2話 ソリエンテの宿
「中、随分と綺麗ですね」
さっき居た公園から徒歩10分の距離の場所に、彼の言う宿屋があった。その名前はソリエンテの宿。
もう開店してから7年が経っているらしい。しかし、その年季は建物に出ておらず、暗がりでも壁には一つの汚れが伺えず、店内もこれと言った汚れがない。
加えて、店の外観もさる事ながら内装も十分な広さに合わせたベストなテーブルの配置。長いカウンターテーブルの奥の厨房はその調理姿を伺えられるようになっていた。
「おう、あんがとさん。……場所は、ここで良いか。飯作るから少し待ってろ」
「は、はい!」
彼は厨房に入ると、近くに掛けてあったエプロンを身に付けて木でできた冷蔵庫のようなものを開けると、肉、キャベツ、ピーマン、玉ねぎ、パセリの様なものを取り出して調理を開始した。
楽しみだ、何が出来上がるか。
調理中、物凄く鼻腔がくすぐられ、口の中で我慢が効かなくなってきていた。ごくりと我慢だと飲み込み、そこで腹が再び鳴る。
肉のいい匂いに加えてオイスターソースのような酸味のある独特な匂いと、コンソメスープの匂いがした。
もうそろそろ何が出てくるか予想がついてきたところで一段と腹が鳴り出す。
そしてそれは、ようやっと堪えて差し出された目の前の野菜炒めとコンソメスープがあったからである。
「家の賄いだ。足りねぇならまた作っから、言ってくれ」
「はい!」
それから俺は無我夢中で食べた。一生懸命に、たった1日食べてないだけなのに、物凄くお腹が空いていた。
「美味しい……」
肉の甘みと香ばしさ、少し脂身が多いのか上顎に少しつく感じがするが、オイスターソースで有ろう味付けがこのこってりさを拭い取ってくれる。また、それは野菜も同じで、野菜の旨味甘みが滲み出てきて、噛めば噛むほど甘く、これもまた、絡まったオイスターソースの味がより旨味成分を出していた。
胡椒の鼻から抜ける匂いも余計に食欲が唆る。
そして最後の締めにスープ。
手元のスプーンを取って、刻まれたパセリと一緒に口に入れる。
「ん? コンソメスープと、ちょっと違うな。何だろ、これ」
少し独特な匂いと味がする。下に沈殿しているがこれは、あれか、生姜か? 食べてみたけど、生姜の辛味と味があるからあながち間違いではないだろうが……。
すると彼は自慢げにそう言った。
「お、分かるか。自家製コンソメスープだ。中々手に入らない生姜を微塵切りにして煮詰めてな、そこに細切りにした生姜を入れたんだ。いい味を出していると思うんだが、どうだ?」
そんなの、決まってる。
「……美味しいです。しょう……生姜。生姜で身体があったまりましたし」
食べて不味いなんて思う訳ない。
生姜コンソメはあまり食べないけど、美味しかった。できるなら今度作ってみたい……。そう思った。
ただ、それにしても生姜はエンバーって言うのか。この調子なら他の野菜とか肉も別の名前があるのだろうから、出来るだけ覚えられるようにしよう。
「ご馳走様でした」
合掌すると「あいよ」と皿を重ねて持って行きながら彼は食器を手早く洗い戻ってきた。
「さて、腹の調子も良くなった所で本題に入るぞ___」
ここ、ソリエンテの宿では雇用条件は無く、求められるスキルがない。身体能力も求められていないので、基本誰にでも出来る仕事である。
初めは料理ではなく接客業務……定員をしてもらうらしい___まぁ、それもそうかとも思うが___。
その初めとして、オーダー取り、食器洗い、床下壁掃除。その他諸々雑務多めの仕事。
因みに雇われは俺が入れば俺だけらしい。
こうして聞くだけなら、役割分担が無いのは慣れっこではあるものの随分とブラックな内容だ。
しかし、どうも人数を雇用するだけの経費がないらしく、雇われ一人と経営費で大体貯金が出るかどうかくらいだとか。
結構キリキリなのである。
料理もこんなに美味しいし、さっき覗かせてもらった空き部屋も十二分に綺麗であった。部屋も殆どが埋まってたみたいだし、どうしてか分からない。
なので聞いてみると、どうやら良い立地で、良質な食材を仕入れている。尚且つ、食堂での料金はほぼ仕入れ値と同じくらいの金額で安い。一泊の料金もこの辺りではかなりの安値。
そりゃそうだと、思ってしまった。
「値段、上げないんですか?」
それは野暮というもので。
「……まぁ、飽くまで最終の緊急手段だ。それまでは、ここを建てた時から掲げてるものと変わらずやる」
「掲げているものですか?」
「ああ___」
上美上質最安値。それが、彼、ライゼン・ハワードが掲げているモットーのようだった。
「さて、どうする。雇われてみないか」
この話の肝はなにも仕事に就けるだけじゃなく、飯もトイレも部屋も充てがわれる。仕事内容はとんでもなく大変そうだが、その分見合った内容にも思える。時給は93ラルク___日本円換算1ラルク=10円___だし、そこまで安くはない。バイトくらいの給料だ。
それに彼、ライゼンさんも人当たりが良く見た目よりも怖くない。
今必要としている仕事がこうも早く見つかるなんて、幸運だ。断ることもないだろう。
ただ、これだけは話しておくことにした。
「あの、実は僕ステータス値がとても低くて、レベルを上げたいんです」
「ん? べつに何かに特化した能力とか必要じゃないぞ」
いえ、そうじゃないんです。
「僕のステータスは全部1でして、ちょっと、いや、結構危ないんです」
「……あまり信じれねぇ話なんだが」
まあそれもそうだ。ステータスが全部1なんて、聞いたことも見たこともないだろうから信じるなんて出来るはずがない。
「僕としてはこんなにも好条件の話はないと思いますし、雇ってもらいたいです。ただ、レベルを上げてからじゃないとお店に迷惑を掛けると思うんです。とても都合の良い話なのですが1週間ほど、待ってもらえたりしませんか……?」
多分、この機会を逃したらどうしようもなくなるだろう。野垂れ死ぬのみ、そんな未来が見える。
……とは言え、これは都合の良い話すぎる。もし、この話がダメなら了承して働く事にする。そこは仕方ないと割り切るしかないだろう。
そして、彼、ライゼンさんの決断は___
「まぁ、そういう事なら仕方ないか。ステータスが1ってのは良く分からないが、嘘ついてるように見えなかったし……」
その瞬間俺は感謝をした。「ありがとうございます」と、勢いよく頭をぶつけそうになりながら、机に頭をくっつけて。
「おっ、おい止してくれよ。分かったから」
ライゼンさんは罰が悪そうにして頬を掻くと徐に立ち上がった。
「顔上げといてくれよ、ちょっと書類持ってくる」
そうしてライゼンさんはこの場から立ち去り、厨房横のスタッフルームに消えていった。パタンと小さくドアが閉じる音は耳に残り、それが余韻となり、顔を上げるタイミングにもなる。
「本当に、運がいい」
思わず感嘆の息を吐いていると、ふとステータス値の【運が極まっている】という意味が何となく理解できた。
ステータス値なら【運が極まっている】。称号なら【神運】とか、今日1日体験して、分かったことは大概困っていると何かしらの助けが来る。1日とは言えこうも分かりやすい幸運は、それらが要なのだろう。
別に、これは過信じゃない。本当に、今日1日の体験談。本当に俺はツイテいる。それを身に感じた。
現実じゃありえない巡り合わせ、特にメロさんがそう言える。平民が手を挙げ、貴族が馬車を止める。これを言うなれば総理大臣のリムジンに手を挙げて乗せてもらう位意味が不明な話だ。加えて___
「こんな凄い書類も」
あり得ない。普通に考えてあり得ない。でも、この運というのはそれを可能にした。否、多分だが、ある程度良い方向へと転がしてくるているそんな気がした。
これなら何もしなくてもほぼ安泰、勝ち組状態だろう。
とは言え、運が良くても何もしないなんてしたくない。それは余りにもこの運を過信し過ぎていると言えるからだ。恵まれた能力は扱い方次第でもっと尖るとも言うから、その方向に俺は持って行きたい。
だから、怠けないようにしないといけない。
頑張ろう。頑張ってライゼンさんに恩を返して、メロさんにも御礼をしなくちゃ。
「ふぅ、待たせたな」
そう色々と考えていると二枚の書類とペンを持って、席に座った。
「先ずは、こっちが契約書だ。文字、書けるか?」
「はい、書けます」
鈴華が言うには、この世界の文字を読むと同じように、日本語で文字を書いても大体が翻訳されるらしい。
俺は名前や生年月日。それらを記載して、サインを記した。住所の欄もあるが、俺には住所がないので記載していない。
「……よし、記入漏れはないな。これで契約成立だ、1週間後から働いてもらうからな」
「はい! よろしくお願いします」
「後、これだ」
ライゼンさんはもう一つの書類を俺に渡すと説明を加えた。
「明日、冒険者ギルドに行ってこい。そこに知り合いの女がいると思うから、これを提出してもらえたら大丈夫のはず」
「冒険者、ギルドですか」
冒険者ギルドとは、要約すれば大企業が創立した害虫・害獣駆除会社のようなもの。この世界に生息する魔物退治などを生業とする者達を雇用し、依頼という形で働いてもらう組織。
「場所はどこら辺に……?」
「ああ、これの通りに行けば着く。まぁ分からなかったら聞いてくれ」
そう言ってもう一つ渡された紙は、この辺りの地図だろう。綺麗に描かれた線の中で最短ルートを赤色でなぞっていた。
「本当にありがとうございます!」
「おう、良いってことよ」
本当に俺は運がいい。
ここまで都合良く進むなんて、いや、オプション付きでこの待遇。俺は一体この大きな恩を、どう言った風に返していこうか悩んでいた。
食材名
・生姜
・キャベツ
・ピーマン
・玉葱
・パセリ