9話
四章 隠れ家
大雪山に囲まれた旭川市内、その外れにある四階建てマンションの最上階に雨ガラスの協力者は住んでいた。
「雨ガラスさん、お会いできて光栄です!」
その部屋のドアを勢いよく開けて現れた筋肉質な大男は、目じりに涙を浮かべ雨ガラスと彼女に連れられた俺達を招き入れた。
「部屋は自由に使ってください。必要なものがあったら言ってください。自分が買ってきますから」
「ありがとう」
協力者は、その真面目一徹といった風貌で、まるで王にかしずく騎士のように恭しく雨ガラスに接し、俺達に対してもとても丁寧に応対してくれた。
「しかし、貴方が……女性だったとは」
「みんなには、内緒だよ。君なら信用できると思って、リアルで会うことにしたんだ」
「……ありがとうございます」
雨ガラスにそう言われると、いよいよ協力者は泣き出してしまった。
協力者が落ち着いてから話を聞いてみると、どうやら彼は雨ガラスに大きな恩があるらしく、彼女のことを神にも等しい存在のように思っているようだった。雨ガラスは、何年も前に誰もが知るOSソフトの脆弱性を見つけて裏でそれを売り捌き大金を稼いだかと思えば、脆弱性を見つけるために使った高度な技術を、『技術は誰にでも共有されるべきものである』というポリシーの下、無料で公開し、現代ハッカー界隈に革命をもたらした生きる伝説なのだと協力者の男は熱弁する。
「技術の独占は、支配と不自由を生むからね。ネットというカオスの海に、相応しくない」
なんでそんなことをしたのかと隣でパソコンのモニターを凝視している雨ガラスに聞くと、猛烈な勢いでキーボードを叩きながらそう言った。
それから雨ガラスは、インターネット規制を行おうとする政党のホームページをハッキングして邪魔したり、ネットに不慣れな人間を狙い、詐欺まがいの商法で暴利を貪る企業に制裁を加えたり、日本のインターネット社会を守る義賊のようなことをし続けて、その名を日本随一のハッカーと呼ばれるまで高めていったと協力者は言う。
そしてついには雨ガラスを慕うハッカー達が集まって、日本版アノニマスのようなハッカー集団を形成するに至った。彼もその一員だという。
「雨ガラスさんは、今の日本のハッカーの頂点、いわば電子の世界に舞い降りた女神……そんな人に宿を貸せるなんて、俺は本当に幸せ者です……」
協力者は、大きな身体を感動に打ち震わせながら熱く語った。
悪い人では決してないだろう協力者の言葉に、心から共感したように頷いてみせてはいるけれど、結局のところ違法な手段で事を成す犯罪者なのだから、基本的には関わりたくない人間だなーと心の底から思った。
「なんだか、とんでもないことになったな」
「あっ……うん」
俺の問いかけに、上の空で答える霧子。
霧子は、ミスティさんが『ONYMOUS.NET』事件の主犯であるというようなことを雨ガラスに言われてから、なにやらずっと考えて込んでいるようだった。あの後、二人がかりで具体的にどういうことなのかと問い詰めたが「まだ確たる証拠があるわけじゃないから」と雨ガラスは、言葉を濁して答えなかった。
実際にハッキングを思うままにしてみせた雨ガラスの言っていることには、一定の信憑性があるのだろう。だが俺は、ミスティさんの件だけは今のところ勘違いか何かだと思っている。ミスティさんが、こんなにも沢山の人の気持ちを傷つけるような事件を起こすわけがないからだ。
「みんな集まって~」
雨ガラスが、間の抜けた調子で皆に呼びかける。
「これからムッシュ茅森孝一と会うために成すべきことを説明するよ」
リビング中央置かれたテーブルを囲み、俺達は雨ガラスが差し出したノートパソコンを見つめる。姿は見えないけれど協力者の家には赤ちゃんがいるようで、ベビーベッドが置かれていたり子供が喜びそうな玩具や装飾がところどころあって、作戦会議といった場には少々そぐわない。
「とりあえずやらなければいけないことは、これ!」
ノートパソコンのモニターに、コミカルなカラスのイラスト付きで箇条書きでまとめられたテキストが表示される。
『1・根室の病院にいる茅森孝一と、
裏で暗躍してる何者かに気付かれないように連絡を取る!
2・連絡を取った茅森孝一と、会う約束をする!
3・裏で暗躍する何者かに気付かれないよう、実際にその場所に行って会う!』
「連絡って……私が電話すればいいんじゃないの?」
霧子が、当然の疑問を口にする。
「彼の病室を仲間に調べてもらったけど、盗聴器だらけだったよ。周囲にいる警察の目を逃れたとしても、どこに黒幕の手の者がいるわかったものじゃない」
「盗聴器?」
疑わしげな俺の言葉を受けて、雨ガラスは例の黒い傘を取り出して垂れ幕を下ろし、その中でキーボードをカタカタと鳴らしてから、再びノートパソコンを俺達の前に差し出した。
ノートパソコンから、ざらざらとした音質の音声が聞こえてくる。
「一日中、こんな病人の警護なんて退屈でしょう」
「いえ。そんなことはありませんよ」
「お茶でも飲みませんか? これ、娘が送ってくれたおいしい紅茶なんですよ」
「いや、仕事中ですので」
「ずっと閉じこもりきりで、僕も退屈で。もし不快でなければ、一杯つきあってもらって話し相手になって貰えると嬉しいんだけど……」
初めて聞くおじさんの声。しかしこの恐る恐るといった独特の気の遣い方から、この人がミスティさんなのだとすぐに理解できた。
「パパ……」
「協力者に盗聴器を傍受、録音してもらったデータだよ。信じてもらえたかな?」
大好きな父親の声を久しぶりに聞いたせいだろう。しんみりとした様子で霧子は頷く。
「そして敵が警察権力をも掌握しているとなれば、この隠れ家も三日もすれば敵に知られてしまうだろう。僕達は、それまでにミッションを達成しなければならない」
警察という言葉に、胸が締め付けられる。停職期間中、ふらりとどこかへ旅に出ていた息子が警察に捕まった……などと母が知ったら、どんな顔をするだろうか。
「……俺達はともかく、ここの家の人はどうするんだよ」
「全て了承済みで協力を申し出ました。『ONYMOUS.NET』を作り出した人間が裁かれるのであれば、自分はどうなっても構いません」
てきぱきとした澱みない口調で、協力者の男が言う。
なにが彼をそこまで駆り立てるのか分からないが、それだけの覚悟を持っている人間の前で、個人的な事情から生じる不安を表に出すのはさすがに情けないと思い、俺は黙り込む。
「まぁ1は僕に任せてよ。既に安全な交渉ルートの目処はついているからね。期限ギリギリまでには連絡が取れるよう調整するよ」
「俺達が手伝える事は?」
「うーん。ないかな? 大人しくこの隠れ家に身を隠しておいてもらえると嬉しい。今も警察と彼らは、全力で霧子君の行方を捜しているみたいだからね。警察に裏から指示を出している人間は、執拗に霧子君を捕らえるようメールを送りつけているみたいだし、よほど茅森孝一を彼女に会わせたくないらしい」
「必要なものがあったら自分に言ってください。買ってきますよ」
協力者の男が言う。停職期間中の俺や大学生の霧子はともかく、自宅をも差し出して平日昼間から付きっ切りで俺達に協力してくれる彼も、雨ガラスと同じく謎が多い。
「ただ待つだけか……」
「連絡がついたら、後は君達の仕事だよ。茅森孝一と交渉してどこかで会う約束を取り付けてもらいたい」
そこまで聞いて新たな疑問が起こる。俺や霧子と違って、雨ガラスがミスティさんに会いたい理由がわからない。知りたいことがあるなら、連絡が取れるようになった段階で聞けばいいのに。俺は、そんな疑問を雨ガラスにぶつける。
「安全な形で連絡を取れるようにするけど、本当に重要な情報については直接口頭でやりとりしないとリスクが高すぎる。『ONYMOUS.NET』がどうやって情報を強奪しているのか、その方法も分かってない現状だとね」
「病気のパパに、外出して貰うの?」
「無理強いはしない。だけど……僕は、それを強く望んでいる。この世界を救うため、彼の命が尽きる前に、彼の口から全ての真相を聞きたい」
そう言った雨ガラスの表情は真剣そのもので、父を想う強い気持ちが篭った霧子の眼差しと正面から向かい合っても、引けを取らない。
「君は、何を望んで北海道まで来たんだい?」
雨ガラスが、問いかける。
「私はパパを……ガーディアンさんに会わせてあげたい」
「それは、守君がMMORPGで使用していたキャラクターの名前だね。僕も茅森孝一が、守君と長い間ゲームを共に楽しんでいたという情報は知っているよ」
「会社に裏切られて、家ではママやヒステリーの私に怒鳴られて……居場所がなかったパパが唯一拠り所にしていた人だから。最後に、会わせてあげたい」
ミスティさんが俺みたいな、嘘に嘘を重ねて汚い部分を覆い隠さないと、生きていくことすらままならない、異常で、弱い人間と会いたいと思ってくれているのか。まったくもって自信がない。だが――。
「俺も、会いたいよ。俺もずっと、ミスティさんに救われてきたんだ」
そんな言葉が、誰を意識するでもなく口から溢れ出てきたことが、人間らしくてこそばゆい。
霧子は、強張らせていた表情を和らげて、改めて雨ガラスを見つめる。
「そのために、パパにお願いしてみる。そして……ついでに、パパは人を傷つけるようなことは絶対にしないって、あなたに証明してみせる。パパは事件の首謀者なんかじゃ、絶対にない」
「うん。いいね。僕も、茅森孝一が、ネットの海を泳ぐ魚たちの敵じゃないってこと……心の底から願っているよ」
あれから雨ガラスは、黒い傘から垂れ下がったカーテンの向こうで寝食も忘れてノートパソコンと向かい合っていた。
一日中カタカタとキーボードを鳴らす黒い物体の回りで、俺と霧子はスマホなどいじりながらただただ雨ガラスの仕事が終わるのを待った。
「あなたって、まごうことなき最低のクズだったのね……」
「突然なんだよ」
「これ」
霧子が差し出したスマホに映し出されていたのは、俺が中学生の時から暴れ続けてきた匿名掲示板のホームページだった。『ONYMOUS.NET』が現れて以来ほとんど書き込む人はいなくなってしまったが、この匿名掲示板が消滅でもしない限り、珍黒斎と呼ばれた俺の書き込みは、ずっと野晒しに捨て置かれることとなる。
『おい! もしかしてお前はおまんこ持ちかぁ? セックスセックスセックス! 売女はごちゃごちゃほざいてないで黙ってパンツをうpしな。おい! パンツだパンツ! パンツパンツパンツパンツパンツパンツパンツ!! セックス! パンツ! おまんこ! こっちは抜き身で待ってるぞぉ? 早くしろ!!! おまんこ!!!!!!』
その議論の対象がなにを言っても、俺はそれから「パンツ」と「セックス」と「おまんこ」としか返さなかった。
「どういう神経で書いたの? これ」
ぐいと俺にスマホを突きつける霧子。
火がついたように顔が上気していくのがわかる。
「それは、匿名掲示板ならではの……コミュニケーションというか。非日常空間の中での……やりとりであって……」
「いいえ。あなたが卑猥な言葉を投げ続けてる相手は、匿名でも、画面の向こうにちゃんといる人間でしょ?」
「それは……そうかもしれないけど……」
しどろもどろになりながら俺は追い詰められていく。
何故そんなことを書いたのかと自己分析すれば、欲求不満だったとか、常に俺のことを蔑ろにしてきた女という生き物に対して深い憎しみがあったとか、いくつか考えは思いつきはするけどなにを言っても霧子を怒られそうだし、そもそも惨めになるだけなのが目に見えていたから言い返せない。だってそうだろう。その根源にあるのは「女の子っていいなぁ!」という羨望の眼差しであり、それに対して自分の魅力や収入や容姿が足りないから相手にされないだけのことを勝手に逆上しているだけなのだ。
「はぁー、パパが心を許した相手がこんな畜生だったなんて……」
匿名世界という遊び場でだけ許される、なにも手にすることができない人間の戯れを、こんな酷い羞恥プレーの場に引きずり出した『ONYMOUS.NET』を俺は許さない。しかしネチネチと俺の諸行をあげ連ね罵る霧子に一泡吹かせてやりたい一心で、目には目を、毒を食らわば皿までもと、自分のスマホで『ONYMOUS.NET』の画面を開いて、彼女の情報を調べてみることにした。
インスタやフェイスブックには、大学の友人達とのささやかで楽しそうな日常や、その日食べた食べ物がアップされているだけ。その他、怪しげなSNSや出会い系アプリ等をやっている形跡もなし。その光り輝く真っ白なネット履歴に絶望していると、いつの間にか黒い傘を閉じてうろうろしていた雨ガラスが後ろから声をかける。
「なに? 霧子君の個人情報を調べてるの?」
「はぁ!?」
俺のスマホを覗き込み、空気を読まずに大声で言った雨ガラスの声を聞きつけて霧子がキレる。
「なにしてんの? 本当、気持ち悪いんだけど……」
「そんなっ……お前だって調べた、だろ!」
全身から放たれる霧子の殺気。ハゲブタが顔を歪めて怒っていても「面白い顔してるな」くらいにしか思わないのに、彼女の切れ長の意志の強そうな目で睨まれると胸が縮こまるのは何故だろう。霧子が思春期の頃合に、彼女を恐れ距離を置くようになったミスティさんの気持ちが良く分かる。
「私は、あなたみたいに裏でコソコソ人を罵ったりしないし、卑怯な真似はしないから」
刺すような目付きで俺を睨みつける霧子。
「なるほど。彼女の弱みを知りたいわけか。それなら……このホームページなんてどうだい? 父親のパソコンで作成したからか、霧子君の名前から調べても出てこないんだけど」
雨ガラスが差し出したノートパソコンの画面には、『KIRIKOの部屋』というピンク系の色彩で彩られた少女趣味のブログが表示されていた。どうやら日記が記されているブログらしい。俺は、表示されたそれを上から読み上げていく。
『11月12日
またパパと喧嘩しちゃった。こんなにこんなに大好きなのに、どうしていつも素直になれないんだろう。嫌になる。パパ。ごめんなさい。私、今でも結婚するならパパと結婚したいと思ってるよ。』
KIRIKOと名乗る少女が、鬼の形相でこちらを睨みつけている霧子だとするならば、日記に記された年月日から逆算するに、彼女は高校の時分に、この強烈なファザコン丸出しの日記をつけていたことになる。
「やめてーーーーーーーーーーーーー!!」
ノートパソコンに手を伸ばすが、雨ガラスはさっとノートパソコンを持ち上げて霧子の手をかわす。長身の彼女が万歳をしてしまえば、霧子はジャンプしても届かない。
「こいつは僕の命そのものだからね。何人たりとも触らせないよ」
「なら、せめてその画面を消して!」
「……11月13日。今日もパパと仲直りできなかった。パパからもらったクマのぬいぐるみ。コーイチにお話を聞いてもらおう。ねぇ、コーイチ、明日は仲直りできるかな? って、ぬいぐるみに父親の名前付けて話しかけてたのか。キテるな……」
俺は自分のスマホで先程のページを開いて、続きを読む。
「っ……!」
ためらいなく飛んできた鋭い裏拳を、反射的にしゃがんで避ける。俺の顔面を叩き潰さんとするその拳の勢いに、冷や汗が流れた。
「ぼ、暴力反対!」
「うるさい!」
俺は、リビング中央に置かれた机の周りをぐるぐると逃げ回る。
「ふむ。まー、感情的な諍いはそこまでにして、みんな落ち着いてよ。やっと、茅森孝一と連絡が取れる算段がついたんだからさ~」
火に油を注いだ張本人が、飄々と言う。
爆発せんばかりの怒りに突き動かされて追いかけてくる霧子から逃げながら、俺はなんだかおかしくなってきて声をあげて笑ってしまう。
「FU○K!! FU○K!!」
頭に血を昇らせた彼女は、普段の彼女が毛嫌いしそうな下品な罵声をあげて追っかけてくる。
この胸をくすぐる感情は、なんだろう。公明正大を謳っていた霧子の裏側にも、自分達と同じように隠したい側面があったことがたまらなく嬉しいのか。彼女も俺もやはり同じ人間なのだと、安心できたのかもしれない。