14話
六章 ANONYMOUS
窓から差し込む温かな日差しと、下の階から香ってくる味噌汁の匂いが優しく俺を目覚めさせる。辺りを見渡すと、ずっと引きこもってきた見慣れた部屋が今日もそこにある。
寝起きのおぼろげな意識のまま一階に下りていくと、台所でいそいそと朝食の支度をする痩せ細った母の背中があった。
「おはよう」
「おはよう。今日、出社日だっけ?」
「うん」
「頑張って」
嬉しそうに、母が言う。
あの奇妙な北海道への旅から帰ってきて時が立ち、季節はそろそろ春を迎えようとしていた。まだ寒気は残っているけれど、天気の良い日など長袖だと汗ばむ事もある。
食卓に置かれた赤飯に、このところ見たことがないような笑顔の母。母は、どれほど強い気持ちで、俺が社会復帰することを望んでいたのだろう。
「はぁー、緊張する。役所の人たち、どういう感じで接してくるんだろ……」
「大丈夫大丈夫。自信を持って、働いてきなさい」
赤飯を食べて、久しぶりのスーツに着替えて、家を出る。
「いってらっしゃい」
と声をかける母は、やはり嬉しそうだった。
あの日。真摯な眼差しでこちらを見据え、問いかける雨ガラスに対して、
「一緒には戦えない」
と、俺は答えた。感情をあまり表に出さない雨ガラスだが、あのとき見せた笑顔はどこか寂しげに見えた。
家に母一人残して、全てを捨てて戦いに身を投じるなど、自分にはできないと思った。自分の中にある負の側面を解き放てる唯一の場所を破壊し、挙句の果てにミスティさんを殺した奴らは憎い。霧子のことだって、守りたいとも思う。だけど、どこまで行っても自分は、安全思考で中途半端な人間なんだ。
「おはようございます」
所々擦り切れた区役所の階段を上がり、広報課の札が垂れ下がった一角にやってくる。
並べられたデスクの前に座る年配の職員が、こちらを見て「おはよう」と会釈をしてくれる。どこかぎこちなさは感じるけれど、匿名掲示板で罵詈雑言を書き続けた果てに、雇用下である国や顧客である市民を罵倒し倒して停職処分を受けた自分に対して、十分優しい対応だと思った。
「久しぶり。少し、顔色がよくないかな?」
課長がこちらにやってくる。口髭を蓄えた、品のいい紳士といった風情のある人で、クビになるかならないかの瀬戸際で、広報課に残れるようにと働きかけてくれた恩人だった。
「あの……色々、ありがとうございました」
俺は、頭を下げて感謝する。
「お礼なんていらない。君は、広報課に必要な人間なんだから。はい、これ。復帰祝いに」
そう言って課長は、包み紙を俺に渡す。
懐かしの自分の席に腰掛けその包み紙を開けると、中から一本の万年筆が「これから新たに頑張っていこう」というメッセージと共に現れた。
俺は、課長に感謝してから息を吐き、「正しい選択を行ったんだ」とこの数ヶ月ずっと繰り返してきた言葉を、再び心に刻んだ。
俺の仕事机からは、カウンターの向こうにあるテレビが視界に入る。それは、手続き待ちの区民のために設けられたものだった。
今日も今日とて『ONYMOUS.NET』によって浮気がバレた芸能人のニュースや、不正が明らかになり失職した政治家のニュースが流れていた。しかし以前のような衝撃や混乱はそこになく、「またか」と言った感じで皆それを受け止めている。
そんな多くのニュースの波に飲まれて、雨ガラス達が年明けに仕掛けた『緊急速報アプリに国民の情報を収集するウイルスが仕込まれている』というリーク情報は、数誌の週刊誌と東スポに取り上げられただけで収束してしまった。雨ガラスは、あの見事なハッキング技術を駆使してウイルスの存在を明らかにしたのだが、よくよく記事を見てみなければその説得力は伝わらないし、誰もそんな小難しいことには興味を持たなかった。世の人々は、事の正確さではなくなんとなくの印象でものを見るからだ。現実離れしたそのニュースは「頭のおかしな陰謀論」という印象で多くの人に捉えられてしまった。
「少し前に話題になった、緊急速報アプリにウイルスが仕込まれていたニュースって知ってますか?」
と同僚に聞いても、「なんだそれ?」としか返って来なかった。
事件そのものは、勿論大きなニュースになって然るべきものだが、テレビでの報道は一切行われなかった。なんらかの圧力があったのかもしれない。相手は、大手出版社にさえも繋がっている組織なのだ。
昔であれば、テレビで取り上げられていない事件であっても、匿名性の高いSNSや掲示板を介して爆発的に広まったりしたものだが『ONYMOUS.NET』以後、すっかり拡散力を失ったネットにその力はない。
だけど……もっと、やり方があったはずなんだ。
つい浮かんでしまう雑念を払うように、発注先に電話をかける。雨ガラス達が人生を賭して行っている戦いを、逃げ出した俺がとやかく言う資格はない。
「八月の区民祭のポスターについてですが……」
摩周湖で起きたあの騒動の後。雨ガラスがどこからか調達してきた銀色のセダンで、霧子は、空港近くの公園まで俺を送ってくれた。
「はぁー。オートマ車って本当、運転のしがいがない」
無数の銃弾を打ち込まれ、ボロボロになって廃棄されたミニクーパーを懐かしんで霧子が言う。いつもストレートに感情を表に出す霧子ではあったが、あの時だけはどこか明るさを演じているよな趣があった。きっとミスティさんの遺言を裏切った俺を、責める調子にならないよう気遣ってくれていたのだろう。
車の外に出ると、締めつけるような北海道の厳しい寒気が身体を振るわせた。
「ごめんね、こんなところで。本当なら空港まで送っていってあげたいんだけど」
「いや、雨ガラスも言ってたけど危険すぎるって。本当なら、ここに来るのだって相当危ないんだから……」
「……ふふっ、すっかりお尋ね者ね」
霧子が笑う。
ミスティさんが凶弾に倒れてから、日も経っていないあの頃。霧子が見せた笑顔の裏では、まだ激流のような感情が渦巻いていたはずだ。本当に強い女の子だった、と今でも思う。
「あなたも気をつけてね。雨ガラスは、大人しくしてれば手荒な真似はしてこないと思うって言ってたけど……」
「……いざとなったら、本気で邪魔者を抹殺しようっておかしな連中だもんな。ま、恭順する姿勢を全力で見せて殺されないように善処するよ。そういう……建前や嘘で、自分を取り繕うのは得意なんだ」
「あんな最低な人間だって……隠して、生きてきたんだもんね」
そんな棘のある霧子の言葉も、どこか相手を認めるような、優しげなニュアンスに包まれていた。しかし彼女やミスティさんを裏切った俺に対してのそんな不相応な優しさは、どんな辛らつな言葉より強く胸を締め付ける。
「それじゃ、行くわ」
「なんだか、寂しいな。これが今生の別れ……みたいで」
家に戻り、一度組織の監視下に置かれてしまえば、当然の事ながら身を隠して戦う霧子達と会うことは出来なくなるだろう。
「短い旅の間だったけど、楽しかった。ありがとうな、霧子。そして……ごめん」
「謝らないでよ。それにこっちこそ、危険なことに巻き込んで、ごめん」
そして俺は、空港へ向かい歩いていく。
「ねぇ!」
と、霧子が俺の背に声をかける。
「私、もうひとつあなたに謝らなきゃならないことがあるの!」
彼方では、淡い冬の青空の中、飛んでいく飛行機が見える。高いエンジン音と、抜けるような風を切る音が遠くに聞こえる。
白い雪に覆われた道路に立つ霧子は、俯き加減に手をもじもじとさせていて、なかなか次の言葉を切り出さない。
「旅の間の、理不尽な暴力の数々についてか? 暴力女!」
茶化した調子で俺が言うと「違う! あれは……正当防衛だから!」と声をあげて、白い息を吐いてこちらを見る。
「あなた……お父さんに告白したことがあるでしょ? 星が奇麗だったあの場所で」
予期せぬ霧子の言葉に、胸が跳ね上がる。
「あのとき、『ミスティ』を操作してたのは……私だったの。お父さんは、あなたが告白したことを知らなかった」
「ど、どうしてお前が操作、して……」
慌てて舌が絡まってしまう。
「お父さん、いつも楽しそうにゲームをしてたから。どんなゲームをしてるのか気になって、お父さんの帰りが遅い日に立ち上げてみた。そしたらあなたに話しかけられて、あの場所に行って……」
今でもあの時の記憶は、鮮明に残っている。確かにあの時のミスティさんはどこかぎこちなかったが、俺はそれを「面倒なことを言い出したゲーム仲間を、どう窘めるか困っている」からだと解釈していた。そしてその後、そのことについてなにも触れないミスティさんを「なかったことにして、今まで通りゲームを楽しもうとしている」のだと思っていた。
「じゃあ。俺……お前に、告白したのか……」
照れ臭くもあるが、今となってはミスティさんこと茅森孝一氏にその言葉が伝わらなかったことに、ほっとする自分もいる。
「ごめんね! だけどさ。あの時のあなた……かっこよかったよ! さよなら!」
脱兎の如く車に乗り込んで、霧子はその場にエンジン音を残して去っていった。
俺はあの時、ゲーム内でミスティさんに、
「あなたのことが、この世界で一番好きです。なにがあろうと、一生守って見せます」
と言った。
ミスティさんに対しても、実はあの時その言葉を聞いていた霧子に対しても、結局その約束を守ることはできなかったというわけだ。霧子の言うとおり、俺は最低な人間だと改めて思い、東京へと帰っていった。
冬の寒気も徐々に消え去り、春の陽気が近づいてきた今に至るまで、例の組織から直接的な嫌がらせは行われなかった。時折、何者かに後を付けられているような気配を感じたり、仕事中、カウンターの向こう側にある長椅子に腰掛ける市民に混ざって、こちらを見ている男がいた気もするが、ただの被害妄想かもしれないし深くは考えないようにしている。
仮に監視下に置かれているとするならば、泳がせて霧子達が接触してくるのを待っているのかもしれない。
余計なことさえしなければ、俺も霧子達も安全に生きていけるはずだと思い、周囲の人間に嫌われないようにただただ笑顔と気遣いを重ねて日々を過ごしていた。インターネットもどこで『ONYMOUS.NET』に情報を見られているか分からないし、必要最低限しか使わないようにしている。
「日向君、お祭りのポスターは出来てる?」
「はい。今週中には、区内全域に貼られる段取りになってます」
「ありがとう。仕事が早いね」
主に、区長の後援者達を喜ばすために催される祭の準備を黙々と行っていると、通り魔事件のニュースが聞こえてくる。この所、連日だ。気持ちは分かる。インターネットで気軽に孤独を癒せなくなり、鬱屈を晴らせなくなった俺やハゲブタみたいなこの世界における異邦人は、いきなりそれを行うしかなくなってしまう。
週末になると、俺は全てを忘れるために浴びるように酒を痛飲していた。
「ちょっと、飲みすぎなんじゃない」
母親が、トイレから出て部屋へと向かう俺に、心配そうに声をかける。母にこんな顔をさせないために、ミスティさんの遺言を裏切ったというのに。
「うるさい」
言って俺は、部屋のドアを強めに閉めた。
人生とはままならないものだな、と酩酊した意識で思いながら、缶タブに指を引っ掛けアルコールが抜ける気持ちいい音を部屋に響かせる。
酔いの勢いに任せて、このまま匿名ではなくなった匿名掲示板で大暴れしてやろうかとも思ったが、モニター上に書き込まれた自分の文章を読み直して思い留まった。
「今日も偉そうに能書き垂れてる人間を吊るし上げろ! 殺せ! 俺が神だバカヤロウ! 神に向かってくだらねぇ立場からご高説垂れやがってバカヤロウ。全財産よこせバカヤロウ! 土下座しろバカヤロウ! おい! セックスさせろバカヤロウ! 見てみぬ振りなんかさせねぇぞぉ? おい! バカヤロウ! 罪を償わせてやろうか?」
こんなものを送信して、それが区役所にバレれば一発でアウトだろう。
クソみたいな俺を信じてくれた母親や課長を裏切ることになるし、ミスティさんを裏切った意味もなくなる。酒だ。酒を飲ませろ。
コンビニに酒を買いに行く道すがら。ふらふらと車道沿いを歩いていると、何者かが通り過ぎ様に俺を押していった。咄嗟に出た手が脇にあった電柱を掴んだおかげで、眼前を通り過ぎていくトラックに轢かれずに済んだが、あわやといったところだった。
慌てて周囲を見渡すが、俺を押した人間は見当たらない。
早足で部屋に帰って、恐怖心を抑えるように部屋の隅っこで小さくなり、酒を飲み続けた。俺の逃げ場所はもうどこにもない。あるとすればそれは……。