019 契約と対象
夜が明ける。
俺は八神と共に神奈川県の横浜にあるクルーズ船の出港地に降り立った。
懐中時計に視線を落とし日付と時刻を確認する。
2022年7月1日8時43分。
昨夜はあれから深夜の夜行バスに乗り、横浜港近くのホテルに泊まり今日に至ったわけなのだが――。
「ねえ、いい加減に『死神の書』を出してくれないかな、鈴木翔太君。もう契約は済んでいるのだから」
「うるせぇ。いちいちフルネームで呼ぶんじゃねぇよ。まだ俺が契約を破棄する可能性だって残っているんだからな」
ぶっきらぼうにそう答える俺。
確かに八神の言う通り死神契約はすでに結ばれているが、『死神の書』に殺しの詳細事項を記入し、尚且つ俺が『死神の鎌』を発動しなければ契約は履行されない。
昨夜から何度もしつこく死神の書を要求してくるのだが、俺にはどうしても腑に落ちない点があった。
「何故テロを起こす必要がある? クルーズ船に集まる金持ちどもに恨みでもあんのかよ」
「それは機密事項だから君には言えない。何度も同じことを言わせないでくれ」
昨夜からずっとこのやりとりが続いている。
妻を殺し、親戚一族を殺した次は、数千人をも巻き込んだ無差別殺人?
この八神という男に対しての感情が、たった一日でジェットコースターのように目まぐるしく変化していくのが自分でも分かる。
目的があるのかと思ったら、見境の無い大量殺人を依頼し。
機械のように心を閉ざしたかと思えば、感情表現が豊かな好青年に早変わり。
……マジで二重人格なんじゃなかろうか、この男は。
「仕方がないな。じゃあ君がやる気を起こすような方法にすれば、少しは考えが変わってくれるのかな?」
「やる気を起こす方法?」
俺がそう答えると八神はまたあの妖艶な笑みを浮かべて頷いた。
これだ。この笑みで俺は毎度のように騙されそうになってしまう。
時に妖艶で時に無邪気で、八神は感情表現豊かに俺の心を惑わしてくる。
「ここだと目立つね。人の居ない場所に行こうか」
そう言った八神は時刻を確認し、人気の少ない海岸へと歩いて行った。
◇
「……さて、鈴木翔太君。当然、君は『対価』の件は理解しているよね?」
「……お前、馬鹿にしてるのか? それを知らない死神がいるわけねぇだろうがよ」
誰もいない海岸で俺と対面する八神。
しかしその表情はさっきとは打って変わって真剣そのものだ。
「僕は今回、君におよそ4300人もの命を奪うように契約を持ち掛けた。しかし君が得られる報酬は、僕の残りの寿命のたった半分だけだ。僕は42歳という若さで死ぬ運命にあるから、君が得る報酬は僕の『約7年分の命』ということになる。それを死神のポイントに換算するとおよそ2500ptくらいだろうね」
そう言いながら八神は黒い眼帯を外していった。
その赤黒い眼球には何も映っておらず、ただ暗黒が渦巻いているだけだ。
「……何が言いたいんだよお前」
「いいから聞きなよ。鈴木翔太君でも、『等価交換』っていう言葉を知っているだろう? それぞれ等しい価値のあるものを相互に交換する、というのが本来の意味だ。魔界の法律では死神と契約を結んだ者は、この等価交換の理論によって、残り寿命の半分の命と引き換えに死神に『殺し』を依頼できる、とある。つまり『契約者の残りの寿命の半分の命』と『殺し』は等価である、と定めたわけだ」
八神の左目が徐々に赤く染まっていくのが見える。
そして今にも血の涙が零れ落ちそうになっていた。
滴り落ちる血の涙を一滴、奴は左手の掌で受け止めた。
そしてその手を俺に差し出してくる。
「これが僕の能力だよ、鈴木翔太君」
「? お前、一体何を言って――」
次の瞬間、八神の掌に落ちた赤い血の雫から無数の赤緑色の蔦のようなものが飛び出し、八神自身と俺の全身をグルグル巻きにした。
「大丈夫。君に危害を与える物じゃないから」
「はぁ!? いやいやいや、これ完全に俺を拘束して締め上げる蔦……あ、いや。痛くねぇな、別に」
俺の全身に絡まった蔦はすぐに俺と同化し、何事も無かったかのように消失した。
そしてそれは八神も同じ。
俺も奴も特段身体に何か変わった様子は見受けられない。
というか俺は死神なんだから、攻撃を受けることも死ぬことも無いのだが。
「僕の能力は『等価交換』の定理を捻じ曲げる力――『等価変換』さ」
「等価……変換?」
「ああ。そして僕が今変換した箇所は定理にある『契約者の残りの寿命の半分の命』の一部分。――『契約者』を『対象者』に変換したんだ」
「? よく意味が分からねぇんだが……」
八神は何事も無かったかのように黒い眼帯を元に戻す。
『契約者』を『対象者』に変換したってことは、つまり『対象者の残りの寿命の半分の命』が『殺し』の対価となる――。
……ん? それって、まさか――。
「ふふ、気付いたかい?」
また八神はあの妖艶な笑みを浮かべてこう続けた。
「――そう。君がこれから契約を完遂し、4300人全員の命を奪った暁には、その4300人分の残りの寿命の半分が君に報酬として支払われることになるんだよ、鈴木翔太君」




