主無き剣
ただ見上げていた。その眼は夜の色を映し、瞬く数多の星々を見た。赤き月が寄り添う白金に輝く月が、暗い森を静かに照らす。
その子供はただ見上げていた。黄金の瞳。真っ赤でボサボサな短い髪。幼子らしい瑞々しく白い肌には、何一つ身に着けてはいない。だからこそ子供は一目で男の子である事が知れる。
暗く深い森の中。共もおらず、たった一人。庇護されるべきはずの子供は、その身一つだけで、ただ空を見上げていた。
そこに在るのは一振りの剣。石の台座に刺さったまま雨曝しの状態でありながら、しかしその黄金の輝きはただ一つとして失われることはなく。この地に住むあらゆる者を退ける存在として、君臨していた。
その剣に近く、遠慮がちな様子で傍に居るのは裸の子供。齢十になるかどうかといった見た目の赤い髪の少年は、その剣に触れるでもなく。しかし剣から離れるでもなくその場に佇んでいる。
穏やかな夜であれど、暗い森の中には様々な獣や魔物が跋扈しているのだ。彼の居る場所はその中にあって、決して何者も侵す事のない聖域となっている。
それは黄金の剣のお陰であろう。その美しい輝きは少年の金色の瞳を更にきらきらと煌めかせ、夜空に瞬く星々のようでもあった。
不意に、とろんと少年の瞼が重くなる。地面に枯れ葉を敷いただけの寝床は剣のすぐそばにあり、少年は迷わずそこに横になると胎児のように体を丸め、くぅくぅと小さい寝息を立てて眠りについた。
今や一部の者しか知らぬその黄金の剣は、人知れずこの深き森の中で眠っていた。自らを振るうに相応しい者が現れる、その時まで。
「……あー、うん。ここにあったのは知ってた。ってか聞いてた。しかし……なんでこうなってるかなあ?」
黒い髪にアイスブルーの瞳。そんなどこにでも居そうな風貌の男は、小さく言葉を漏らした。歳は良く解らないが二十代も中頃くらいの容姿に、この森の中を動き回るには似つかわしくない、品のいいローブのような衣服を身に纏い、フードを目深に被っている。
男は目の前の石の台座に突き刺さった剣に向かって、呆れたような視線を向ける。
辺りはまだ暗闇の帳に満ちていて、視界は悪い。だがこの黄金の剣の周りだけはほのかに明るいお陰で、視界には不都合が無いが、男にはあまり関係の無い事だ。
「お前、この子を守ってるのかい? でもこの子、普通の子じゃないってのに律義なものだな。やはり王の剣としての矜持かね? まあ、それならそれでいいさ。あんまり地上に干渉して欲しくないんだけど、お前さんなら大して問題も無いだろうし」
そう言う男は、軽い調子で剣に語り掛ける。そして剣が刺さった台座の傍で眠る、全裸の子供を愛おしそうに見つめ、しかしすぐに視線を剣へと戻す。
「持ち主を選ぶだけの知性を持つ最上位聖剣の一振り。俺は君を回収して、宮殿の宝物庫へと持ち帰るつもりだったんだけど……この子の為に存在すると言うのなら、無粋な真似は止そう」
男が笑う様に言うと、剣はほのかに輝いたように見えた。
「でもこの子はあまり長く、ここには留まれない。ヒトにしてヒトに非ず。しかし神霊の類でもない。非力で何もできない、生きているだけの人形のようなもの。死ぬことも許されず、その身一つだけで彷徨う呪いの子。何も持たず、何も持てず。身に纏う事も出来ない。何かに寄り添う事も、寄り添われる事もない。この子はそんな、哀しい子供の成れの果て」
「う~。……っ!?」
少年は不意に目を覚ました。そして男を見て、身を強張らせる。怯えているようだった。それでも小さく手を伸ばしかけ、諦めるような仕草は余りにも痛々しい。
「ああ、起こしてしまったかい? うん、いいよ。大丈夫だからおいで」
男がそう言って両腕を広げると、赤い髪の男の子は金色の目を見開き、弾かれるように黒い髪の男性の下へ、縋るように駆け寄って来る。
「あーっあーっ」
男は子供に応えるように抱き上げ、頭を、背中を優しく撫でてやる。すると嗚咽を漏らしながら、少年の瞳から大粒の涙が、幾つも零れ落ちた。
幼い子供の身体は軽い。その瑞々しい肌、子供らしいふっくらとした体つきには見合わない程に軽かった。それは呪いの子と呼ばれる所以。何も持てず、何も得られず、ただ生きる事しか出来ない呪い。
「ごめんな。俺は君を連れて行ってあげる事も、助けてあげる事も出来ない。ただ生きたいと願ったからこそ、その呪いを引き受けてしまった君は、呪いを解いてしまえば……待っているのは死ではなく、消滅だ。君は余りに長く生き過ぎてしまったから、魂が擦り減ってしまって、もう殆ど残ってない。だから呪いが解ければ、魂の欠片すら残らずに消えてしまう存在になってしまった。そして君はそれさえも拒み、この地獄が続くことを選んだまま。それでも寂しいんだね。ほんのひと時だけ、俺の腕の中で泣きなさい。そしてゆっくり眠りなさい」
泣き疲れた少年は、すぐに小さな寝息を立てる。わずかな間でも得られた安らぎに甘えるように。
男はその場で少年を抱きかかえたまま、ゆっくりと時間は過ぎていく。だがそれも長くは続かない。空が白み始め、新たな日の訪れを迎えようかと言う頃。
突如現れた黒い炎が、徐々に少年と男を包み込もうとする。決して何も得られない少年が背負った業。その手に取ったもの、その身に触れて寄り添おうとするもの全てを、少年ごと焼き尽くす卑しき炎。
男は黒い炎に対して身じろぎ一つせず、少年が黒い炎に触れないよう優しく枯れ葉の寝床へと戻してやる。黒い炎は尚も男と少年を焼こうと牙を向くが、男がひと睨みするだけで、黒い炎は口惜しそうに霧散した。
「どれほど悔いのある死を迎えたからと、他者の足を引っ張る事でしか満足できない亡霊風情の呪いが、俺を焼けると思うなよ」
忌々し気に男が吐き捨てると黄金の剣が輝き、辺りは再び清浄な、穏やかな空気に包まれる。
少年の呪いは、自身を守ってくれる保護者さえも得ることが出来ない。永遠の飢えと渇き、暑さと寒さに晒されながらも、決して死なず。何度も何度も、生きながらにして獣に喰われたとして、その身を失っても元に戻る。
その身その体は、何も得られず受け入れられない。何も口に出来ず、何一つとして満たす事の出来ない呪われた命。例え人の街を訪れても、仮に奴隷として人攫いに捕まったとしても、少年を蝕む呪いがその全てを少年ごと焼き尽くし、少年だけが元通りになるだけ。
それを幾度も繰り返し、何度も死の苦しみを味わいながらも死ぬことの出来ない身体で、終には誰も立ち入らない森の奥へ隠れ住むしかなかったのだ。
それでも一ヵ所に留まる事は許されず、永遠に彷徨い続けなければならない。吹雪が吹き荒れる極寒の雪山であろうと、川や海の中であろうと、黒い炎は容赦なく少年を焼くのだ。
それはこの場一帯を聖域とするほどの力がある、黄金の剣の傍であっても変わらない。それでも他の場所より長く留まれたのは、やはり聖剣の力があってこそだろう。しかし呪いの炎はその金色に輝く剣を侵す事は出来なくとも、少年を焼くことは出来るのだ。
「彼に呪いをかけた者はもう居ない。だが今も呪いの一部として存在している。ああ、実に忌々しいな」
無念そうに、霧散した炎を男は睨みつける。永遠に報われる事のない旅路。それでもいつか救われて欲しいと思うのは、果たして我儘なのだろうか。
「あの子の魂を癒す術はあるのに……解放する術はあるのに、何もしてやれないなんてな」
男に出来るのは、偶然出会った時に僅か一晩の間、優しく抱きしめてあげることだけだ。それも頻繁に会う事は出来ない。あの呪いの炎が、それを許さない。
余りにも長く存在し過ぎたが故に、呪いも世界に根付いてしまっている。下手に少年を救えば、呪いがどのような形で世界を蝕み始めるか分かったものではない。
その呪いの大本である存在が、呪いを許したモノが、現世に解き放たれかねなかった。そうすればどれほどの犠牲が生まれるか、男にもわからないわけではない。だからこそ歯痒い思いをしているのだ。
「あの子が自分で辿り着くしかない。自ら自分を救わなければ。だけどそれは、あまりにも険しく永過ぎる道のり。他者に強要された地獄だと言うのに、他者の力を借りてはいけないなんて……そろそろ時間だね。さようなら。また、どこかでな」
そう言って眠ったままの少年の頬を優しく撫でると、男は風に溶ける様に、その場から消えて居なくなった。
朝日の暖かく柔らかい光が、森の中にも降り注いでいく。木々の隙間から零れる光はとても美しく、幻想的ですらある。その優しい光が、枯れ葉の上で眠っている少年の上にも降り注ぎ、彼の目覚めを誘うのだ。
目覚めた少年はまだ夢見心地のようで、ぼんやりと空を見つめている。凍えた体を癒す人の温もりが、抱きしめられる安堵が、優しい思い出となって蘇る。それはカラカラに乾いた大地に、僅かながらも恵みの雨が染み入るように。
少年はすぐ近くに在る剣を見た。そして朧げな記憶の中に残っていた感謝を伝える方法を思い出し、ゆっくりと一礼する。そして彼はその場を、何度か振り返りながらも去っていくのであった。
剣はただそこに在る。自らの担い手が訪れる時を。
そしてまたいつか訪れるかもしれない、幼いまま魂が擦り切れた少年の為に。
遠くから、獣の声が聞こえる。苦痛に歪む悲鳴が、森の中に響いた。