09. 機械仕掛けの正体
「じゃあ、お言葉に甘えて先に帰らせてもらうよ」
御手洗を見送って俺は図書室の扉を閉じる。
俺の理由にもならない適当な言い訳を聞いた御手洗は聞き分けよく先に帰ってくれた。
俺から追求するなという雰囲気が出ていたのかもしれないし、俺に対する興味がないのかもしれない。どちらにせよ御手洗は深入りしてこなかった。空気を読まずに聞いてくる人間と比べれば大人びている気もする。
こういうところのバランス感覚が良いから御手洗は誰からも愛されるのかもしれない。
いずれにせよ今の俺にはどうでもいいことだ。
俺は図書室の奥に向かった。
今度は誰に気をつけることもなく堂々と足音を立てて歩く。
最奥には甲斐が数時間前と全く同じ姿勢で座っていた。
遮光カーテンの隙間からわずかに漏れる夕日が彼女を照らし、はっきりと映し出された輪郭はまるで美術品のようだった。
「お待たせ」
「ううん。時間、ありがとう」
屈託の無い笑顔で迎えてくれる甲斐が眩しいのは夕日だけのせいではないはずだ。
甲斐の話を聞きたいと言ってからの短い時間でも後悔や迷いが出てきたが、この顔を見ると自分の選択が正しかったと思えた。
俺はさっき座った椅子ではなく、もう1つ隣の椅子に座る。甲斐からは椅子1つ分の空白ができた。
さっきみたいに声を殺す必要がないし、これだけ広い机なのにわざわざ隣に座るのは気恥ずかしい。
それに教室で授業を受けているときと同じ距離感だから落ち着く。
「それで……人の気持ちがわかるようになりたいんだっけ?」
目線は合わせない。下手に顔を見てしまうと緊張しそうだった。そういえば俺も文芸部の2人以外とまともに会話したのはいつぶりだろう。
「うん。先週話した通り人の気持ちがわからなくて、誰かと話そうにも言葉に詰まっちゃうの。そうやって1人でぐるぐる考えてるうちに会話する方法がわからなくなって、気がついたら誰ともうまくコミュニケーション取れなくなっちゃった」
文武に秀でて見た目も良くて、甲斐に憧れる人は男女問わず多い。それなのに今、甲斐の周りに人がいないのは甲斐のそうした態度が他者を拒絶しているように見えたのだろう。
実際、俺もこうして甲斐と言葉を交わすまではそういう風に認識していた。
「友達が欲しいんだよね?」
「うん……」
「だったら、人の気持ちが分からなくても逆にそんな甲斐のことをわかってくれる人がいると思うんだ。だから気にせず思ったことを話せばいいんじゃないかな?」
多少会話が下手で空気が読めなかろうともそんなマイナスを打ち消せるくらい、甲斐が持ち合わせているプラスは大きい。俺なんかと違って。
しかし、甲斐はそれを良しとしなかった。
「それはダメだよ。だってそれって一方的じゃん」
「一方的?」
「私が好きにして、相手は傷ついたり怒りたくなったりしても私に合わせるって、まるで接待だよ。そんなの最低じゃん……」
それはどこか、自分に言い聞かせるようだった。
「前に何かあったの?」
例えば中学生の頃にまさに今話したようなやりとりがあって友達を失ったのだとしたら、甲斐の拒絶も理解できる。
問いかけに対して返事はない。俺はここで初めて甲斐の表情を伺ったが、甲斐は言うべきかどうか悩むような表情で俯いていた。目線はじっと机の一点を見つめているようだ。
横一文字に結んでいた口を少し開いてぱくぱくと動かすが、声は聞こえない。
「人の気持ちが分からないのっていつから?」
聞くべきか迷った。しかしここまで首を突っ込んだ以上、俺もベストを尽くさなくてはならない。
「それは……」
きっと甲斐にも友達がいたはずだ。
存在しないものにここまでの幻想は抱かない。机上の空論、自分の人生には縁のなかったものとして割り切れるはずだ。友達という存在のかけがえなさを知ってしまっているから甲斐はここまで焦がれているのだろう。
逆に、一度失っていながらももう一度欲するほど彼女にとっての友達というのは素晴らしいものだったのならば、それは純粋に羨ましい。
俺には……もう一度欲しいと思えるような友達がいなかったから。
「言いたくないなら無理強いはしないよ。けど、きっかけがわかれば解決の糸口も見つかるんじゃないかな?」
「……そうだよね。せっかく赤嶺くんがこうして協力してくれているんだから、私がこんなんじゃダメだよね」
甲斐と話していて気がついたことは彼女が物事の原因を常に自分においていることだ。
相手の気持ちがわからなくて会話に時間がかかったとしても、それを待ってあげるのが友達だと言うなら悪いのは甲斐じゃなくて待てない周りの人間だ。
ここで俺がこれ以上甲斐に協力するのは無理だと根を上げたとすれば、それは俺の不義理と言えるだろう。しかし甲斐はきっと自分のことを責める。
彼女は優しすぎるのだ。
だから俺も甲斐の準備ができるのを黙って待ち続けた。
グラウンドではクールダウンにランニングをしていた野球部の声が消えて、部室へ引き返すところなのか笑い声が響いた。遮光カーテンの端から漏れる夕日はすっかり夜に飲まれかけていた。完全下校を知らせるチャイムがなるまで、先週逃げ出した時間までの時間をカウントダウンするように時計の針は規則的に進む。
「……私、中学生の時は友達がいたの。友達だと私が一方的に思っていただけだったんだけどね」
この話を始めてから甲斐がこちらを見たのはこれが初めてだろう。
俺と甲斐の視線が初めてぶつかる。その表情は自嘲的で引き攣った笑顔が見ていられなかった。
「人の気持ちがわからなくなったのも……ううん、わかってなかったんだってことを教えられたのも中学生の時。その時からずっと私は誰のこともわからなくなっちゃった」
落とした視線の先で甲斐はスカートの上にお行儀よくのせていた両手をぎゅっと握って力を込めた。そして絞り出すように、ゆっくりと話し始めてくれた。




