死の山を統べる者
それは、絶望と呼ぶには生温過ぎた。暗く重い曇天が太陽を遮り、死の山と恐れられるその場所は、遠目に見ても心の臓を鷲掴みにされているように思え、生きた心地がしない。
ここには緑など殆どない、荒れた岩山ばかりが広がる不毛の大地からは、地を埋め尽くすような死者の軍勢が整然と並び、ゆっくりと行進して来ているのだ。
自分達は今から、アレと戦わなければならない。約束された死と、奴らの仲間入りするであろう未来が透けて見えるのに。しかしながら、退く事など出来ようものかと、偉そうな誰かが叫んでいる。
「今あれを打ち倒さなくては、我らに未来など無い! 今こそヒトの勇気と、神の意思を示す時!」
哀れな死者を冥府の底へと送り帰すのだ。そう声を張り上げているが、それが虚勢でしかないのは、誰の目にも明らかだ。何故なら声を張り上げている者自身の声が震え、顔は青ざめているのだから。
収穫が終わって農閑期を迎えたからとは言え、こんな無謀な戦いをする為だけに徴兵されてきた働き盛りの男達の瞳には、暗い絶望の光だけが灯っていた。
死者の軍勢の大半は、真っ白な骸骨ばかりであった。多くは素手か粗末な槍や剣を握っている程度だが、明確に武装した個体もおり、後方には骨の馬に跨った騎士のような恰好の骸骨も居る。
死を撒く者と恐れられる、山の主の姿は見えない。
それはとても幸運な事であり、誰も口には出さないが、誰もがその事に心から安堵していた。その姿を見た者はいないが、その場に居るだけで死を撒き散らし、死者の軍勢に加えられると噂されている。
誰がどうやってそんな超常の存在を倒せるのか、はなはだ疑問ではあるのだが、偉い人間が出来ると言うのだから可能なのだろうと、軽く考えていた事を今更ながらに後悔してる。
あの軍勢はどう見ても、ちょっとやそっとで蹴散らせる相手ではない。寧ろ自分達が蹴散らされる側だと、嫌でも理解せざるを得ないのだ。
戦を告げる、ラッパや銅鑼が鳴り響いた。馬に乗った指揮官の、震えた怒声が聞こえてくる。死はすぐそこまで群がって来ていた。
戦場を見下ろす丘に敷かれた、陣の中央にある天幕の中ではこの辺り一帯の国々の将が、肩を並べて座っていた。
「戦況はどうなっている?」
「今のところはどこも拮抗しておるようですな。所詮は骨だけの化け物」
「数はこちらの方が圧倒的に多いのだから、一気に押し潰してしまいたいものですね」
「相手は退くことを知らない魔物。国を相手にする戦とは勝手が違いましょう。早々に終わらせなければ、相手は休みなく襲ってくるでしょうし、厄介なものです」
報告される戦況を照らし合わせるように、周辺の大雑把な地図を見ながら冷静に、しかしどこか侮りを含めた言葉が交わされる。
「しかし、死の山の主とやらは姿を見せませんな。所詮は下賤な者の騙りか何かなのでしょう」
「だが相手はあれだけの化け物の軍勢を寄越して来ている。それだけの力を持った者が居るのは間違いない」
「実際に現れたのは、死人の群れに過ぎぬではないか。その程度なら、実力など高が知れておる」
「左様。さっさと蹴散らして、我々に逆らうことがどういうことか、教えてやらねばなりませんな」
「いやはや、全くです」
彼らは何度も戦場に赴いたことのある、由緒正しい騎士たちだ。多少上位種が混じっていようと、比較的弱いとされる骸骨の軍勢に拍子抜けした部分もある。
だからこそ、彼らには油断があった。
どこからか悲鳴が上がった。何事かと誰かが叫ぶ。集った将に緊張が走る。
しかし誰一人として、彼らの問いに答える者は現れなかった。何が起きたのか、彼らはわからないまま、外はすぐに静かになった。
骸骨の軍勢を蹴散らし、死の山の主を名乗る不届き者を誅する。誰もが簡単だと思った戦いであった。
だからこそ、彼らの油断を誘ったのだ。
閉ざされていた天幕の入り口が開く。中に入ってきたのは一人の騎士。端正な、彫刻のような美しい顔立ち。その姿が血に塗れていなければ、誰もが見惚れていたかもしれない。それと同時に、噎せ返るような血の臭いが天幕の中に流れ込んでくる。
その血に塗れた騎士は漆黒の鎧を身に纏い、しかし頭上には黄金の光輪と、背に金色に輝く巨大な翼があった。
「我が主に歯向かった愚か者が集まっているのは、ここですか。さあ、頭を垂れなさい。甚だ不本意ですが、抵抗しないのならば心優しき我が主の慈悲により、一思いに頸を切り落として差し上げましょう」
凛とした声が、聞き惚れたくなるような美しい声が、天幕に響く。だがそれは、地獄の底から響いてくるかの如く、その場に居る者を凍り付かせる。
誰かが叫んだ。敵襲だと。
誰かが嗤った。一人で何ができるのだと。
誰かが剣を抜いた。そのまま血濡れの騎士に切りかかる。
刹那。鋼鉄すら簡単に切裂く、暴風が吹き荒れた。天幕の主たちを無残に、ゆっくりと切り刻みながら。
命乞いと、悲鳴が溢れる。赤が、天幕を鮮やかに染めた。
「しーっかし糞不味いな、こいつら。ほんとに人間の血かよ?」
天幕から出ると、そんな言葉が聞こえた。視線の先に居るのは優男。粗野な振る舞いをしているようで、どこか気品すら感じられる妖しさを秘めている。
「……貴方は、ここにつまみ食いに来たのですか?」
バチッと何らかの力が弾ける。だが男はそれを意にも介していないように笑った。
「はっ。どうせ一人残らず皆殺しにするんだから、構いやしないだろ? どうせヒトなんざ、ほっときゃ勝手に増えるしよ」
そう言って逞しい肉体を持った優男は、悪びれもせずに悪態をつく。それでも彼の瞳の奥底に光るものは、ある者への畏敬の念であった。
「あの御方が、人知の及ばぬ深い思慮を以って、人間どもに関わらないと仰って下さったのに、その御慈悲に泥を塗りたくったこいつらが悪い」
「それには強く強く同意しますが、かと言って下っ端如きを苦しめるのは、我らが主の慈悲に反します。反省なさい」
「へーへー。わかりましたよ」
男の言葉を聞いて、血塗れの騎士は金色の翼を広げる。
騎士の後を追うように、優男の背中から蝙蝠のような翼が現れ、宙を舞う。
全てを終えた彼らは、曇天の向こう側へ消えるように、その姿を消した。
押し寄せて来る悪しき軍勢は、ただただこちらに進んでくる。疲弊も、恐怖も、痛痒も感じる事のない、虚ろな眼孔の奥には、薄っすらとした光が見える。
暗い、昏い、命を宿さない光。その光に魅入られるだけで魂は凍り付き、恐怖で体は動かなくなる。
カタカタと鳴る歯は、言葉を発することはない。身体を支えていた肉体を失ったにも関わらず、不思議と繋がって動いている奇妙さは、目にするだけで怖気が走るほどだ。
魔物と戦った経験など無いただの村人が、そんな錯覚を覚えるのは至極当たり前の事。いつしかそれは恐慌となって、一人二人と逃げ出していけば、堰を切ったように皆が逃げ出していた。
咎める者はいない。何故なら躯の仲間入りをしていたから。馬に乗っていた者は一人残らず、真っ先に殺された。残ったのは各村々から無理やり招集された、寄せ集めの者達。命じる者が居なくなれば、右往左往と混乱する他ない。
そしてそれは、急速に感染していく。
我先にと逃げ出し、足を滑らせた誰かを踏みつけ、敵ではない誰かを殺す事になってでも。
横たわる冷たい骸たちだけが残された戦場で、虚ろな骸骨兵達は敗残兵を追うことなく、カタカタと歯を鳴らしていた。
その者を見れば、多くの者が口々に言うだろう。死神だ。魔王だ。邪悪の化身だ、等と。
己が作り出した骸骨の兵にそっくりな、真っ白な骸骨。しかし身に纏うのは豪奢な、しかしながら荘厳さを感じさせるローブ。そして骸骨の兵とは明らかに違う滑らかな仕草は、確かな知性と優雅さを併せ持っていた。
その者の前に傅くのは、漆黒の騎士と逞しい肉体の優男。此度の戦いも恙無く、主の命じた通りに終わったと。
彼らの報告を聞き終わると、主と呼ばれた者は溜息混じりに、静かに口を開いた。
「早く平穏に暮らせるようになって欲しいわねぇ」