夜闇なぐ
初めて彼女のことを目にしたのは、五月の暮れの、雨降りの夜だった。
駅を出てすぐの歩道橋。 その上で、行き交う仕事終わりのサラリーマン達の間を縫うように、彼女は歩いていた。 傘も差さずに。
背丈は低くて、中学生くらいの見た目。 しっとりと濡れた黒くて長い髪は、目を覆うみたいにしてピッタリと顔に張り付いていた。 制服も、ビショビショだった。 袖口から覗く手指は白すぎて、月明かりを反射する何かかと見間違うほど。 ほっそりとした脚の先の、踝に走るあかぎれは見ていて痛々しい。 まるで波打ち際の亡霊。 そんな様相の彼女は、言わずもがな僕の興味を惹いた。
「……風邪引いちゃうよ?」
人の波が引いた橋の上。 階段と、平坦な通路とが丁度交わる地点で、僕たちははたりと対峙した。 街灯の光線は、僕が立っている上から四段目ぐらいの所で途切れていて、彼女の顔を照らし出さない。
「いいんです」
たった一言、彼女は掠れた声でそう呟くと、僕から視線を外して歩き去ってしまった。 ふっと、鼻孔に生っぽい香りが漂う。 僕はしばらくの間、足首だけを街灯に照らさせてぼうっとビルの屋上を眺めていた。 最初の夜は、それで終わった。
次の夜にも、僕は彼女と出会った。
樹海のように鬱蒼とした自然公園の道沿いに、左右均等に並べられた汚いベンチ。 その、右側の二つ目に彼女は座っていた。 冷たい風が髪を撫でる度、彼女はそのほっそりとした頬へと手をやって、耳の付け根から後頭部へかけて髪を後ろへ掻きやっていた。 白い綿から覗く赤い筋が、淡いビル灯りに晒されて光った。
「…………」
僕は、声をかけて良いものかどうか迷った。 そこには
彼女だけの恒久的閉鎖空間が築かれていたし、彼女の虚ろな瞳は、カッターのように鋭い葉を持つ雑草ただ一点へと注がれていて、他の何物にも意識を向けようとする様子はなかったからだ。 眉間に銃を宛がわれたかの如く、僕はその場を一歩も動けなかった。 何時間も経ったみたいに思われた。
……観念して、僕は踵を返してその場を去ることにした。 近くを、電車が通りすぎていく。 公園には、彼女以外誰も居なかった。
そして、また次の日……すなわち、昨日の夜。 公園を出てすぐにあるコンビニに、薬を買いに行った、その帰り。 彼女は、コンビニの裏手にあるビルとビルのすき間に居座り、細い空を見上げていた。 一目で、彼女だと分かった。
「……何してるの?」
流石に、声をかけざるを得なかった。 今までは、日常的風景の中に溶け込んだ会合だったから、何気なくという体で見過ごせた。 けど、今は違う。 殴り書きされた壁の落書きは、先日の雨で滲んでいる。 その雫の滴った後が向かう先で、彼女は赤くなった膝を抱えて丸くなっていた。 これを日常風景と呼ぶのは、些か抵抗がある。
「……?」
彼女が顔を上げる動作は、非常にゆっくりだった。 眠りから覚めた時のような動きで頭をもたげ、彼女の黒い瞳はじっと僕を捉える。 不意に、排気ガスみたいな匂いが、ツンと鼻を刺した。
「昨日の……じゃなくて、一昨日の……?」
「うん、一昨日も会った。 ……でも、本当は昨日もなんだけどね」
そう言って薄く笑みを浮かべると、彼女も呼応してほんの少し口角を上げた。美しいとか、可愛いとか、そういうのじゃない……ただ、いじらしい微笑みだと、そう思った。
「こんな暗いところに一人で居ると、危ないよ? もう遅いし、家に帰った方が良いんじゃない?」
「……留守」
「……え?」
「今夜は、父も母も外出中で、家に誰も居ないんです」
そっか……と声をかけたきり、僕は何も言えなくなってしまった。 複雑な家庭環境……というのは想像がつく。 けど、家に人が居ないなら尚更、彼女は家に居るべきじゃないのか……? どうして、こんな場所に、一人で……?
小首を傾げてだんまりな僕をよそに、彼女はすくと立ち上がった。 その動作は、飛ぶように身軽だった。
「とりあえず、私、行きますね」
唐突な彼女の言葉。 僕は、「えっ?」と口にしたまま、感電したように動けずにいた。 行き交う車のライトが、ひっきりなしに彼女の首から下を照らす。 それが、落書きの壁に彼女の細い影を映し出していた。
「……似てるかもしれませんね、私たち」
「どういう、事……?」
彼女は答えず、そのままくるりと身を翻して、雑踏の中へと飛び込んでいった。 ようやく立ち上がった頃には、彼女の姿は視界から消えていた。
よれて、細い紐みたいになったビニール袋の持ち手が、人差し指と薬指の端に食い込んでいる。 ビルとビルのすき間空間は冷たくて、おもわず身震いをしてしまうほどだった。 ……けど、彼女と居たときは不思議と、震えなかった。
……そして、今日。 初めて彼女を見た時と同じように、雨が強く降り注いでいた。 僕は、固いコンクリートに足を打ち付けながら、バシャバシャと音を立てて走っている。 傘も差さずに。
往来する人々の海を掻き分け、掻き分け、もがくように前へと進む。 濡れたパーカーが、ぐっしょりと重たい。 水に浸った足の先が、裂けるように痛い。 それでも僕は、駆けることを止めてはならなかった。
走って、走って、走って、走って。 漸く僕が足を止めたのは、本通りから一本外れた人気のない道の一角にある、廃墟だった。 街の灯りすら届かない場所にある寂れた四角い建物の中へ、彼女はゆっくりと歩みを進めていた。
「待って!」
迷わなかった。 僕は、立ち入り禁止の札を越えて、彼女のもとへと走った。 バリ、と割れたガラスを踏む音がした。 毒気の込もった建物内は、まるで焼けた跡のように黒く、暗い世界。 そんな中で、ペタペタという足音を雨の音で掻き消しながら、二階へ続く階段を登っていく彼女を見つけるのに、時間は要さなかった。 意を決して階段を駆け上がろうとしたその時、彼女は不意に立ち止まって、首だけを此方側に九十度回し、
「……ついて来ないで下さい」
はぁっ、はぁっ……と肩で息をしながら、それでも僕は彼女に言葉を返した。
「今朝のニュース、見たんだ。 それで、もしかしたらって思って、追いかけて、それで……」
「……可哀想って、思いましたか?」
彼女の声は、波のない水面のように平坦だった。 踊り場の高い位置から、彼女は僕を見下ろす。 割れた窓から射し込む僅かな光が、制服の襟を怠惰に照らしていた。 あの日からずっと、彼女は同じ制服を身に纏っていた。
「君があの時、「似てるかもしれない」って言った意味、やっと分かった。 見抜いてたんだね、僕のこと。
……けどさ。 だからこそ、僕、今どうすれば良いか分からない。 衝動的にここまで来たけど、どう動くべきなのか分からないんだ。 僕……」
「……冷静に考えてみて下さい」
子供にしては妙に落ち着きがある声だな、と、会った時からそう感じていた。 彼女の鋭い目線は、僕の喉元にピンと突き立てられて、周囲の空気ごと僕を硬直させた。 雨は、止む気配もない。
「万が一、お兄さんが私のこと此処で止めたとして……私、それで幸せになれますか?」
「…………」
その問いの、彼女が想起する返答は、分かっていた。 分かっていたからこそ、口に出すことは憚られた。 だって、それは僕自身が一番良く理解できる感情なのだから。 僕がこれまでに味わってきた、その際限まで立たされかけた情感と、恐らくは同じものだから。 ……ただ、理解した上で僕よりも先に水底に昇ろうとできる彼女は、きっと、僕なんかよりもずっと強い。 僕は、どっち付かずの宙ぶらりんだ。
「……幸せって、一体何なんでしょうね」
「……君にとっての幸福がその向こうにあるんだとしたら……僕は……僕には、君を止めることはできない……」
「……」
薄明かりの中で、彼女がほんの少し笑ったような気がした。 割れた窓から、雨が吹き込んでくる。 彼女が髪を撫でると、その手首に走る赤い筋が髪の数本と平行に重なった。 耳の後ろには、前に見た時と同じように、白いガーゼが宛がわれていた。
「……楽しかったです。 お兄さんとお話できて」
「……」
頭の中がぐちゃぐちゃになった気分。 胸を強く締め付けられる気分。 僕は、パーカーのフードを指先で引っ張りながら、そっと涙を溢した。 雨が夜を刺す、その音に紛れて、彼女はまた階段を登っていく。 肺を圧迫する重い空気に耐えかねて、僕もその場を後にした。 街の夜は、冷たい空気に浸されながら、静かに血の香りを蔓延させつつあった。
しょっぱい水滴が、雨に流される。 都会の雑踏が、僕を溺れさせる。 ふと、歩道橋に差し掛かった時に、また、彼女のことを思い出した。 また、涙が溢れた。 ……さよならすら、言えなかったな。
駅近くのコンビニへ向かおうとする足をはたと止め、僕は、公園へと続く方の道へと入っていった。 鬱蒼とした森を抜けると、比較的広いドラッグストアがある。 今日は、そこに寄ろうと思った。
四分ほど歩いて、ふと、黒く染まった空を見上げる。
……今日こそは、ぐっすり眠りにつけると良いな。
END