003 女子高校生
――気配を感じる。
そして微かな甘い香り。
俺の鼻腔を擽るそれは、恐らく女のメスの匂いであろう。
「あ……はは……。本当に、死神がきた……」
ゆっくりと目を開ける。
月明かりの射し込む部屋。
蝋燭の火が陽炎のように揺らいでいる。
俺の目の前に現れたのは、学生服を着たままの少女だ。
恐らく歳は十六か十七か。
こんな年端もいかぬ少女でも、死神を召喚することが簡単な世の中にでもなったのだろうか。
「……おい。クソガキ」
「しゃ、喋ったわ……。死神って日本語喋るのね……」
少し驚いた様子の少女だったが、それにしては肝が据わっている。
こんな間近で死神を見て怖気づかない人間も珍しい。
少しだけ興味を持った俺は、一旦深く息を吐き少女に尋ねる。
「悪戯か? どこで死神召喚のことを知った? 日本に呪術書はほとんど出回っていないはずだが」
「? 呪術書ってこれのこと?」
少女は床に置いてあった一冊の書物を手に取り俺に見せる。
……確かに本物の召喚契約の呪術書だ。
恐らく昭和初期に日本で出回った類のものだろう。
「たまたま近所の古本屋に置いてあったのを買っただけなのだけれど」
「古本屋……マジかよ」
俺は舌打ちをしてもう一度深く溜息を吐いた。
今の時代、女子高生が簡単に死神を召喚できるようになるとは、世も末である。
人間界でさえこんな有様なのだから、魔界に平穏が訪れることなど決してないだろう。
「……貴方、本物の死神?」
「あぁ?」
「だって、見えないもの。本物に。最初は驚いたけれど、全然怖くないし」
「……ちっ」
俺はボサボサの髪の毛を掻きむしり、女子高生の顔の前で睨みを利かす。
こんなメスガキに舐められたとあっては死神の威信に関わる。
いくら俺が最下級死神だからと言っても、死神は死神。
人間を殺すことなんて容易いのだから。
「……殺されたいのか?」
低い声で脅しを掛けると、さすがに少しだけ口を噤んだ少女。
しかし決して目を逸らさない。
それどころか瞬きさえせずに、俺の飛び出した眼球をまっすぐに見据えている。
数秒、いや数十秒はそうしていただろうか。
少女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
それを確認した俺はゆっくりと彼女から顔を離す。
「……その呪術書は燃やして捨てろ。もう二度と死神なんて召喚すんじゃねぇぞ」
「殺して」
「はぁ?」
「殺せるのなら、今すぐ私を殺して」
「…………はぁ」
少女の言葉を聞き面倒臭くなった俺はそのまま床に腰を降ろす。
脅しで言っただけなのに『殺して』ときたか。
自殺したいなら死神召喚なんぞ回りくどいことなどせずに一人で死んだら良いだろうに。
これだから思春期の女は嫌いだ。
『死』すらも特別なものだと思い込んで色々と飾り付けをしたがる。
こんなもの、ただの『運命』でしかないというのに――。
「お前なぁ、何があったか知らねぇけど、死にたいなら一人で死ね。俺を呼ぶんじゃねぇよ」
「……」
「都合が悪くなるとすぐに黙る。あのなぁ、俺はクソガキが大嫌いなんだよ。生意気だし、すぐに泣くし、大人を舐め腐ってるし、とくに女はそう。お前みたいな女が一番ムカつくし、死ぬならさっさと死んで地獄に落ちろや。永遠に苦しんでいられるから良かったな。地獄の業火に焼かれ続けて」
「……え」
俺の言葉に少しだけ反応する少女。
おおげさに頭を振った俺は先を続ける。
「は? まさか知らないとか? 自殺って殺人と同じに決まってんだろうが。お前の命はお前だけのモンとか勘違いしてねぇか。当然、殺人なら地獄に落ちるだろうがよ。で、永遠に苦しむ。生き地獄のほうが遥かにマシなくらいに、そりゃもうエゲつないくらいの苦しみ方で」
「……」
再び口を噤んだ少女。
本当は『永遠の苦しみ』ではないのだが、これぐらい脅しておいたほうがいいだろう。
俺はそのまま立ち上がり、少女の部屋の窓を開けようとする。
「待って。殺して欲しい人がいるの」
「……はぁ?」
窓辺に手を置いたまま少女を振り返ると、彼女は一枚の写真を俺に差し出した。
髪は少し長く色は茶色。顔立ちも整っている男。
制服姿のその男は少女と同じエンブレムを左胸に付けていた。
写真を裏返すとそこには『大友輝明』という文字が見える。
「その男を……殺して」
写真から顔を上げると、真剣な面持ちの少女の顔が目に映った。
どうやらさっきの俺の脅しは効力が無かったらしい。
本来であればここで依頼を受けるのが召喚された死神の役目であるが、全く乗り気がしない。
こんなクソガキに構うより、もっと人間の底辺――クズの中のクズに召喚されたほうが死神ポイントが早く溜まるし、こんな最底辺の暮らしともおさらばできる。
「断る。他を当たってくれ」
「あ……」
俺はそのまま窓を開け、夜空に向かい飛び立った。