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源流 後編

三つ目、本日最後です


*本日は三つに分けて投稿しております

 かつて神代の頃のエルソスは平和と繁栄を極めていた。

 人々が共に生き、学び、愛し合っていた時代。多くの神々が生まれ人々に慈しみを注いでいた。


 けれどある時、ある一柱の神が堕落した。

 この神は自らを冥王ウビルと名乗りエルソス中に戦乱を巻き起こし、やがて冥王とその配下のほとんどが倒されるまで続いた。

 そうして、冥王の右腕と呼ばれたスルトルが生き延びたことは戦後の混乱の中に忘れ去られた。


 そのスルトルが再びエルソスに戦火を齎したのがこの戦いだと、代行者はそう言う。


「スルトルは自分のことを暗王ディヴルクって称してね。そりゃあもうひどい戦になったんだけど……、まあそれはいいんだ。暗王はこの戦いの後に滅ぼされたし」

「ちょっと待て」

「うん?」

「どうでもいいのに長々と説明したのか?」

「いやあちゃんと依頼の背景事情は伝えておいた方がいいかな、と。ブリーフィングというやつだよ。それに全く関係がないというわけではないのさ」


 言いながら代行者は新しいカップに紅茶を注いだ。


「つまり、エルソスはこんな状態なんだよ」


 代行者が啓吾の眼下にカップを突き出した。

 なみなみと注がれている紅茶が、見る見るうちにその色を濃くしていく。

 じきに、その底すら判然としなくなった。


「冥王が倒れ、暗王が滅ぼされても、一度世界に蔓延したものはどうしようもないのさ。彼らが残したものは有形無形関わりなくエルソスをむしばんでいる。それは長い時を経て澱み、沈殿し、いずれ一つの形として“何か”になるだろう」


 代行者の言葉と共にカップの中の液体は渦を巻き、やがてゆっくりと凝り固まったドロドロとしたものが一つの形となって現れた。


「……」

「神話の時代から長らく続くそれはもうそろそろ押し止められなくなる。決壊してしまえば最後、エルソスはまた暗い時代に逆戻りになるだろう」


 卓上の映像は、いつの間にか凄惨なものへと移り変わっていた。


 血に狂った万の兵に囲まれた砦に籠もる戦士たちが最後の抵抗も虚しく剣を突き立てられ、踏み躙られ、喰い散らかされる。

 初老の騎士がただ一人で強大な黒い龍に立ち向かい、一飲みにされる。

 かつて栄華を極めた都が焼かれ、壊され、逃げ惑ったその先で無辜の人々が嬲り殺される。


 やがて、映像はゆっくりと薄れて消えていった。

 最後には何の変哲も無い紙片が机の上に残るだけである。

 代行者が手にしていたカップも消えている。


「君にしてほしいのはその“何か”……便宜上魔王とでも呼ぼうか。その魔王を倒してほしいのさ」

「魔王、ね……。何というか、テンプレだな」

「様式美、と言ってほしいな」


 何が楽しいのか代行者はクスクスと笑う。

 啓吾はただ呆れ気味の視線を投げかけるしかない。


「魔王と呼んでみたけれど、だからと言って君が勇者になる必要は無い。そういう強制するような役割は無いから安心しておくれ、君は君の好きなように

生きればいい。そのついでに魔王を倒せばいいのさ」

「悠長な話に聞こえるが?」

「それが、大丈夫なのさ。君が扉を開いたその時から運命の歯車はクルクル回り始めている。君がエルソスで生きる限り、世界が君を放っておかないだろう」

「……曖昧な言い方が好きなやつだな、あんた」

「うん、まあ否定はしないね」

「いい性格をしてる」

「ふ、ふふ。どうだい? 一つ世界を救ってみないか」


 思わず啓吾は溜め息を溢した。

 聞く限り平穏とは掛け離れた人生が待ち受けていることは間違いない。

 今更辞めるなどと言うつもりもない啓吾だが、酩酊感のようなものを感じているのも認めざるをえなかった。

 思わず、背もたれに身を委ねて目を瞑り静かに息を吐き出していた。


「君が感じているように、きっと君の旅路は一方ひとかたならぬ苦難が待ち受けているだろうね。だから僕も協力を惜しまない。君が向こうでちゃんと生きていけるように都合するし、必要なものも用意しておこう。限りはあるけれど君の希望も叶えてあげよう」


 ゆっくりと目を開けた啓吾の眼前で、代行者は微笑みを浮かべていた。

 机の上にあったものはいつの間にかあらかた片付けられて、ただ啓吾の分のティーカップだけが美麗な水色すいしょくの紅茶を湛えていた。


「……望みを、口にした覚えはないんだが」

「ふふ。ま、僕に任せておくれ。伊達や酔狂でのんびりとお喋りしていたわけじゃあないのさ」

「ふぅん」

「ところで、さ」


 言いさして、啓吾を見つめた代行者の顔にはこれまでにないほどに喜色に満ちていた。

 きっと好奇心を抑えられない表情というのはこういうのをいうのだろう、とどこか他人事のように啓吾は思いながらも口を開いた。


「ところで?」

「なんていうかな……。君は随分と無欲だと思うんだ」

「無欲、ねえ」

「ああ、無欲だよ。君は多くの人が欲しがるものを求めない。即席の武勇も都合のいい異能も求めない。それどころか不老不死はおろか不必要な長寿も求めていない。どうしてなのか、訊いてもいいかい?」


 どうやら本当にこの目の前の存在は自分自身のことを、ひょっとすれば自分以上に見通してしまっているらしい。

 諦念じみた感想を抱きながら、啓吾はしかしあまり良い顔色を見せなかった。


「柳は緑、花は紅、真面目しんめんもく

「……蘇軾そしょくの一節かな」


 又の名を蘇東波そとうは、宋代に冠たる詩人である。


「そうだ。俺は、在るがままで十分だ。過ぎたるものがどれだけ恐ろしいかはよく知っているつもりだ」


 仄暗い眼光を伏せ目がちに隠す啓吾の顔つきはその年齢に似つかわしいとはとても言えぬものであった。

 だが、ほんの刹那の後、啓吾は何かを思い出したかのようにピクリと体を震わせると表情を一変させた。先ほどまでの苦み走った顔からは想像もつかない明るい笑みを、まるで親に褒められた幼子のような笑顔で口を開いた。


「幸い、爺さんが言うには俺はがいいらしいからな。それだけでも十二分に恵まれているんだよ」

「そうか……」

「そうだな、長寿というのは剣の道を極めるのに助けになるのかもしれないが。まあ、その程度だ。これも受け売りだが、“咲き誇る花は散るからこそ美しい”ってやつだよ」

「ふふ」

「なんだ気持ちの悪い」

「いや、本当におじいさんのことが好きなんだなあ、と」

「……馬鹿なことを言うな」


 急に憮然としてそっぽを向いてしまう啓吾に代行者はついつい忍び笑いを漏らしていた。

 出会って間もないこの青年はしかし、彼をしても中々に面白い人物に見える。

 屈折した思いを抱えていながら、竹を割ったような振る舞いも年相応な可愛げのある肉親への照れもそれがよほどに良い人に育てられたのだということがありありと分かる。

 代行者の顔に慈愛の笑みが浮かんだ。


「さて、そろそろお別れの時だね」


 言いながら立ち上がった代行者を一瞥し、啓吾は目の前のティーカップをぐいと仰ぎ飲み干してから続けて立ち上がった。

 その顔つきは既に引き締まっている。


 ひらり、と代行者の左手が真横に振られるとともに啓吾の前に何の前触れもなく重厚な造りの大扉が出現した。

 黒檀こくたん色のそれは実に質素ながらも得も言われぬ存在感を持って啓吾を威圧するかのようであった。

 

「この扉を抜けた先、真っ直ぐ歩くだけでいい。ただし、いいかい、戻ってきてはいけないよ。振り向くのは構わないけれど、戻ってはダメだ。さもないと、道を見失ってしまうからね」

「……わかった」


 不思議な光を宿す千草色の瞳が優しく見つめる。

 啓吾は今一度向き直ってその右手を差し出した。

 一瞬不思議そうにそれを凝視した代行者は直後破顔すると、しかりとその手を握り返した。


「短い間だが、世話になった」

「こちらこそ有意義な時間だったよ、ありがとう」


 謎めいた言葉に続けて代行者は「最後に一つだけ」と口にすると、予言にも似た助言を口にした。

 ——エルソスでヴィルトースと名乗る青年に会ったら気にかけるといい。君と彼とは刎頸ふんけいの交わりになるだろうから

 言いながら代行者は大扉に手をかけて一気に押し開いた。


「いってらっしゃい。僕はいつでも君を見守っていよう」


 瞬間、眩い光りが明滅して、思わず啓吾は右手で視界を庇っていた。

 次に目にしたのは、曠然こうぜんたる荒野であった。

 先ほどまでの瀟洒しょうしゃな空間はどこかへ消え失せて、果ても見えない荒涼とした赤茶色の大地と月だけが輝く夜空が啓吾を出迎えていた。


「おい、これは……!!」


 しかし、啓吾が振り向いたそこには、もはや誰もいなかった。

 ただ、前方と同じ荒野が広がっている。

 いや、よく見ると、真っ直ぐと後ろに向かって延びる踏み固められた道のようなものはあるのだが、それ以外は何をもっても同じ風景が広がっている。


 思わずその道に向かって一歩を踏み出そうとして、止まった。


『この扉を抜けた先、真っ直ぐ歩くだけでいい。ただし、いいかい、戻ってきてはいけないよ。振り向くのは構わないけれど、戻ってはダメだ。さもないと、道を見失ってしまうからね』


 いくつか数えるほどの間、凝然として言の葉にならぬ何かを噛み締めていた啓吾は徐ろに振り返った。

 前に、道はない。


 踏み出した一歩はザリリと音を立てて地面を踏みしめた。


 そこからは、ただ、ただただ前を向いて歩いた。

 荒野はどこまでも静かで、何もない。

 月に照らされた薄明かりだけを頼りに、まっすぐと歩くのだ。


 無性に自分自身をいだきたくなる衝動を堪えながら、啓吾は寂しい旅路を進んでいく。


 ふと、誰かにそうされたかのように、啓吾は空を見上げていた。


 満天に、星が瞬いている。

 つい先ほどまで、月のほかに何も見えなかった夜空が、光に溢れている。

 前世で見たあらゆる夜空よりもなお美しいその光景が、啓吾の胸を揺さぶる。


 自然、啓吾の足が止まったその瞬間。星が、流れた。

 無数の奔星ほんせいが夜景を彩り、空に散らばった星々が強く明滅を繰り返す。


 と、一筋の奔星がその流れを変えて、身動きする間もなく啓吾へと飛び込んできた。

 為す術もない啓吾の胸元へと飛び込んだその光塊は、けれど痛みもなにも無しに融け入るようにして啓吾の身体の中へと姿を消した。


 瞬間、何かが啓吾の身体を脈動するようにして駆け巡った。


 思わずうずくまった啓吾は、愕然がくぜんとした。

 ただの赤茶けた土でしかなかったはずの大地に、どうしたことか鏡のように自分の姿が映っている。

 足下の地面のその向こう側から、見ず知らずの自分・・・・・・・・が驚いた顔でこちらを覗き込んでいた。


 十に満たないであろうか、元よりもなお、あどけない顔立ちはしかし以前よりも彫りが深い。短く切り揃えていた髪は霞色に、瞳も幾分か澄んだ茶色に近づいていた。

 心持ち、元の顔立ちが残っていると言えば、言えなくもない。

 もっとも、誰かがそうと言われなければ分からないほどに変わり果てたその容姿を、啓吾は自分・・であると理解していた。

 いや、理解出来てしまった。

 得体が知れない気持ち悪さを感じるほどにすんなりと、腑に落ちてしまった。


 これが“新しい生”なのだ、と。


 無性に、泣き出したくなった顔を遮二無二しゃにむに夜空へと持ち上げて、啓吾は歩き出す。

 上を向いて、振り向かず、戻らず、まっすぐと歩く。


 夜空に、星が明滅する。

 どこかで星が燃え尽き、どこかで星が産声を上げている。


 気付けば、声もなく啓吾は泣き叫んでいた。

 慟哭どうこくし、止めどなく涙を流し、ぼやけた視界をそのままに、まっすぐと歩いていた。


【脚註のようなもの】

蘇軾……中国、北宋時代の人。稀代の詩人。禅の思想にも影響。


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