00. 椅子取りゲーム
俺たちは椅子を奪いあっている。
あるいは奪われないよう必死に守っている。
連休明けで浮き足立った教室に一歩足を踏み入れると、そのことをあらためて自覚させられる。
教室全体に響くほどの大声で連休中に一緒に遊んだことを早くも思い出話として語らう奴らや、隣り合った友人にしか聞こえないように誰に聞かれても困らないような話を遠慮がちにささやく連中。やっていることは同じでもそれぞれが座ることのできた椅子から転げ落ちないように、与えられた役割を全うしている姿がそこにはあった。
学校という箱庭では各人のポテンシャルに応じて座れる椅子が変わってくる。顔が良かったり運動ができたりはたまたコミュ力と称されるような対人スキルがあったり。能力があるものは何も意識しなくても座りたい椅子に座れる。いや、奴らは奪っている自覚さえなく座り心地が良い椅子に当然の如く座している。
クラスの人気者、運動部のエース、顔が広くどこにでも馴染める友人、あまり目立たないけど底が知れなくて一定の尊敬や期待を集める存在。そういうキャラクター性を認められ、そのポジションに座れた人間は多くが元々持ち合わせていたポテンシャルに物を言わせているから滅多なことがないと椅子を奪われることはない。
一方で余った椅子にしがみつくしかない人間は意識して、今自分が座れそうな椅子を必死に探して死守するしかないのだ。
可もなく不可もなくクラスの空気を壊さない人間、面倒ごとを率先して引き受けて周りに楽をさせてあげる人間、主張が弱く流れを遮らない人間。こういう人間は己を大なり小なり殺して身を縮めながら椅子に座っている。許されるスペースに収まってはみ出さないように椅子にしがみついているに過ぎない。もし彼らが声を大にして自己を主張し始めれば今認められている彼らの存在はたちまち否定されるだろう。
例えば、教室の隅で密やかに会話を楽しむことは少なくともこの教室においては誰からも咎められない。しかしこれが教室全体へ主張するような声量になるとどうだろうか。それは限られた人間、座り心地の良い椅子に無意識に座れる人間だけが許される。そうでなければ誰からともなく鬱陶しい、しゃしゃり出ていると反感を買い、いずれは今しがみついている椅子からも蹴落とされ、誰も座りたくない地べたに無理やり押さえつけられかねない。
それは極々平凡な進学校もどきの我が校においても変わらない。
そこそこ勉強ができようが、目に見えた不良がいなかろうが人が集まれば大抵の場合はそういうふうになる。行き着く先はいじめ、そこまで酷くはなくても腫れ物扱いされたり避けられたり、快適な生活は送れなくなってしまう。
だから俺も自分が座っている椅子から転げ落ちないように、あるいはこの椅子を狙う誰かに足元を掬われないように、今日も自分を演じるのだ。
物静かな文学少年としての赤嶺健二を。
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俺は教室の一番奥の最前列にある自席へ身を縮めながら進む。グループの中心人物の席は周囲に仲間が集まって一団となっているが、俺の席はぽっかりと空いていて寒々しく見えた。ついでに俺の隣の席も同じように誰も座っていなくて、俺の席はより一層教室の中で隔絶された雰囲気を示している。
それこそが俺の勝ち取った椅子だ。
鞄をそっと机に置くと中から文庫本を取り出す。ブックカバーはボロボロでページには折り目がいくつもついている。入学してから一年弱、この本は俺のキャラクターを印象付けるのに欠かせないお供だった。今日もこの本に目を下ろし、しおりを抜き取ると一定の速度でページをめくる。内容は大して頭に入っていない。
ただ、教室の隅で本を読むことに集中している風を装うだけだ。
教室では目立たず、意見を言うこともなく、決して空気を壊さない空気のような存在。そういう可もなく不可もない存在が俺の座れる最も上等な椅子だ。そこに付随する属性が例えばオタク的な趣味のようにマイナーでも仲間内で盛り上がれるようなものだったならそういう仲間たちができるだろうが、人が集まり集団になれば必ずそこでまた椅子の奪い合いが生まれる。読書をして、誰からも声をかけにくい雰囲気を出せばそもそも集団に属さなくてすむ。
だから、これが一番楽でいい。
5月のひだまりは隔絶されたこの席を暖めてくれる。お尻も背もたれも徐々に俺の体温と同化していって心地よくなる。教室においてこの椅子は誰にも譲れない。
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「なあ、赤嶺くん」
普段なら決して声をかけてこないような人間が突然、俺に声をかけてくる。本を読むふりをやめて控えめに顔をあげる。
俺は集団に属さないだけで集団からはみ出したいわけではない。教室の中心に行かない代わりに誰からもこの椅子を脅かされない。そんなポジションにいたいのだ。決して攻撃の対象になりたいわけではない。だから中村のようなそこそこのポジションにいる人間にはそれなりにちゃんとした対応が求められる。
「あ、おはよう。中村くん」
「読書の邪魔しちゃったかな? ごめんね」
「いや……どうしたの?」
本当に一体どうしたというのか。クラスメイトではあるが友人ではない。中村と教室で会話を交わすのはこれが多分2度目だ。
「あー、特に用があったわけじゃないけど、この前のクラス会来れなかったじゃん? また来月やろうぜってみんなで話してたからどうかなって」
「この前はごめんね。連休中は親戚の家に家族で行ってて。来月はいつ頃かって決まってるの?」
俺は4月に断った時に述べた理由を正確に復唱した。もっともこれは建前に過ぎない。前回のクラス会を欠席した本当の理由は行きたくなかったからだ。
クラス会に俺が出席することはキャラクターを損ねることになるし、そもそも休みの日までこいつらと関わりたくはない。参加してもどうせ気を使ってもし失敗でもしようものなら休み明けからは攻撃の対象になりかねない。
面倒とリスクしかないそんな場所に望んでいくほどバカではない。
「いや、そこんとこも含めて前回来れなかった人中心で来やすい日付にしようかって」
中村は大層お優しいことでこんな捻くれた俺にそんな言葉をかけてくれた。
虫唾が走る。
なぜみんながみんなクラス会なんてものに行きたい前提なのだ。みんなで集まって楽しく過ごしたいとみんなが思っていると信じて疑っていない。そもそも来月のクラス会を企画したみんなに俺は含まれていないのに。それなのに勝手に頭数に含んで気をつかわれて、ここで候補日をを提示してしまえば参加の義務が生じてしまう。
こんなものは企画したい人間が企画して、参加したいやつだけ参加すればいいのだ。わざわざクラス会なんて名前をつけるからクラス全員に声をかけるなんて義務が生じてしまう。
愚かなものだ。
「それはありがたいけど、6月はちょっとまた実家に帰る予定とかもあるから色々決まりきってなくて……申し訳ないんだけど決まった日程を教えてくれたら調整できるか確認するよ」
「そっか、赤嶺くん下宿暮らしだっけ? じゃあ日程決まったら教えるから」
中村は残念そうな、あるいはほっとしたような表情で俺の元を後にした。
それから中村と入れ違うように彼女はやってきた。俺の隣でもう一つ、隔絶された空間を守っていた主人だ。
甲斐真希奈、身長が高く引き締まった体型に黒く長い髪をなびかせて礼儀正しく椅子に座る。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、本来ならクラスでもっとも座り心地の良い椅子に座るはずの彼女だったが、彼女の周りに人だかりはできない。
その表情は固く喜怒哀楽が見えない。全てに万能なことがさらに人間味を失わせる。美しいのに他人を寄せ付けず常に一人で完璧な彼女についた呼び名は“機械仕掛けの乙女”だった。
中村は俺の時とは一変して覚悟を決めた表情で甲斐の元へ向かった。中村が言うところの“みんな”がそれを面白がるように声援を送る。
調整役というのも損な役回りである。俺みたいな小癪な人間に内心悪態をつかれながら断られたり、彼女のようなコミュニケーションを取ることすら憚られるような存在にも声をかけなくてはならない。
しかし彼もまた求められる役割を演じているに過ぎない。
二言三言言葉を交わし、すげなく断られたのか中村はしょんぼりと”みんな”のもとに戻る。そこでは笑いが起き、慰めるように中村は背中を叩かれる。
甲斐や俺を通して彼らはそれぞれが演じるべき役割を全うしている姿を確認しあっている。
くだらなくてたまらない。
けれど、そんなくだらない空間で必死に生きていくために、読みたくもない本を読んで自分を殺している自分はもっとくだらなく思える。
俺は読みもしない本に再び目を落とすと、規則的にページをめくって時間が過ぎるのを待った。