16話(最終話)
七章 僕達の透明な戦争
『ANONYMAOUS.NET』がネット上に現れたのは、それから一週間後のことだった。そのサイトは、『ONYMOUS.NET』の不正を暴くため世界中から情報を集める――といった趣旨で雨ガラスが作ったサイトで、茅森孝一が残したASSに守られて『ONYMOUS.NET』と同じ絶対的な匿名性を保っていた。
俺達は、そこに寄せられた通産省官僚のリークという体を装って、スマートフォン緊急速報アプリに仕掛けられた情報収集用ウイルスの解説と、それを茅森孝一に作成するよう指示した『ONYMOUSの使者』からのメールを捏造してアップした。彼ら組織の情報は、ASSに守られて雨ガラスの力を持ってしても未だ暴き出すことができなかったが、世間にこの問題を理解してもらうために敵を明確にする必要があると思い、嘘でも推測でもいいからそれらしいストーリーを加えようと俺が提案した。常に正直であることを信条とする霧子は嫌がったが、父の仇を討つためだからと言って説得した。およそマスコミすら操作することができる彼らに、真っ当なやり方だけで勝てるわけがない。
サイト設立から数日後に寄せられた投稿と言った体で、俺の家前で霧子を襲った連中の動画と、摩周湖で『自殺』したと報道された茅森孝一が『ONYMOUSの使者』を名乗る人物によって殺されたという霧子自身の証言動画をアップして真実味を出した。
勿論、これだけで世の人々が俺達の話を信じるわけがない。
「ここからが、俺の仕事だ」
病気を理由に一週間仕事を休み、関東某所にある廃墟を改造した彼らのアジトで計画を練った後、素知らぬ顔で区役所勤めの日常生活へと戻っていった。
俺は、雨ガラスに貰ったノートパソコンと、同じく雨ガラスに裏で購入してもらったフォロワー数一万以上のTWITTERアカウントを複数駆使して、『ANONYMAOUS.NET』の存在をピックアップするような呟きをひたすら続けた。あるアカウントでは冷静に、あるアカウントでは扇情的に、それぞれ人格を使い分けて『ANONYMAOUS.NET』は信頼に足るサイトだとアピールし続けた。
ミスティさんが託してくれたASSを使っているので、敵もそのアカウントの尻尾は掴めない。久しぶりに匿名で、様々な人格を無責任に演じて大暴れする楽しみを満喫できた。
一週間も続けたところで、『ANONYMOUS.NET』は、なんとかTWITTERトレンドに上がるようになった。それと同時に、英語を使える雨ガラスや霧子を通して、ニューヨークタイムズやアルジャジーラ等海外メディアに、改めて全ての情報を送った。大手メディアは相手にしてくれなかったが、いくつかの海外メディアと日本のネットメディアが『ANONYMOUS.NET』を取り扱ってくれるようになり、サイトには様々なメールが殺到した。協力するという人物も徐々に現れ始め、その中に本物と思われる『ONYMOUSの使者』らしき人間からのリーク情報もあった。
そのリークによると、彼も末端で組織について多くは知らされていないが、茅森孝一以外にも多くの優秀なエンジニアが法外な報酬や、場合によっては家族を人質に取られながら『ONYMOUS.NET』のシステムを磐石にすべく仕事をさせられているという。そしてその多くのエンジニアは、『ONYMOUS.NET』というプロジェクトに関わっていることすら知らされずに、新たな情報収集用のウイルスを作らされているのだという。
それらの情報を取りまとめて『ANONYMOUS.NET』にアップすると、組織に利用されていたと言うエンジニアからも情報提供があった。
俺は、厳格で義憤に燃える広報官ジョンという人物になりきり、それらのメールの対応に当たった。平日は区役所での仕事を終えてから朝になるまで、ほとんど寝ずにその作業を行っていたのでしばらく寝不足で仕方なかったが、アドレナリンが脳内を駆け回っているのか全く辛くはなかった。母もその頃の俺を見て「なんだか活き活きとしている」と言って喜んでくれた。
身を隠しながら活動する俺達とは別に、ハゲブタはその身を危険に晒しながら全国を駆け回って情報の裏を取って回っていた。何度も危険な目にあったというが、凄まじいしぶとさで逃げ回りながら確度の高い情報を『ANONYMOUS.NET』に送ってきてくれている。
そして春本番、桜咲き乱れる季節になった頃、沈黙を続けていた日本のテレビメディアも黙ってはいられなくなり、こぞって『ANONYMOUS.NET』に寄せられた情報を取り上げるようになった。
群青から淡い水色へ変わっていく、心地良いグラディエーションに彩られた青空が、周囲を囲むビルの向こうに広がっている。
新宿アルタビルに取り付けられた大型テレビモニターに霧子の顔が映し出されていて、俺はじっとそれを見上げていた。
実際に会うことはできないがオンライン上であればという条件で、霧子がワイドショーの生放送に出ることとなったのだ。『ANONYMOUS.NET』を介して、俺と雨ガラスが奔走してテレビ局からの申し出を具体化し、今日の放送に至った。
組織からしたらこの機会に霧子の使用しているオンライン上のアドレスを特定し、居場所を掴もうとしているのだろうが彼女が使っているパソコンもASSに守られている。雨ガラスでさえ舌を巻く、ミスティさんが残したその秘密兵器は、いまだ誰にも破られることなく俺達のオンライン上での安全を確保してくれていた。
「私の父、茅森孝一は、あの日……深夜の摩周湖に突然現れた小型ドローンに殺されました。銃殺されたのです。どう見ても他殺されたにも関わらず、警察の現場検証によって『自殺』と認定されてしまいました。私の言葉を、陰謀論に囚われた哀れな人間の言葉と思う人もいるかもしれません。それでも、一度だけでもいいから。今起きている現実を疑ってみてください。大切な人が奪われてしまった後では、もう遅いのですから……」
悲痛な面持ちで語る霧子の言葉は、聴衆の心に届いているようで、多くの人が足を止めて頭上にある大型モニターを見つめていた。
「しかし茅森霧子さん。身を隠して、匿名の場所からそんなことを言っても説得力がありませんよ。あなたが、犯罪まがいのやり口で情報を入手しているという『ANONYMOUS.NET』の首謀者なのではという噂もある」
どこかの大学教授だというコメンテーターが、霧子を問い詰める。一応、建前として霧子は『ANONYMOUS.NET』とは無関係の人間で、サイトを見て自らが受けた被害を語ろうと決意したリーク投稿者の一人ということになっていた。
「まず匿名性を批判するのであれば、出所の分からない噂を元に話を進めないで欲しいです」
威圧的な男の態度に動じることなく、霧子は冷静に反論して話を続ける。
「私も、匿名でこそこそ人を罵ったり、正々堂々直接話し合わない人間を卑怯だと思っていました。『ONYMOUS.NET』が登場する前、多くの人々がネット上の匿名の悪意にさらされ、傷ついていたのを見て心を痛めていました。だけど、力無き者が表に出れば捻り潰されてしまう現実があるのです。そのせいで私の父は、殺されてしまいました。その事実を明らかにしようとしたところ、私もまた動画に写しだされた男達に襲われました。だから……潜む必要があるんです。私も、『ANONYMOUS.NET』も。そして守る必要があるんです。誰もが平等に、意見を述べることができる匿名のネット社会を」
真正面から意見を突き返された大学教授は、顔を赤くして「そんなもの悪質なゲリラだ! テロリストの理論だ!」と声を荒げた。
リアルタイムでSNS上に書き込まれていく情報を追うと、怒鳴りつけた大学教授より、冷静に話を進めた霧子に好感を持つ人が圧倒的に多かった。これだけでも今日の博打は、勝利したと言える。そして霧子は続ける。
「テロリストも人間です。その存在自体を切り捨てるのではなく、その痛みを知り、語りかけることが重要だと、今の境遇に置かれて私は思いました。立場も関係ない、リスクが少ない匿名化された場所であれば、傷つき世を恨み、憎しみをその胸の内に秘めた彼らとも少なくとも対話を行うことができる。今の『ONYMOUS.NET』によって匿名性が失われた社会では、彼らはその胸に秘めた怒りを爆発させるまで、表に出すことができません」
そんな霧子の言葉を、勝手に俺に向けて語っているように感じ取ってしまったのだろう。いつの間にかアルタ前に出来ていたテレビを見上げる雑踏の中で、泣きそうになってしまって、目尻を拭った。
「動かないでください。動けばあなたの命はありません」
後ろから、男の声がする。背中に何か、鉄の塊が押し当てられているが、周囲にいる人間がそのことに気付いている様子は無い。
「……こんな沢山人がいるところで、発砲する気か?」
「私達と共に、来てください」
「俺が拉致されたり殺されて連絡が取れなくなった場合、仲間がそれをインターネット上で周知する手はずになってる。『PEACE WALKER』が行方不明になった、ってな。幸い俺は、一度あんた達に襲われているおかげで、どう見ても疑いはあんた達に向く。これ以上のニュースはないってわけだ。もし、新たな話題を提供したいのであれば無理矢理どうぞ」
身体の震えと跳ね上がる胸の高鳴りを抑えて、このような窮地に陥ったときのため練習してきた言葉を、淡々と言う。
しばらくの沈黙の後、背中に当てられた拳銃の感触がすっと消える。
一息ついて振り返るが、そこには既に誰もいなかった。
この間、関東で大きな地震がありスマートフォンから緊急速報の不気味な音が鳴り響いたのだが、『ONYMOUS.NET』の情報は更新されなかった。雨ガラスが調べたところ、仕掛けられていたトロイの木馬はもう消されていたようだ。
「とりあえずは、勝ったってことでいいよな?」
俺は、いつもの毅然とした表情で、激昂するコメンテーターたちと対峙するモニター上の霧子に語りかける。彼らのアジトを出て東京に戻ってきて以来、彼女ともリアルでは一切顔を合わせていない。俺が組織の監視下に置かれてる以上、よほどのことがない限り直接会うことは今後もないだろう。その事に一抹の寂しさを覚えないこともないけれど、今は俺達が手にした小さな勝利をただ噛み締めればいい。
ビルの隙間を抜けて、数羽のカラスが天高く飛び上がっていく。新宿駅前広場には沢山の人が集まってきていたが、誰一人としてその天高く飛ぶ黒い影を追う人はいなかった。俺はそのくすぶり汚れた勇姿が空の彼方に消えていくまで、バカみたいに空を見上げて、笑っていた。
「ただいま」
戸を開けて声を掛けると、奥から「お帰り」という母の声が返ってくる。
夜闇に染まる玄関から続く廊下を、リビングから漏れる明かりがほのかに照らしていた。
リビングに顔を出すと、美味しそうなカレーの匂いが漂ってきて鼻腔をくすぐる。
「今日、カレーだから」
「嬉しい」
俺は率直な感想をそのまま口にして、料理を続ける母の後ろを通り抜けて、二階にある自分の部屋へと向かう。
部屋に入ると、盗聴器や盗聴カメラが仕掛けられていないか、雨ガラスから貰った棒状の探査機で調べて回る。部屋の扉にも三重に鍵を掛け、留守中は逆に監視カメラで自分の部屋の映像を映して、雨ガラス達に監視してもらうことでこの部屋のプライバシーをなんとか維持していた。
俺は、部屋に誰も侵入した形跡がないことを確認すると、押入れの奥に置かれた金庫からノートパソコンを取り出す。俺達が五本しか有していない、ASSが入ったUSBメモリの内の一本が刺さった、絶対の匿名性が担保されたパソコンだ。
『ANONYMOUS.NET』に送られた、リーク情報を確認できるページを管理者権限で開いて、緊急性の高いものから返信していく。なかなか大変な作業ではあるが、英語圏から送られてきたメールを、英語が読めない俺のためにいちいち翻訳してくれている霧子や雨ガラスの労力を思うと怠ける気にはならなかった。ハゲブタだって、バイクに跨り日本中を駆け回り、危険を冒しながらも情報を集めてくれている。
「ごはんだよ」
母の声を受けて作業を中断して、夕食の席に着く。
なんの変哲もない、だけどその変哲のなさが最高に美味しい我が家のカレー。それを何度も噛み締め、味わいながら食べていると、
「なにか……裏で、とんでもないことをしてる?」
などと母が突然言ってきて驚いた。
『ANONYMOUS.NET』に関わることは、当たり前だが誰にも話さず全て秘密裏に行っていて、区役所の人間達にも一切悟られてはいないと思う。こういうところは、嘘に嘘を重ねて生きてきた今までの人生経験が生かせるところだ。
だが、長年生活を共にしてきた母には隠し切れなかったらしい。
「んー、どうだろ」
などとお茶を逃すと、
「守が自信を持ってやれることなら、お母さん応援するから」
とだけ言ってくれた。
母の言葉と、舌に馴染んだ実家のカレーで心身共に満たされて部屋に戻ると、雨ガラスからメールが来ていた。どうやらハゲブタが『ONYMOUS.NET』が新たに作ろうとしている情報収集用のウイルスについて、重大な情報を掴んだらしい。
俺は『ANONYMOUS.NET』の広報マンとして、その情報を効果的に、目立つ形で世の中に提示するアイデアを雨ガラスに送る。
普段はぼんやりしている癖に、仕事に関してはかなり厳しい側面を見せる雨ガラスの返答をやきもきしながら待っていると、しばらくして「マーヴェラス」と言うタイトルだけのメールが返ってきた。
「はぁー」
大きく息を吐いて、今日の仕事はここまでにしようとドラゴンソードオンラインを起動する。浮遊大陸からドラゴンが飛び立っていく絵が映し出されたタイトル画面で、新たに作った『ダークナイト』と言うキャラクターを選択し、冒険に臨む。
今回のキャラクターは、『信じていた王に裏切られて一度は邪悪に染まったが、旅の途中で出会った美しい姫のおかげで善性を取り戻した心に深い傷を持つ闇の騎士』いう設定だ。厨ニ臭いからなんだと言うのだ。いつになっても少年の心を忘れないというのは、美徳であって欠点ではない。それにこのASSに守られたパソコンであれば、完全なる匿名性を維持したまま遊べるんだから好き勝手やればいい。
今日、配信されたばかりのクエストを遊ぼうと城に向かう途中、オンライン状態だったフレンドから「新しいクエスト、一緒にやる」と、簡素なメッセージが送られてきた。
最近このゲームを始めたばかりそのフレンドは、レベルも低くゲームに対する知識もまだまだで、今日配信された高レベルクエストにはかなりてこずりそうだった。俺は頭の中で、どうやって彼女をフォローしながらクエストをクリアするか、プランを立てつつ約束の場所へと向かう。
俺は、最近になって初心者にも解放された『星の海』へと向かう。かつては限られたプレイヤーしかたどり着けなかったこの場所も、今では多くのプレイヤーが交流を深める場所となっている。賑やかにはなったが、ミスティさんと俺の特別な場所が特別じゃなくなってしまったようで、解放された当初はちょっとだけ寂しかった。
「疲れた!」
と開口一番、フレンドは俺に声をかける。
その名前はミスティ。勿論あのミスティさんとは違う、別のキャラクターだ。霧子がASSによって守られたPCで新たに作り直したミスティで、彼女の父のように渋く、優しげな初老の男キャラクターとなっている。父が父なら娘も娘だ。
「お疲れ様」
いくら匿名化されたPCから接続しているとはいえ、ログが残るゲーム内で『ANONYMOUS.NET』について語るわけにはいかないので、要点をボカしながら今日のテレビ出演を全うした霧子の労を労う。
「あなたも、お疲れ様!」
俺達はゲーム内で、万歳をするモーションを使って、今日と言う日の勝利を祝った。
「それじゃ、行きましょうか!」
そして彼女は俺を二人乗りのドラゴンに騎乗させて、いつだかこの家から北海道に連れ出したときのような強引さで、新しいクエストが発生する場所へと連れて行く。
霧子が、何を思ってドラゴンソードオンラインを始めたのかは分からないが、せっかくやるのだからこのゲームを好きになってもらいたい。今日のクエストを最高に楽しんでもらうため、完全勝利に向けた作戦を思い描きながら、俺はその場所へと向かっていった。
終わり