12. 隣の席の気になるあの子
翌日、甲斐はいつもと変わらない時間に教室へやってきた。
ただ1つだけ、いつもと違う出来事が起きる。
いつもと同じ調子で誰からも気に留められない彼女が席につくタイミングで小さく左手をあげたのだ。
それは鞄を机に置く動作の中でとても自然に行われたので、意識していなければ気が付かないし、甲斐がそんなことをする人間じゃないと思い込んでいる人が見ればたまたまそう見えただけと解釈しただろう。
しかし彼女は俺に向かって確実に限りなく控えめな挨拶を見せた。
それに気がついてしまったのは俺も甲斐のことを変に意識してしまっていたからだろう。俺は目を小さく上下させてそれに応えた。おそらく甲斐を含めて誰にも伝わらなかっただろうが、本を置いて甲斐にわかる程度に手をあげるなんてこと、とてもじゃないが俺にはできない。
案の定、甲斐は俺に無視されたと思ったのか、僅かにシュンとした様に見えた。教室の誰も彼女の微細な表情の変化には気づかないだろう。これが俺の願望だとしたら随分恥ずかしい話だ。だから答えを曖昧にしたまま俺は目線を本へと戻した。
それからはこれまでと変わらない1日が流れた。甲斐は1人だったし、俺も1人だった。
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放課後、文芸部の部室には文芸部員が勢揃いしていた。
総勢3名の部員たちは机を3角形に並べて三者三様に時間を過ごしていた。
右斜め前の財津は相変わらず黙々と本を読んでいて、俺と感想を語り合おうと約束した本はとっくの昔に読み終わって図書室へ返却したようだ。また新しく分厚い小説を読んでいた。最近気がついたことだが、財津は本を読んでいるときコロコロと表情を変えている。今も口角が少し上がったかと思えば顔を覆うように本を持ち上げる。よほど面白い話だったのか肩も震わせていた。
かと思えば椎菜先輩は左斜め前で小難しい顔をしていた。シャーペンを上唇と鼻下で挟んで眉間に皺を寄せて、椅子を前後に揺らしながら机の上に置かれたプリントを睨んでいる。目線を落として覗いたその紙には円と三角形をいくつも組み合わせた様な図形に角度や長さが書き込まれていた。綺麗な字で乱雑に書き殴られた数式は縦横無尽にプリントを埋めており、どこがどう繋がっているかわからない。
俺はというとそんな先輩と後輩を交互に観察しながら、財津と約束した本を読んでいた。甲斐と話しができたことで気持ちが楽になったからか、昨日の夜はよく読み進めることができた。それでようやく30%と言ったところだから活字離れが甚だしい。キリがいいところまで来てしまうとつい集中が途切れてしまう。
「先輩はお忙しいと思うので、ゆっくりで大丈夫ですよ!」
いつの間にか落ち着きを取り戻した財津がうわついた俺の様子を察してか、小さく声をかけてくれた。
「ああ、ありがとう。ごめんよ。読むの遅くて」
「いえいえ、それだけ味わってるってことですよ」
そう言って微笑むと彼女はまた本を味わい始めた。
「しかし集中力散漫なのはいかがなものかと思うよ」
入れ替わるように椎菜先輩が俺をからかう。
「そういう先輩だってさっきから手が進んでないじゃないですか。そんなにその問題難しいんですか?」
「いや、見ての通り答えは出てるよ」
椎菜先輩はプリントの右下を指す。そこには541/229と書かれていた。
「随分と中途半端な値ですね。計算ミスですか?」
「計算ミスについては検算したし、どう考えても正解だと思ってるんだけどさ、こんな綺麗な答えになるのが逆に気味悪くって」
「どこが綺麗なんですか」
「これ、分母が50番目の素数で分子が100番目の素数みたいなんだよ」
椎菜先輩はスマートフォンで素数のリストを見せてくれた。
「答えが出るまで全然そんな気配はなかったのに、いざ解答を導いたらこんなに汚く見える綺麗な答えが出てきたんだよ。問題として違和感はないし、正しく成り立っているのに遊び心がふんだんに詰め込まれていて、実力の違いを思い知らされたよ」
「俺からすればこの数字を見て素数かもって思った先輩も十分すごいですけどね。俺なら計算ミスを疑いながらとりあえず答え合わせしますもん」
「もう少し約分できそうじゃない? だけど割れないからもしかして素数かなって。それで調べてみたらこんな発見だよ。作問者に脱帽だね」
「だったら椎菜先輩は何にそんなに悩んでたんですか?」
「それは大学入試の問題にここまでする理由とか、この問題を作っても誰にも解説できないし下手すれば誰からもこの素敵ギミックが発見されないのに盛り込む時の感情とか。そういうのが知りたくなって、私だったらどうするかなって考えてたんだ」
「好奇心旺盛ですね」
「受験勉強に飽きたってのももちろんあるけどね。好奇心がないと人生つまらないでしょ?」
椎菜先輩は大きく伸びをした。
「好奇心は猫をも殺すって言いますよ」
「退屈と好奇心なら好奇心と添い遂げたいかな」
君はどう? と椎菜先輩は無言で問いかけてきた。
「さて、物思いに耽るのも飽きたし、そろそろ帰ろうかな。千尋ちゃんも帰る?」
椎菜先輩の呼びかけに財津は顔をあげて時計を確認した。
時刻は17時50分。今学校をでれば2人が通学に使っているバスの発車時刻にちょうど良い。
「そうします。片付けますね」
田舎のバスはただでさえ本数が少ない上に次の便だと部活帰りの学生で溢れてしまうから、2人はいつもこの時間に部室を出る。
徒歩通学の俺も一緒に部室を出ることが多いが、今日はこの後に甲斐との約束が控えている。
「健二くんは?」
椎菜先輩の問いかけはいつものお誘いではなく、まるで断られるのがわかった上で形式的に問いかけた様だった。
「今日はもう少し読んでから帰ります」
俺は椎菜先輩の目線から隠れるように本を持ち上げる。
「そっか。じゃあまた明日だね」
そうして2人を見送ったのが17時57分。
甲斐がやってきたのはそのすぐ後だった。




