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7話

3章  北へ


 身体を撫でる風の冷たさと、頭の下に枕のように置かれている柔らかい感触と温もり。目を開くと、橙色の空に切れ切れになって浮かぶ薄紫の雲と、夕焼けに照らされ赤みを帯びた霧子の顔がそこにあった。心配そうにこちらを見る切れ長の目に、きゅっと結んだ小さな唇。なんだか「ミスティさん」に似ている気がする。茅森孝一は、娘の姿に似せてキャラクターを作ったんじゃないだろうか、なんてことをふと考えたりもした。

「目が覚めた?」

「ん……?」

 ぼんやりとした意識が、はっきりとした輪郭を帯びてくる。

 夕焼けの下、船の甲板のベンチに横たわり、俺は彼女に膝枕をされているらしい。

「なんで俺……?」

「ハゲブタって人と殴り合って、意識を失ったの。乗船時間まで時間がなかったし、警察沙汰にはして欲しくないって言ってたから、雨ガラスさんと一緒に車に乗せてそのままフェリーに乗船したんだ」

 そう語る霧子の口調は、どことなく優しさを帯びている。

「あれ? ハゲブタは……?」

「雨ガラスさんが色々話して、一時休戦ってことになったみたい。彼もフェリーに乗ってるよ」

「雨ガラスが? なんでまた……」

「意識を失ったあなたを介抱して、怪しまれることなく乗船できるよう手を回してくれて……よく分からない人だけど、悪い人じゃないのかな? 北海道にいるパパのところまで、無事にたどり着くよう手を尽くしたいって言ってた」

 言って霧子は、長く垂れ下がった髪をかきあげる。生まれてこの方、嗅いだことのない甘い匂いが辺りを包み込んでいた。その女らしい仕草を見て、彼女の膝に頭を乗せているのが急に照れ臭くなって身体を起こした。

 水平線の彼方へ沈んでいく陽の光を受けて、穏やかにゆらめく海は黄金色に染まり、きらきらと輝いている。白く泡立った線を残しながら、船は静かな駆動音を鳴らして進んでいく。

「大丈夫?」

「ああ。殴られたところ痛いけど……」

「自業自得」

 と、笑いながら彼女は言った。

「まったく。パパが、誰よりも信頼していた人が、こんなヤバい人だったとはね」

「どこがヤバいんだよ」

「素性を隠して、誰かに殺意を抱かせるほどの暴言を浴びせていたところ」

「……そんなの少なからず、みんなやってるよ。表じゃ礼儀正しく振舞っていても、裏じゃ誰もが好き勝手やってるんだ」

 どういう場所があったからこそ、窮屈でつまらないことばかり押し付ける日常を朗らかにやり過ごせた。『ONYMOUS.NET』のせいで、全てが台無しになってしまったけれど。

「私は、そんな卑怯なことはしないし、大抵の人は正々堂々と、正直に生きてる」

「理想論だね。大学でも、みんな裏表使い分けて生きてるだろ?」

「そういう人もいるし、なんでも明け透けに話して嫌われることもあるよ。人に嫌われたくはないけど、自分の生き方を変えたくないし。そうなったら合わなかっただけだって諦めるしかない」

 彼女は、迷い無き瞳で俺を見つめる。俺は反射的に目を背けて、甲板に備え付けられていた救命ボートに視線を向ける。

「そんなの……今の君が、若くて、かわいくて、常識的な考えを持っていて、社会に必要とされている人間だから通用するだけだろ。素の自分のまま生きていられる人間なんて、特別な極一部でしかない」

「えっ、かわいい?」

「……一般論として」

 言葉の端を捕まえて、俺の反論も意に介さず喜ぶ彼女を黙らせて話を続ける。

「そもそも君のお父さんだって、ネカマだったわけだし」

「ネカマ?」

「ネットで、男が女を演じること。ずーっと家庭菜園好きの素敵なお姉さんだと思ってたんだぞ」

「パパが女を演じてた……か。どうして、そんなことしたんだろ?」

「さぁね。俺をからかって楽しんでた……とか、そういう人じゃ絶対ないだろうし。なにかしら理由があったんだろ」

「……悪い人じゃないって、信頼はしてるんだ」

「当たり前だろ。何年もずっと一緒だったんだ。それくらいは……わかる」

 母が病気で倒れた時や公務員になるため勉強を始めた時、親身になって相談に乗ってくれたミスティさんの言葉は、きっと嘘じゃない。

 一筋の潮風が、ふたりの間を通り過ぎていく。その人が、もうすぐ癌細胞に身体を侵され死んでしまう。

 霧子は寂しげに微笑んで、目を閉じた。

「ねぇお父さんって、どんな人だった?」

「そんなの、娘のお前が一番良くわかってるだろ?」

「どうだろうね……」

 言って霧子は立ち上がり、髪を押さえて海を眺める。

「同じ夕日でも、日本の夕日とカルフォルニアの夕日って全然違うな」

「……どこが?」

 俺が見たこともない夕日を、彼女は知っている。こういう理解の隔たりを感じるとき、人間とは、ばらばらに世界に置かれた主観的な個人であって、人間という共通事項ではないのだな、と改めて思ったりする。

「こういう包み込むような日差しじゃなくて……向こうの夕日は、もっと鮮烈で……身体を射抜くみたいに輝いている、かな」

 広大な海を前にして佇むその背中。揺れる髪に隠れて、表情は伺えない。

「十四の時、パパはママと離婚してね。私を連れてアメリカを離れて、日本に帰ってきたきたんだけど。そのとき……色々、パパにきつく当たっちゃって。それ以来、パパ、私の前だとどこか申し訳なさそうで、緊張してて。あまり本音を見せてない気がする」

 ハゲブタとのカーレース中に見せた、キレた霧子の気性の荒さ。思春期の頃であれば、もっと激しかったのだろう。そんな激しい感情に、確かにミスティさんは対峙できそうにない。

「ミスティさん、繊細だからな。一緒に遊んでる人のささいな気持ちの揺れ動きも感じ取って、労わって、なんてことないことでも傷ついて……」

 俺は、言いながら頬を緩めてしまう。

 よくへこんだミスティさんを、「ミスティさんはなにも悪くない」と励ましたっけ。

「私も、傷つけちゃったのかな? そういえばあのときは……私も、あなたみたいに酷い言葉を沢山言ったよ。どうしてママと離婚するんだって。死んじゃえって。嫌われてても……仕方ないよね」

「今でも許せない?」

「ううん。あのとき……パパ、仕事で信頼してた人に裏切られて。なのに家に帰ったら不甲斐ないってママに責められて。大変だったんだ。仕方ないよ」

 父親のことを話すときの霧子は、どこか幼く見える。

「ま、それなら分かり合えるだろ。ミスティさんは、そんなことで娘を嫌ったりするような器の小さな人じゃない。帰ったら……しっかり話してみろよ」

「あなたは、お父さんとは仲がいいの?」

「……小さい頃に死んだよ」

「ご、ごめん!」

「いや……気にしないでいい。たいしたことじゃ、ないんだ」

 独立して作った会社を成り立たせるため、死に際までほとんど家に帰らず働き詰めだった父の顔を、俺はほとんど覚えていない。そのせいだろうか。父が亡くなったという大きな出来事に対して、当時も今も、いまいち実感を持てずにいるのだ。強いていえばそんな実感すら持てなかった事が寂しくはあるのだけれど、大げさに気にされるようなことではない。

「だから、まだ生きてて……分かり合えるチャンスがあるだけ羨ましい。頑張れよ」

「……うん。そうだね」

 沈みかけの夕焼けを背に、頼りなげに彼女が言う。

 こんなことを考えてしまうのは、少々気持ち悪いかもしれないけれど。彼女の抱く孤独や幼さが、俺と彼女の間に広がる大きな隔たりを少しだけ埋めてくれたように思えた。


 航海中、またハゲブタに襲われるのではないかと警戒していたが、ハゲブタは、二等船室の大部屋の隅に横たわり、ただただスマートフォンをいじっているだけで特になにもしてこなかった。

 船内をうろついていた雨ガラスを捕まえて、「ありがとう」と事を収めてくれたことについて礼を言うと「いやいや。彼を踏みとどまらせたのは、君の言葉だ。僕はただ全てを投げ出す前に、もう一度よく考えてみたらどうだと言っただけだよ」と言って去っていった。すらりとした肢体に、美しい金髪。外国のモデルのようなその姿は、日本人だらけのフェリーの中で異質だった。

 霧子とは、少し打ち解けることができたのだろうか。食事の度に集まっては、ミスティさんについての思い出を語り合った。霧子は幼いとき、あのミニクーパーでミスティさんにアメリカ各地に連れて行ってもらったらしい。

「カルフォルニアでパパと見た夕焼け。やっぱり忘れられない」

 楽しそうに語る霧子。アメリカどころか、本州から出たこともない俺だけど、なんとなくその気持ちは理解できた。同じように俺も、ミスティさんに連れられて『ドラゴンソードオンライン』の世界を隅々まで冒険してきたからだ。次の日、仕事だというのについ朝まで遊んでしまったあの日――

『ふふ、明日……というか今日のお仕事大丈夫ですか?』

『ここまで来たら、最後まで行くしかないだろう』

『ですね! それじゃ行きましょう。回復は私が受け持ちますから、ガーディアンさんは、なにも考えずに突っ込んじゃってください』

 運営が調整を間違えたとしか思えない難敵の数々を、ミスティさんと共に乗り越えていく。地獄をイメージしたようなおどろおどろしい洞窟を抜け出ると、満天の星空が広がっていた。カーテン越しにゆらめく朝日の中、モニターに写しだされた『星の海』の映像に、ただただ俺は見入っていた。

 霧子が父親と巡ったアメリカでの日々を決して忘れないように、きっと俺も、あのときの思い出を一生忘れることはないだろう。


「本船はまもなく、苫小牧港に到着いたします。お車にてご乗船のお客様は、同乗者の方とご一緒に、お車にお戻り下さい」

 苫小牧に着いたとの案内があり、俺と霧子はフェリー下層部にある駐車場へと向かう。その道すがら、雨ガラスがやってきて俺達を引き止めた。

「ちょっとこっちに来てくれ」

「ん? どうした」

「いいから。あ、ハゲブタ君もこっちに来て」

「なんだよ」

 同じように地下へと向かおうとしたハゲブタも引き連れて、雨ガラスは甲板へと向かう。

「あれ見てよ」

 雨ガラスが指差した方を見ると、徐々に近付いてくる苫小牧港があって、そこには数台のパトカーと警察官がいた。

「警察?」

 霧子が、雨ガラスの指し示しているものを口に出す。

「うん。どうして警察が……と思ってちょっと調べたら、茅森霧子とその同行者を捕らえるように、指示が下りてるみたいなんだよね」

「はっ……? なんだそれ」

 雨ガラスが突然のたまい始めた戯れ言に、思わず苦笑いを漏らしてしまう。

 突拍子もない話に面食らっている俺達を面倒臭そうに見やってから、雨ガラスはまたあの傘を差して、自分の周囲を黒幕で覆った。そしてその中から、カタカタとキーボードを叩くような音が聞こえてくる。

「いや、それも意味分からないから。なんなんだよその変な傘」

「ショルダーハッキングって知ってるかい? コンピューターを操作する人間を、背後からこっそり覗き見てパスワードをハックする一番古典的で、なかなか効果的なハッキング方法なんだけどね」

「ハッキング? なに言ってるんだ?」

 この傘は、ハッキング防止のためにやっているということか?

 飛躍する雨ガラスの言葉についていけず、俺たちは戸惑うばかりだった。

「……ま、とりあえずこれを見てよ」

 雨ガラスは傘を閉じて、いつの間にか手にしたノートパソコンの画面を見せる。

 そこには北海道警察職員に宛てられたメールが表示されている。確かにその文面の中では茅森霧子を、北海道警察署に任意同行の下つれてくるようにと書かれていた。

「しかもこの指示、元を辿ると警視庁のお偉方から発せられてるみたいなんだ」

「なんで私が、警察に捕まらなきゃならないの」

「どっかで傷害事件でも起こしたとか?」

「起こすわけないじゃない。なにその、それくらい起こしてもおかしくないみたいな言い方」

 霧子は、ちょっとしたつっこみというには重たい、抉るようなパンチを俺の腹に加える。

「そんな画面、いくらだって作れるだろ。なにかと思えばくだらないイタズラを……」

 ハゲブタが、もっともらしい意見を述べる。

「あー! もう、そんなこといちいち証明してる暇はないのに~!」

 船上にアナウンスが響き渡り、再び早く下船準備をするようにと促した。

「じゃー、君たちスマホ出して!」

 雨ガラスは再び傘の中に閉じこもり、俺たちは狐につままれたように自らのスマホを取り出した。

 するとどうしたことだろう。スマホの画面が突然暗転したかと思うと、「プレゼント・デイ! プレゼント・タイム!」という文字が表示され、ディフォルメされたカラスの画像が飛び回り始めた。

「な、なんだこれ!?」

 俺と同じく、慌てふためく霧子とハゲブタ。彼女達のスマホでも同じような現象が起きているようだ。

 しゅるしゅると傘から垂れ下がった布が巻き上がり、雨ガラスの西洋彫刻のような美しい顔が出てくる。一見神秘的にすら見えるその顔は、彼女の流暢な日本語と軽い語り口にまったくあっていない。

「テュヴォワ? 自分で言うのもなんだけど、僕は天才ハッカーなの。だから警察署の情報を探るくらいは、朝飯前!」

 雨ガラスは、いまだ事態を飲み込めてない俺達の戸惑いなど気にすることなく、てきぱきとノートパソコンを鞄にしまい話を続ける。

「さっ、分かったら、うまく脱出する方法を考えるよ! 僕達には、こんなところで足止め食らってる時間はないんだからね!」

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