するところは天衣無縫な子どものようで、大人びた顔立ちや意外とハスキーな声は百戦錬磨な大人のようで、とても不思議な人だ。
「こんなところでどうしたんですか? 部室行きましょうよ」
「いいや、ここは通せないね」
椎菜先輩は俺の前に立ち塞がると、人差し指と首を横に振った。合わせてツインテールもゆらゆらと揺れる。
「私は今日、塾があって部活に行けないんだよ」
「そうなんですね。じゃあ勉強頑張ってください」
俺が目の前の椎菜先輩を追い抜こうとすると椎菜先輩は俺の左手首をぎゅっと掴んだ。
「えっ、ちょっ、なんですか!」
俺の反応に満足したのか椎菜先輩は不敵に微笑んだ。
「ずいぶんつれないじゃないか。5日ぶりの私に積もる話もあるんじゃないのかな?」
「5日程度で何かが起こるほど劇的な生活してませんよ」
「私は君と話がしたいよ。散歩がてら校門まで私を送っていってよ」
「いや、まあ、はい。いいですけど」
「そうそう。私の前では素直でいるのが1番だよ」
椎菜先輩が俺から手を離す。離れてから気づいたが、彼女の手はとても冷たかった。
「それで、話ってなんですか?」
階段を並んで降りる。
「君は好きなものを最初に食べるタイプなのかな?」
「最後にとっておくタイプですね」
「あれれ? おかしいな」
「先輩の話したいことが俺にとって好きな食べ物とは限らないですよ」
「なるほど。じゃあ情緒を重んじないタイプということだね」
「ひどい言われようですね。先輩の話す内容が気になったから聞いただけなのに」
「おや、もっとムキになって反論するかと思ったのに」
「素直が1番って先輩の教えですよ?」
「そういうひねくれたところは相変わらずだなぁ」
椎菜先輩は唯一、文学少年を装う前の俺を知っている人だ。だから余計な気をつかわずに話せて楽しい。
一方で、今の俺のあり方に強く影響を与えた人でもある。だから失望されないように余計に考えて話さなきゃならないのが難しい。
「先輩って塾通ってましたっけ?」
「連休中の短期講座を受けてたんだよ。塾側の都合で1日延びちゃったから今日も補講ってわけ」
「学年1位の先輩なら塾なんかいらないんじゃないですか?」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないの。でも私だって今年は受験だよ? 競うべき相手はこの高校だけじゃなくて全国にいる。そういう視点で見れば私なんてせいぜい上の中だよ」
「とても卑下してるようには聞こえませんね」
「卑下しているつもりはないからね」
俺たちは顔を見合わせると笑い合った。
「それにしても、これまで塾に行ってなかったのに入学からずっと学年トップなんて本当にすごいですよね」
「君の学年の機械仕掛けの乙女ちゃんだっけ? 彼女もそうじゃなかったっけ?」
「あー、確かにそんな噂もありますね」
甲斐真希奈は入学当初からずっと学年トップという噂だが、そもそも彼女が誰かとテストの点数を見せ合う姿が想像できないし、実際見せ合っていないのだろう。他に1位をとっている生徒がいないことから限りなく確信に近いが、裏取りが無いゆえに噂の域を出ないのだ。
「健二くんも乙女ちゃんに勉強を教えてもらえばいいのに」
「だったら椎菜先輩に聞きますよ。クラスだと俺のキャラもありますし、甲斐に聞いて教えてもらえるとはとても思えないです」
「それは話してみなきゃわからないじゃない。意外と彼女も機械かぶってるだけかもよ」
「機械かぶってるって何言ってるんですか?」
「猫かぶってるっていうでしょ? それの機械版。案外素顔はただの可愛い乙女かも」
「想像つかないですね……」
「文学少年かぶって1人でいる君がそれを言うかな?」
言われてみればその通りかもしれない。彼女も望んで他者を寄せ付けず、完璧な振る舞いをしている可能性は否定できない。
「だとすれば、俺が勉強を聞いたところで断られそうですけどね」
「確かにそうだね」
椎菜先輩はケラケラ笑いながら下駄箱に向かう。
俺がついて行って見送ろうとすると、椎菜先輩は俺の学年の下駄箱を指さした。
「メインディッシュはこれからだよ」
「はいはい。わかりましたよ」
先輩と話すのは楽しい。俺は素直に自分の靴を取ってすぐに椎菜先輩のもとへ向かった。
「それでメインディッシュはどんな話なんですか?」
「よくぞ聞いてくれました! それはズバリ、今日の部活についてです!」
ピンとこない俺をよそに椎菜先輩は続ける。
「千尋ちゃんが4月に入部して以来、千尋ちゃんと君と私の3人で部活をしてきたわけだけど今日初めて千尋ちゃんと君の2人っきりになるわけだ。私はそれをちょっぴり不安に思っているんだよ」
何を言っているのかわからなかった。
「これまでだって3年生の授業終わりが遅いとかで2人の時間はありましたけど、特に何もなかったですよ」
「それが問題なんだよ! 私が遅れて入った時に空気が重いな……と何度思ったことか。千尋ちゃんは我が部唯一の新入部員! 良好な人間関係を育んでいかなくちゃならないんだよ。それなのに健二くんときたら……今まで千尋ちゃんとしっかり会話したことある? 来年は私いないんだよ? 2人で部を盛り上げなきゃなんだよ?」
椎菜先輩は身振り手振りを混えながら全身で俺に訴えかけた。ぶんぶんと鞭のように振われるツインテールが肩にぶつかる。その表紙に柔らかい香りが鼻をくすぐった。
財津千尋は4月に入学したばかりの1年生で、入学式の翌日には文芸部に入部するほどの筋金入り文学少女だ。常に分厚い本を静かに読んでいて、椎菜先輩や俺なんかよりよっぽど文芸部していた。部活中に先輩から世間話をされたら喜ぶよりも読書の邪魔をされたことに怒りそうな気もする……いや、怒るとような姿が想像もつかない大人しい少女だ。
「でも、財津に話しかけても迷惑じゃないですかね?」
俺が思ったままの感想を伝えると、椎菜先輩はじっとりと俺を睨みつけた。
「健二くん、本なんてどこでだって読めるんだよ。なのに千尋ちゃんはわざわざ文芸部に入ってくれた。この意味を考えたことある?」
「いや……」
言われてみればその通りだ。
「部活が強制じゃないこの学校で文芸部に所属するということは、何かしらの繋がりを彼女は求めているんだよ。それがどういう繋がりかは本人しかわからないだろうけど、繋がりを求める後輩に手を差し伸べるのは先輩の務めじゃないのかい?」
「……椎菜先輩のいうことはわかりました。まあ、やるだけやってみます」
俺の煮え切らない返事に椎菜先輩は満足したように頷いた。
「よくぞ言った! それでこそ私が目にかけている後輩だ。期待しているよ」
椎菜先輩は俺の方をポンと叩くと俺の前に立ち塞がるように振り返った。
「ここまででいいよ。ありがとう。君の活躍に期待している! それじゃあ、また明日部活でね!」
俺は走り去る椎菜先輩の影が曲がり角に消えていくまで見送った。
ああ言った手前、今日の部活で財津と何かしらのコミュニケーションを取らなくてはならない。
俺はゆっくり、時間をかけて部室へ向かうことにした。