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源流 中編

二つ目

*本日は三つに分けて投稿いたします


(ずいぶん、長い夢をみていた気がする……)


 起き抜け、啓吾の脳裏に浮かんだのはそんな感想であった。


『橘さーん』

「……あ、はい!」


 ぼんやりとした頭で白練しろねり色の天井をなんともなしに眺めていたのであろう。

 啓吾は、自分を呼ぶ声に飛び起きながら反射的に返事していた。


 自然と周囲をキョロキョロと見渡して強烈な違和感に襲われていた。

 見慣れたソファに観葉植物、雑誌が収まったラックにカウンター、月に2回ほど通っている精神科のクリニックは、けれど人っ子一人の気配すらない。


(不気味な……)


 思わず眉を寄せながら啓吾は固く閉ざされた玄関に向かい合うように設置されたカウンターを眺めた。

 そこには、いつも穏やかな笑みを浮かべる妙齢の女性が座っていた。

 いまはただオフィスチェアが物悲しくポツリと立ち尽くしている。


 急速に己の思考が覚醒していくのを啓吾は感じていた。

 病院まで来たはずの記憶はぼんやりとも思い出せない。


 にもかかわらず恐れすら抱かない現状も、奇妙なまでの居心地の良さも尋常ではない。

 敬愛する祖父に鍛えられた身体が自然に身構えていた。


 啓吾の視界に映るのは“先生”がいるはずの部屋へと通じる扉である。

 扉は、半開きになっている。

 他の全ての扉が何かから断絶しているかのように固く締め切られているのに、その扉だけが仄かな温かみとともに啓吾を受け入れようとしていた。


(ここを通れば、戻れなくなる……)


 どうしてか啓吾はそう思った。

 白いLEDに照らされた、見慣れているはずのこの空間が自分にとっての分水嶺になっているのを感じていた。


『この扉は選択肢なのだ。その先に始まりがあり、終わりがある』


 なぜそんなことを考えたのか啓吾自身にも分からない。しかしそれは拭い去れないほどに確りと脳裏にこびりついて離れようとしない。


 そこに何者かの意図が介在すると理解しつつも、啓吾は一歩を踏み出した。

 目の前に可能性があるならば、迷うことはない。

 祖父に愛され両親の死を乗り越えた時にそういう後悔はしないと啓吾は決めていた。

 両足の震えは止まる様子もない。


 そうして扉へと右手をかけた瞬間に、啓吾は慄然りつぜんとして立ち止まった。


(あぁ、俺は死んでしまったのか)


 それと気付いた時、表情を変えるいとまもなく啓吾の頬を滂沱ぼうだが伝った。

 この扉の向こうに始まりがあり、終わりがある。

 今、啓吾がいるのは黄泉比良坂よもつひらさかなのである。扉をくぐるのは現世との決別、何とも分からぬ未来が待っているのだ。

 漠然とした確信がある。


 それはきっと今も道場で孫の帰りを待っている月旦を置いていくということ。それが無性に悲しくて悔しい。

 そして、そうと分かっていても自分には前に進む選択肢しか取りようもない。

 なによりもそれが祖父の望むであろう答えだと分かっていたからでもあった。


 零れ落ちる涙を拭うこともなく、頭の中で雑然とがなりたてる悲鳴のような思考に構う暇もなく、啓吾は半開きの扉をただひたすらに押し開けた。





「落ち着いたかい?」


 掛けられた声がゆっくりと脳へと染み渡る。

 それを、啓吾はどこか他人事のように知覚していた。

 同時にどこか深いところから意識が浮上しはじめ、靄がかっていた思考は次第にクリアになっていく。


 啓吾は知らずうちにゆったりとしたソファに腰掛けていた。

 身体も、随分と軽い。

 なすがままに任せて泣きじゃくった後のように頭の中もすっきりとしていた。


 いや、実際に泣き暮れていたのだろう。

 頬には涙が乾いた痕が残っていたしまぶたは厚ぼったく腫れていた。

 そして、それらが瞬く間もなく癒えていくのを感じるのである。

 気づけばそれがごく自然な出来事のように啓吾は受け入れていた。


 ぼんやりと膝の上に落としていた視界を上げ、啓吾の目に壮年の男が映った。

 彫りの深い端正な顔立ちに透き通るような藤黄とうおう色に輝く長髪、優しげな千草ちぐさ色の瞳には全てを見通す光が備わっている。シックな革張りのオフィスチェアに腰掛ける体はヒマティオンに包まれており、見慣れた現代のインテリアに全く持ってそぐわないものであった。


「初めまして、だね」

「あんたは……?」

「そうだな、“代行者”とでも呼んでくれるといい」


 啓吾はあまりにも不可思議なその名称が意味するところを忖度そんたくしようとして、やめた。

 それは自分の及ぶところではない、そもそも領分でもない。

 どうしてかそう思えたのである。


 少なくとも、目の前の超越者の柔和な目をしている。

 それだけで十分に思えたのだ。


「……それは、また。随分と変わった名前・・だな」

「ふふ、よく言われるよ」


 クスリと笑いながら代行者はデスクの端に置いてあったティーセットを引き寄せて、徐ろに紅茶を淹れ始めた。

 どこからともなく湧いてくる熱湯やおのずから温まるカップやポットに、啓吾はもはや驚きを通り越した呆れを持って眺めることしかできない。


 じきに、馥郁ふくいくとした仄かに甘酸っぱい香りが部屋中に立ち込めた。


 ティーポットの側に置かれている黒い紅茶缶にはフランスの老舗紅茶専門店のロゴが刻印されている。

 啓吾は一瞥するなり、その銘柄を“エロス”だと看破した。

 マロウとハイビスカスの花びらをブレンドした上品かつ官能的な味わいの紅茶である。


 エロスは古代ギリシアにおいて最も古い神の一柱である。

 情動的に湧き上がり、抗いがたい苦しみをも内包した愛を意味する。

 その名が冠された紅茶に啓吾はなんとも言えぬものを感じた。

 それが寓意ぐうい表象ひょうしょうなのか、あるいは代行者自身の姿に対する自虐的な洒落なのかは判然としない。


「大体の事情は察してもらっていると思うけれど……」


 そう言いながら差し出されたティーカップを受け、啓吾は逡巡しながらも憶測を口にした。


「それは、俺が現世と黄泉の境から外れたことを言っているのか? それとも既に後戻りができないことか?」

「理解……、ううんこの場合は直感なのかな。とにかく話が早いのは助かるよ」

「つまり」

「そうだね、概ね君の推測どおりだ。君は既に一度死んだし本来の有り様から外れていて、それ故にここにいる。僕はこれからのことを説明し準備する役割はあるけれどそれ以上のことはできないよ」

「……そうか」


 啓吾は力を抜いて背中をソファに預けた。


 分かっていたつもりでも、重いものである。

 死んだことも、輪廻から外れたことも、重い。

 何より自分が選択を為したことが重い。


 自然と溜め息が溢れていた。


「悩むことはない」

 いっそ涼やかに代行者は口を開いた。

「君は君の意思で選び取り自らの足で進んでいるんだ。いずれこの時を思い返すことがあったとしても、それは決して後悔を伴うものではないだろう」


 自分の中の葛藤にも似た不安を見通す千草色の瞳に啓吾はどきりと胸が弾むのを感じた。


『よいか、啓吾。他人はいざ知らず己が己の人生をかえりみる時、全ては“悔いる”という一言に尽きるものよ』


 折に触れてそう言って遠い目をしていた月旦の姿が眼裏まなうらによみがえる。


 特定の宗教に傾倒する様子の無かった啓吾の偉大な祖父は、しかし何か彼にしか分からぬ信条のようなものを奉じていたようにも思えた。


 常から死後の世界には興味こそあれど期待などということをしないと言う老人である。

 ことの因果と己の心情というもので人生を推し量り、たとえ塗炭の苦しみであっても後悔せぬような自らの選択があってこそ享受できるものと断じていた。


『人はとかく理性というものに拘りがちだがの、それだけで生きるというのも考えものよ。こう、魂の源流とでもいうかな。奥底深くからふつふつと湧き上がるような感情に委ねるというのも必要なことさ。それでこそ後悔などせずに如何な苦境とて受け入れて愉しめるというもの』


 飄々として笑う月旦をおもって、啓吾は思わず柔らかく笑みを浮かべていた。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 転がり出た礼に、ふわりと笑顔を見せて代行者は応えた。

 らしからぬ自分の行動に苦笑する啓吾の前に、一枚の紙が滑ってきた。


「これは……?」


 啓吾の手がその紙片に触れた瞬間、それは音もなく柔和な翡翠色の光を発して空中に像を結んだ。

 それは極めて精巧な地図であった。どことなくヨーロッパ亜大陸にも似た陸地が東端から突き出るように大部分を占め、周りを囲む大海には他の大陸の端と思われる陸地がちらほらと見切れている。


 啓吾とて世界地図を端から端まで記憶しているわけではないが、それでもこの地図に一致する場所は地球上に存在しないように思われた。


「お察しの通り、これは地球の地図じゃない。言うなれば異世界の地図だね」

「異世界、ね」

「胡散臭い言い回しで申し訳ない。他に適切かつ端的な表現の仕様がないものだからさ。まあ、そういうものだと理解してくれると嬉しいかな」


 言いながら代行者はいつの間にか空になっていた啓吾のティーカップに二杯目を注ぎ入れる。

 困ったようなその表情に啓吾は肩をすくめることで答えた。


「一般的な名称ではないけれど、この世界はいにしえの頃から“エルソス”と呼ばれていてね。人族の他にもいわゆるところのエルフやドワーフ、獣人や小人、精霊なんかが暮らしているんだ」


 説明と共に、紙片から浮かぶ映像は切り替わり複数の人々の姿を映し出す。そこには——少なくとも地球においては——人間の想像上にしか存在していない姿形の人々が映っている。


 明らかに他の種族よりも低い背丈と幅広で重厚な筋肉に覆われた肉体を豪奢な鎧に包んだ髭面の男で、その下には“ドヴェルグ族”の文字が映る。

 それよりもずっと小さな、それこそ子供ほどしかない背丈を洒落た上下で整えた女には“平地の小人族”の文字がある。

 革鎧を着込んだしなやかな体躯を持つ男性はさほど人間と変わらぬ体つきながらもその頭頂部と腰からは狐のものと思われる耳と尻尾が見えている。こちらは“アニム族”であった。

 最後の一人は背高くすらりとした体型に人並み外れた美貌を備えた女性で、その腰まで届きそうな美しい髪からピンと立った長い耳が覗いていた。下には“アルヴ族”の文字がある


「他にもまあ色々と面白い人たちがいるけれど、それはいいか。とにかく、君にはこの世界に行って欲しいんだ」

「……それで?」

「ん?」

「まさか行って好き勝手してこいってわけでもないだろう」

「んー、君の場合それでも良いような気はするんだけどね」

「どういう意味だ……」


 苦笑を浮かべた代行者が自分のカップに口をつけると同時に、再び目の前の映像が切り替わる。

 それは戦場であった。

 啓吾が日本で知っているそれとは随分と違う——前時代的という意味でも、ファンタジーという意味でも——様相ではあったが、それは紛れもなく戦場であった。


 人と獣、幻想上にしかいないはずのドラゴンやグリフォン、得体の知れない化け物が入り混じり、雲霞のごとき魔法と矢玉が飛び交う。

 まるで映画かアニメでも見ているかのようなそれに啓吾はしかし眉を顰めた。

 それは確かに本当にあったことなのだと、なぜか彼は直感していた。


「見ての通り、剣と魔法の世界ファンタジーであっても争いというのは普遍のものでね。とりわけこの戦いは有史以来の戦争の中では間違いなく最大級だったんだ」


 目を瞑って語り続ける代行者に表情はない。

 その口から紡がれるのは異世界の神話であった。


【脚註のようなもの】

黄泉比良坂……要はあの世とこの世の境

ヒマティオン……古代ギリシアの衣服。ひらひら可愛いよ。

エロス……キューピッドの元祖。でも元々は成人男性として描かれていた。あと紅茶の元ネタブレンド、大好きです。

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