17. 過去と今の間で
「あれ? 椎菜先輩1人だけですか?」
明けて火曜日の放課後、部室には椎菜先輩の姿しかなかった。
「千尋ちゃんは今日、おうちの用事だって」
「そうなんですね」
俺は片手で扉を強く引っ張って閉じる。最近、この扉を開け閉めするコツが掴めてきた気がする。
俺はいつもの席に座って、いつも持ち歩いている件の本を取り出す。最初は読むのに苦戦していたこの本だったが、読み進めるごとに段々と面白さがわかってきた。この分なら今週末で読み上げて、週明けには財津と感想が語れそうだ。今ならこの本について財津とたくさん語れる気がする。話たいシーンやセリフ、感情がいくつもある。こんな遅々としたペースで良ければ、財津と文芸部らしいことを今後も続けてもいいんじゃないかと早くも思い始めている。
「2人っきりだと去年のことを思い出すね」
静かな時間がしばらく流れてから、珍しく本を読んでいた椎菜先輩が手を止めてぽつりと呟いた。
「そうですね。たった2ヶ月前のことなのにずいぶん昔のことみたいに感じますよね」
俺も読みかけのページに栞を挟んで机の上に置く。財津が来てからこそ、文芸部らしく読書をする姿がこの部屋にもあったが、それまでは椎菜先輩と俺でおしゃべりをするだけの時間の方が多かった。
「そう思うのは君が変わったからじゃないかな?」
「俺は何も変わって無いと思いますけど」
見渡す部室の景色は去年までとほとんど変わらない。向かい合わせで置いていた2つの机が、今は財津の分を合わせて三角形を描いていたり、相変わらず埃をかぶっている古ぼけた本棚の端に少しだけ財津の本が並んでいたり、変化と言えばそういった僅かな財津の痕跡くらいだ。
「変化ない平坦な道を歩き続けているならきっと1年前の景色も今の景色も変わらないよ。そして1年前のこともつい昨日のことのように思い出せるはずさ」
「そりゃ1年前と比べれば多少は変化してますよ。去年の今頃は椎菜先輩に色々と相談してそれを実践してましたし、今年度になってからは財津が入部して環境自体が変化してますから」
椎菜先輩が言いたかったことはこういうことじゃないんじゃないかと思う。だけど、だからって甲斐の話をここで出すのは違うと思った。
甲斐との間に形成された今の関係性は言ってしまえば事故だ。たまたま壊れた現状を修復するために彼女のことを手伝っているに過ぎない。それは一時的な変化こそ起こせど、いずれは元に戻るはずだ。
それなのに甲斐と今週末遊びに行くことに浮かれているのは矛盾してる。こういう俗っぽくて整然としていない感覚を椎菜先輩の前では晒したくない。
「私の見立てではそれだけじゃないと思うんだけどなあ」
椎菜先輩がニヤリと笑いかける。揶揄うようなその笑顔は作り物のように可愛らしい。
「さあ? 俺には何がどう変わってるかなんてわかりませんよ」
「そういう返しも、ちょっと前まではしなかったのになあ」
「じゃあ前の俺はどんな返事してたと思います?」
「ふふっ、それは内緒だよ」
「ずるいなあ」
このまま順調に甲斐が古庄と友達になって俺と甲斐の関係性が薄れていけば、俺は椎菜先輩の思い描くような答えをまた選ぶようになるのだろうか。
「まっ、何もしなくても変化はしていくから、本当に君が自分の変化を自覚していないのかもしれないね」
「自覚なくして変化するって、どういうことですか?」
「そりゃ、人は忘れる生き物だからね。そして今の自分の選択というのは過去の経験に由来する。だから判断材料が新しい経験あるいは記憶の忘却によって変化して、それが結果的に君を変化させていくんだよ」
「つまり新たな変化がないなら、俺の知らないところで忘却されているだろう過去が俺の判断材料に影響を与えていて、それで俺自身が変化してるってことですか?」
「そーいうこと。君は聡いね」
「じゃあ先輩は俺が昔のこと忘れてきてるからちょっとずつ変わってるって言いたいんですね」
無意識に語気を強めてしまった。
「まあ仮説の話だから。気分を悪くしたならごめんよ。でも過去が風化して変わっていけるってのは幸せなことじゃないかな?」
先輩も俺の不機嫌を感じ取ったのか仮説という言葉を使ってくれたが、先輩が俺に対して明確に昔のことを忘れていると釘を刺しているのは十分伝わった。
「それはそうですけど、俺は忘れてないですよ」
だから俺も対抗する。
忘れようもないのだから。中学時代に受けた言葉を、苦しみを。
「記憶ってのは自分じゃ忘れてないと思っていても実は少しずつ忘れていくものなんだよ。だって思い出せないから忘れるんだ。忘れてないことを確認するように君が過去の痛みを思い出したとしよう。その記憶に穴が空いていたとて、そこに空いている穴に元は何かがはまっていたという事実さえも忘れているならば最初から存在しないものとして判断してしまうだろう? そうして不完全な記憶を完全だと誤認してしまうんだ」
椎菜先輩が言いたいことはわかるし、なんとなくそうなのかもしれないと思ってしまう。だけど、それでも俺は納得できなかった。
あの時の痛みがあったから、今の俺は1人を選んで学校で居心地の良い暮らしができている。この行動理念に基づくのは中学時代の過ちだ。それを忘れて変化しているだなんて……
「健二くんは自分が変わっていくのを否定したいみたいだけど、そんなに変わるのは嫌かな?」
「椎菜先輩が昔はそんなこと言わなかったって風に言ってくるから、変わらない方が良いのかなって思っただけですよ」
「私に合わせてくれてるんだ。やっぱり可愛いところあるじゃんか」
椎菜先輩が椅子を近づけて、俺の頭に手を伸ばす。
「ちょっとやめてくださいよ」
「えー、恥ずかしがることないじゃん。せっかく美人な先輩がよしよししたげるって言うんだから素直に甘えなさいな」
先輩の顔がグッと近づく。それを避けるように背筋を後ろに大きくそらす。
「先輩のそういうところは出会った頃から変わりませんね」
その言葉に先輩の動きがピタリと止まった。そして波が引くように椎菜先輩は体を自分の椅子に戻すと、スッと俺と距離を取る。
「そうだね。私は変わらないよ」
その表情は作り物のように美しい。
「先輩はなんで変わらないんですか? 人が絶対に忘れるって言うなら、椎菜先輩だって忘れた分だけ変わるはずじゃないですか」
「だって私を形作る全ては過去になっていないからね。君と出会った時から、私を構成する関係も感情も全てが変わらないまま。風化なんてしない生のまま私に残ってる。過去じゃなくて今のことは忘れない。だから今もあの頃の私が保存され続けているんだよ」
「それってどういう意味ですか?」
「さあ? 君が私に全てを話してくれないように、私も君に全てを話すわけじゃないよ」
椎菜先輩はベーっと舌を出す。その無邪気な仕草は先程の精巧な美しさとは真逆のようで、本質は変わらないようにも見えた。
「知りたいなら自分から知ろうとしなきゃね」
先輩が最後にぽつりとこぼした言葉の意味を俺が考えているうちに、椎菜先輩は本を読み始めてしまった。
それを合図に俺たちの間に蘇っていた懐かしい光景は過去に戻って、今の文芸部室が形作られていった。




