10話
協力者の家にきてから三日目の夜。
俺達は、リビングのテーブルに置かれた雨ガラスのノートパソコンを、固唾を呑んで見守っていた。ダークウェブと呼ばれるインターネットの無法地帯に構築したという、チャットルームの画面が映し出されている。
「百以上の防壁を設けたからね。相手が伝説級のハッカーだろうとそう簡単には除き見ることはできないはずだよ」
「さすがは雨ガラスさんです」
雨ガラスの言葉を、すかさず協力者の男が褒め称える。
チャットルームは、ディフォルメされたカラスや少女のキャラクターで彩られたファンシーな作りになっていて、暖色系の壁紙に所々赤子向けの玩具や食器が置かれた協力者の家の甘い雰囲気と相まって、その場に張り詰めた緊張感を間の抜けたものにしてしまう。
今日の十時。茅森孝一がこのチャットルームにアクセスしてくるということで、俺達は今か今かとその時を待った。
窓の外では、強烈な風に吹かれ雪が舞い踊っていて、カタカタと揺れるガラス越しにその激しい音が聞こえてくる。
「来た……!」
モニター上に「MISTYさんがチャットルームに入りました」と言うメッセージが現れる。
「お父さん!」
霧子が声をあげる。ミスティさんが、モニターの向こうにいるのだ。
RAINY CROW>こんばんわ。ムッシュカヤモリ。
MISTY>はじめまして。君が、雨ガラス君ですか?
RAINY CROW>はじめましてではないんだけど、まぁいい。僕が雨ガラスだ。
MISTY>これは見事なシステムですね。念入りに構築された防壁に加え、強制的にログを削除するよう仕組まれた半ばウイルスめいたソフトによって、どうあっても会話の証拠が残らないようになっている。これなら確かに安心して話せます。
RAINY CROW>世界随一ともいえる、セキュリティソフトの開発者だった君に褒められるとは。光栄だね。
MISTY>昔の話ですよ。霧子は、そこにいますか?
RAINY CROW>後ろで、僕達のやりとりを見ているよ。
MISTY>証拠を見せてもらってもいいですか?
「と、言うことだから霧子君に守君、パソコンのモニターの前に立ってピースピース」
雨ガラスに言われるがまま、俺と霧子は、ぎこちなくピースサインを作る。
「笑って笑って。はい、撮るよ」
そして撮った写真を、協力者の家にいることがバレないよう加工して、モニターに表示する。
MISTY>霧子の隣にいるのが、ガーディアンさんですか?
RAINY CROW>うん。君の相棒だ。今は霧子君と一緒に行動しているよ。
少し間が空いてから、ミスティさんから書き込みが返ってくる。
MISTY>もし彼が嫌でなければ、彼と話させてもらってもいいですか?
優しさか臆病さか、ミスティさんはいつも何かお願いするときに「嫌でなければ」と確認してからものを尋ねる。久しく目にしていなかったミスティさんらしいその気の遣い方に、思わず顔が緩んだ。
俺は、雨ガラスに促されて椅子に腰掛け、ノートパソコンと向かい合い、自分のチャットネームを入力してから言葉を書き連ねていく。
GURDIAN>久しぶりだな。ミスティ。
MISTY>ふふ、お久しぶりです。まさかあなたがいるなんて。驚きました。
GURDIAN>相棒の窮地だ。駆けつけるさ。病気の具合は、どうだ?
MISTY>お医者様に言われているほどではないですよ。前みたいに、朝までゲームをやるような体力はないですが(笑)
あの頃に時間が巻き戻ったみたいに、自然とガーディアンになりきって書き込みを行ってしまう。
仮面を使い分け、沢山の嘘を重ねながら満たされぬものを満たして生きていく中で、心の奥底にいるはずの「本当の自分」と言うものが、とことん価値のないもののような思えてきて、虚しくて、無性に泣きたくなる夜があった。だけどそんな夜を、ミスティさんが、こんなささやかな会話を通して、優しく包み込んでくれていたんだ。
GURDIAN>楽しかったな。あの日々。
MISTY>あなたには、謝りたいことが沢山あります。
GURDIAN>謝る必要なんかない。形はどうあれ俺は、君に救われていたんだ。
「ムッシュ茅森とリアルで会う約束を、取り付けてもらっていいかな?」
雨ガラスが、耳元で囁く。
リアルで会う、というその言葉から、俺はいつだかミスティさんに告白したときのことを思い出してしまう。画面中を埋め尽くす、無数の星々に包まれたあの場所で、ガーディアンの仮面すら投げ捨ててリアルでミスティさんと会いたいと願った。だけどやんわりと断られて、その日の告白はなかったことになった。軽蔑すべき「出会い厨」にすら俺は、なれなかったんだ。
GURDIAN>ミスティ。俺は、ミスティが生きる上でなんらかの力になれていたか?
MISTY>はい。あなたがいたから、私は沢山の罪や、自己嫌悪を乗り越えることができた。今も、あなたと話していると不安な気持ちが和らぎます。
しかしミスティさんの助けになれる可能性があるなら、もう一度。
恥さえも乗り越えて、進まなければと思った。
例えそこにいるのが、六十過ぎのおじさんでも関係ない。
そこには、何千時間にも渡る冒険を通して絆を深め合った、熱き血を通わせた人間が確かに存在するのだから。
GURDIAN>それなら俺は、君に会いたい。
ふたりの言葉が並んだチャット画面をじっと見つめて、ミスティさんの返答を待つ。
しばしの沈黙の後、テキストが表示された。
MISTY>危険な目に、あわせてしてしまうかもしれません。
GURDIAN>別に構わない。冒険に危険はつきものだろ? みんな覚悟してここにいる。
MISTY>わかりました。それなら今から病院を抜け出します。待ち合わせ場所を送りますので、四時間後にそこで合いましょう。
「よしっ! ありがとう守君!」
横からぬっと顔を出してきた雨ガラスが、猛烈な速度でキーボードを叩き、その薄い金髪をゆらゆらと揺らす。
RAINY CROW>その時に『ONYMOUS.NET』についての話を聞きたい。僕はこの剥き出しになった不自由な世界を、元に戻したいと思っている。
MISTY>わかりました。なんだか、あなたのような人やガーディアンさんが霧子と一緒にいることに、運命のようなものを感じますね。
俺は、ミスティさんと会う段取りを、取りまとめにかかった雨ガラスに席を譲る。
「……私は、必要なかったね」
霧子が呟く。素っ気無さを装って口にしたその言葉からは、途方もない寂しさが滲み出ているように感じられた。
ミスティさんとの久しぶりの会話に舞い上がり、忘れていた。俺なんかよりずっと、ミスティさんを必要としている人がいるんだ。
「チャットで話してみろよ」
「指名されたのは、あなただった。パパは私と話そうとはしない。いつものことよ。本当に……あなたを連れてきてよかった。あなたがいなかったらきっと怖くて、こんな時になってもパパと会う勇気が出なかった」
「そんなことない。あるわけないんだよ」
「私とパパのこと……あなたが、なにを知ってるのよ」
「なにも知らないけど。『ミスティ』なんて。娘の名前をキャラクターに付けて、顔まで似せるような人が、娘のことを必要としないわけなんてないんだ」
「そんなの……たまたまだよ」
「たまたまなわけがあるか。MMOのキャラクターって、何千時間も一緒に付き合う自分の分身なんだぞ。そいつに俺達は沢山のものを投影して、感情移入して、寄りかかり続けるんだ。そんなの、軽い気持ちで決めるわけがないだろ……」
「パパは、私のことなんか絶対に好きじゃない。だから日本に来てからずっと……私を遠ざけて……」
いくらその人のことを大切に思っていても、一度否定されて拒絶されてしまえば、それ以上否定されることを恐れて近づくことができなくなる。俺もミスティさんに対してそうだったし、霧子だってそうだろう。だからミスティさんだって、今の霧子と同じように、これ以上霧子に嫌われたくないと怯えて、距離を置こうとしていたんじゃないだろうか。
「雨ガラス。ちょっと霧子に代わってもらってもいいか?」
「ちょ、ちょっと! いいっていってるでしょ!」
「よくないんだよ。そんな風にすれ違ったままじゃ、絶対にふたりとも後悔する。もう時間は残されてないんだろ――雨ガラス、頼む」
「ん? わかった――」
霧子に席を譲ろうと雨ガラスが立ち上がったその時、ノートパソコンのモニターに、
MISTY>君達の拠点に、組織の人間が向かっています。急いで逃げてください。
と表示されて、ミスティさんはログアウトした。
「時間切れか」
雨ガラスがノートパソコンのキーを叩くと、画面に監視カメラのモノクロ映像が映し出される。どうやらそれは、このマンションの玄関映像のようだった。黒い目出し帽で顔を隠した大柄の男達が、次々とやってきては通り過ぎていく。
「逃げないと。みんな、荷物をまとめて」
ノートパソコンをリュックにしまいながら、雨ガラスが言う。
慌てて自分の荷物を取りに向かった俺達の背後から、タイミングよくピンポンと呼び鈴の音が聞こえてきた。
「これって!」
「多分、警察よりも危ない連中だね。あの人数相手に、実力行使で突破は無理か……」
ピンポンの音が鳴り止んだかと思うと、ガチャリと、鍵が回る音が協力者の部屋に響き渡る。
「か、鍵が空いて……チェーンが、切られます!」
協力者の男は、その大きな体で開け放たれようとしているドアに向かって体当たりを仕掛ける。一度は押し返したが、向こう側から押してくる力に徐々に押し返されていく。
「雨ガラスさん! 雨ガラスさんに言われたとおり、ベランダの下に雪山が作ってあります! 飛び降りてください!」
「ありがとう!」
お礼を言って雨ガラスは、ベランダに面したガラス戸をあける。雪崩れ込むように吹き込んできた寒風が、たちまち部屋の温度を下げた。
「と、飛び降りるって! ここ4階だぞ!」
「あれだけしっかり雪が積んであれば大丈夫。ほら、行くよ!」
ベランダに出た雨ガラスは、ためらうことなく柵に手を掛け、ノートパソコンが入ったリュックを大切そうに抱えながらその向こう側へと飛び降りていった。
「行ってください! ここは自分が抑えます!」
「なっ、なんでそこまで! あいつら、危ない奴らなんでしょう?」
「自分の妻……いつの間にか薬物中毒になっていたんです」
こんな状況での突拍子もない協力者の男の話に、一瞬、意識が真っ白になる。
「そんな彼女に子供を任せてはおけないと離婚して、住所も告げず逃げ込むように子供を抱えてこの部屋に越してきました」
ベビーベッドの上に、くるくると回るメリーゴーランドのような玩具が吊るされている。
「だけど『ONYMOUS.NET』が現れて、自分が住んでいる住所を彼女に知られてしまって。子供は、あの女にさらわれてしまった。雨ガラスさんに協力してもらって、やっと彼女が逃げ込んだホテルを見つけ出したんですが……そこであの女は、あの子を道連れに心中を計っていた」
こじ開けられた扉から、黒い目出し帽を被り、まちまちのジャケットを羽織った大男達が入ってきて、協力者を突き飛ばす。
「だから! 早く行ってください! 僕から全てを奪っていった、『ONYMOUS.NET』を貴方達の力で裁いてください!」
「行こう!」
霧子が俺の腕を引く。そして戸惑っている俺に道を示すように、勢いを良くベランダの下に作られた雪山へと飛び降りていった。激しい風の音の向こう、バフンという柔らかな着地音がして、雪山には人型の跡ができる。霧子はどうやら無事なようで、もがくように手足を動かして雪山から這い出て行く。
こちらへ向かってくる男の足を掴んだ協力者を、男の仲間が蹴り飛ばす。それでも協力者の彼は、手足の全てを使って侵入者達の行く手を遮った。
男達のひとりが、懐から何か取り出す。黒いものは――拳銃?
いまはもういない、協力者の子供のために作られた甘く暖かな色合いの部屋で、それは一際異彩を放っている。
「飛ぶんだ!」
下から、雨ガラスの声が聞こえる。
遠くにはぽつぽつと街灯が灯る寂しげな旭川の町と、それらを取り囲む黒ずんだ山の輪郭が見える。俺は、大粒の雪が舞い狂う夜に向かって、思い切り飛翔した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ガラス戸の向こうで吹きすさぶ寒風と、熱気に満ちたラーメン屋室内の寒暖差で窓ガラスが真っ白に曇っている。
暖房と、厨房で煮立ったスープの熱気によって暖められた店内。
特徴らしい特徴のない『完全なる脇役』といった風体の男が、隅のテーブル席でラーメンをすすりながら、胸元のマイクに向かってぶつぶつと話をしている。
「逃がしたって? おいおい頼むよ。このタイミングで彼が、我々以外の人間と接触し、全てを明らかにすれば……どういうことになるか、君にもわかるよね?」
穏やかな話し振りではあるが、妙な威圧感がある男の口調。
男は、ラーメンから立ち上る蒸気を受けて白く曇った眼鏡を手に取り、ハンカチで拭きながら話を続ける。
「手段は問わなくていい。必ず仕事を全うするように」
男は通話を切ると、ラーメンを啜りながらメールを打つ。
「一応、彼にも動いてもらおうか。まったく……厄介なことになってきたな」