4話
二章 旅立ち
茅森霧子は、今時の大学生と言った感じの彼女に似つかわしくない、古い黒一色のミニクーパーに俺を乗せて大洗へ向け車を走らせていた。車体から滲み出る、独特の油臭さが鼻を衝く。
平日昼間の高速道路は空いていて、遮るものはなにもない。停職処分を受けてから、ほとんど外出もせずに家に引きこもっていた俺は、この予期せぬ旅に少しだけ心が浮き立っていた。
「だけど北海道に行くのはいいとして、なんでフェリーで?」
「パパから借りたこの車を、返したいの」
霧子は、慣れた手付きでギアチェンジしながら、そう答える。
年代物の車ではあるが、革張りのシートはきちんと手入れされていて光沢を帯びている。古めかしいデザインの速度メーターやカーラジオもピカピカに磨かれていた。
「大事な、車なんだ」
「うん。思い出の車」
「ミスティさん……お父さんって、リアルだとどんな人なの?」
「とーってもおしゃれでかっこよくて優しい人。アメリカに住んでたときは、いろんなところへこの車で、連れて行ってくれたな」
ふっと霧子の表情が和らぐ。
「パパと一緒にサンフランシスコの海辺から見た、燃えるような夕焼け。今でも鮮明に思い出せるよ」
「アメリカに、住んでたんだ」
「うん。シリコンバレーで働いてたから。でも仕事がうまくいかなくなって、ママとも別れることになって、日本に帰ってきて……」
夢見るような笑みを浮かべていた顔が、一転して強張っていく。
色々あったのだろう。俺は、深く立ち入らない方がいいと思い、黙り込んで窓の外を見つめる。既に東京の高層ビル郡は見かけなくなり、工場や民家、背の低い建物の数々が遠巻きに通り過ぎていく。
彼女は、言葉を続ける。
「中学校の時、パパと物凄い喧嘩しちゃってね。それからパパ、私を避けるようになって……私も、パパを傷つけるくらいなら離れたほうがいいと思って、東京の大学に行くことにしたんだ」
霧子のハンドルを握る手に、力が入る。
「それじゃあ、久しぶりの再開になる……のか?」
「うん。二年ぶり、かな」
「……それなら、早く帰らないとな。思い出の車と一緒に」
彼女の思いつめたような言葉に、適切だろうと思う言葉を選んで返す。感情的な会話にいまいち入り込むことができない俺は、この手のやり取りをするときちゃんと正解の言葉を返せたのかといつも不安になる。しかし「うん」と優しげに声を漏らした彼女の反応を見るに、的外れな言葉ではなかったのだろう。
「逃がさねぇぞぉおおおお!!」
突然、窓越しに聞こえてくる低い男の声。
走行するミニクーパーに横付けしてきた、深い朱色のシャーシを纏った大型バイク。それに跨る肥えた男から発せられた叫び声のようだった。赤白黒のライダースーツを身に纏い、ヘルメットの奥から鋭い視線を向けている男は、近づいてきて中指を立てる。
「なにあれ?」
「……ハゲブタだ」
俺は慌ててスマホを取り出し、「珍黒斎」の名で暴れていた匿名掲示板にアクセスする。「ONYMOUS.NET」の登場以降、匿名性を失った匿名掲示板などほとんど誰も使わなくなったが、身バレしても失うものがないような、いわゆる「無敵の人」などは今でも書き込みを行っていた。
俺と何年もその場所で言い争いをしていたハゲブタもその類で、今でも度々、俺の過去の悪行や、俺をストーキングして得た情報などを書き込んでは挑発を繰り返していた。
掲示板には、「重罪人珍黒斎が、停職期間中に女とドライブ。反省の素振りなし」
という書き込みと共に、俺と霧子が並んで立っている写真がアップロードされていた。
ハゲブタが乗る大型バイクの流線型の車体から突き出た巨大なマフラーが震え、ブォンブォンとこれみよがしな爆音が鳴り響く。
「俺、あいつに付き纏われてるんだ」
「なんでよ?」
「まー、色々あって」
ハゲブタ素顔晒し事件。語れば、十中八九嫌われそうな話なので言葉を濁す。
するとハゲブタが、懐から卵を取り出してこちらに向けて投げ放つ。卵は、俺の目の前にあるガラス窓に当たり、ドロッとした黄身と白身がミニクーパーの外装を汚した。
「ああっ!?」
奇声をあげる霧子。
「こいつなにしてくれてんの!? パパの車に……!」
霧子はためらないなくハンドルを切って、ハゲブタのバイクに体当たりを食らわそうとする。慌てて避けたハゲブタは、面食らったような表情でこちらを見ている。
「ちょっと、やめろって!」
「喧嘩売ってきたのはあっちでしょ。パパと私の思い出を汚した罪、死をもって償ってもらう」
「お願いだからやめて!?」
鬼のような形相でハンドルを握り締め、本気でハゲブタの命を仕留めようとする霧子を必死に宥める。
その間に、落ち着きを取り戻したハゲブタが、今度は懐からハンマーを取り出して、こちらに近づいて来た。
「ちょっ! お前、自分がなにやってるのか分かってるのか!? これ犯罪だぞ完全に」
窓ガラスを開けて、ハゲブタに声をかける。
「だからどうした! 俺やみんなの心は、お前に殺されたんだ! 魂の殺人だ! 法に裁かれぬ心の殺人者がいるならば、法を逸脱してそれを裁くだけだ。死ね!」
霧子は咄嗟にステアリングを切り、ハゲブタが振り下ろしたハンマーをすんでのところでかわす。一歩間違えば、今目の前で空を切ったそれは俺の顔面を砕いていたことだろう。
「うるさいわね。御託はいらない、死になさい!」
「っ……! いやいや! 死になさい、じゃないから! 落ち着こう、ふたりとも!?」
左から迫るバイクに乗ったおかしなデブ。右には、ためらいなくそれをひき殺そうと息巻くおかしな女。俺は、ふたりの狂人に挟まれながら必死に事を収めようとする。このストレス負荷の高い状況、役所で市民のクレーム対応に追われていた時のことを思い出してしまう。
「君が殺人犯になったらお父さん、悲しむだろう」
お父さん、という言葉を聞いた途端、怒りに震える霧子の身体が少し静まる。
「珍黒斎! 食らいやがれっ!」
ハゲブタは再びハンマーを振り上げたかと思うと、そのままその鉄の塊をこちらに投げつけてくる。霧子が咄嗟にブレーキを踏み込むと、車体はガクンと縦に揺れて停止して、くるくると回転して飛んできたハンマーはミニクーパーのボンネットに当たって跳ね返り、地面に落ちた。
「いって……」
俺は、ブレーキの衝撃で崩れた体勢を元に戻しながら声を漏らす。
霧子の咄嗟の判断で事なきを得ることはできたが、ミニクーパーの車体には大きな傷が残っていた。
「頼むっ! ここは我慢してくれ!」
「なんで!」
「あいつを殺せば北海道にだって行けなくなる。大切なものを傷つけられて憤る気持ちはわかるけど。ここは一旦収めて、逃げよう! お父さんのために!」
「…………」
霧子は、「深呼吸、深呼吸」とぶつぶつ呟いた後に何度も大きく息を吸う。
そして俺の言葉に納得してくれたのか、アクセルを踏んで車を進める。
「ハゲブタ! いや、小崎啓吾、お前の望みは一体なんなのさ? 俺を本気でぶっ殺したいのか? そんなことで人生台無しにしていいのかよ」
「……俺に、望みなんてない。卑怯者のお前みたいに、仕事があるわけでもない。あるのはお前への憎しみだけだ!」
言ってハゲブタは、今度はバールのようなものを懐から取り出した。
クレームをつけてくる人間の奥底にある欲求を読み取り、可能な範囲でそれに答えつつ相手の心情によりそい、実現できないことは相手へ同情のスタンスを見せながらも、不可能であることをやんわりと、丁寧に繰り返し説明する。それが区役所で俺が身に着けたクレーマーへの対処方法なのだけれど、建設的な「望みがない」相手というのは厄介だ。荒ぶる感情の目的地がないのだ。ただその場にあるものを破壊するためだけにそこにいる。
「あなた、本当になにしたの?」
「えーっと……まー色々。それよりどうしよ? 説得できそうにない」
「振り切ればいいんでしょ」
霧子は簡単に言うが、馬力もそんなにないだろうこのミニクーパーで、ハゲブタが乗るいかつい大型バイクを振り払うなど至難の業のように思えた。
「ちょうどそろそろインターチェンジ。あの人を挑発してよ?」
「挑発?」
「いいから、早く!」
訳も分からないまま霧子に急かされて俺は、ハゲブタを見る。あいつを説得するのは至難の技だが、傷つけて挑発するのは赤子の手を捻るより簡単だ。俺は心に「珍黒斎」の仮面をつけてハゲブタと向かい合う。
「おい、出来損ない。お前、去年、ツイッターで声優の卵の女の子をストーキングしてブロックされてただろ。親にも見捨てられ、女の子にも気持ち悪がられて、無職で、本当に生きている意味ねーな。なんで生まれてきたんだ、人間未満の落ちこぼれ。お前を目にしてしまった人間全てが、お前みたいな生命の欠陥品、なくなったほうがいいと思ってるぞ。生命の公害、首括れよ」
口から、流れるようにハゲブタに向けた罵倒が溢れてくる。「ONYMOUS.NET」で得たハゲブタの個人情報も役に立った。
女にもてず、ネットの世界に逃避し続けいていた俺が偉そうに言えたものではないのだけれど、そんな自分の事など棚に上げ、ただただ無心にハゲブタを傷つけるためだけに言葉を投げかけ続けた。みるみる真っ赤になっていくハゲブタ。正直、楽しい。人を罵る行為自体に快楽はないが、意図通りに人間の感情が動く様がとても楽しい。
「そうこなくっちゃなぁ! ぶっ殺す!」
何故だかハゲブタは怒りに打ち震えながらも笑みを浮かべて、バールを振りかざしてこちらに突っ込んでくる。
ガクン、と車体が揺れたかと思うと、急ブレーキが掛かる。
霧子は、手早い動きでシフトダウンし、ミニクーパーの前を猛スピードを維持したままハゲブタのバイクが走り去っていく。ハゲブタがぎょっとこちらを振り返るが、霧子はハンドルをくるくると回してアクセルを踏み込みシフトアップし、ミニクーパーをインターチェンジの下り道へと滑り込ませた。一瞬の出来事だったが、物凄い運転技術によって一連の動きが行われたことはペーパードライバーの俺でも理解できた。
ハゲブタは、そのまま高速道路を疾走していった。
「このまま下道に降りて、大洗を目指すわよ」
「ああ!」
「それにしても、随分と楽しそうに……」
霧子は、冷ややかな目でこちらを見る。先程の俺の暴言に、思うところがあるのだろう。
「ま、いいや。先を急ぎましょう」
霧子の突き刺すような嫌悪感が、心に刺さる。
匿名性に守られていた俺の壊れた側面。表に出てしまえば、この健全な世界の敵として排除される定めにある。北海道へ向かう旅は始まったばかりだというのに、最悪の出だしとなってしまった。