湖 前編
今日、一つ目。
本日は二つに分けて投稿しています。
なお、見所は狐娘の「キュウン」であります。
半刻ほどのち、オーストレームから北東に進んだ森の中を疾駆するエリアス兄妹の姿があった。
その足は里中を走っていた時よりもはるかに早い。
とはいえ童子に過ぎない彼らの足であるから、当然、風のようにとか目にも留まらぬ、といった速さは全くない。
しかし木々の間を縫うように走り、倒木を避け、木の根を跳び越え、いっそ獣のように自然に溶け込んだ動きは二人の卓越した資質を示していた。
顔面に玉のような汗を浮かべながら、けれどエリアスもクリスタも僅かに笑みが滲んでいる。
どうということもない、ただの競走である。
しかし、ただ走るだけなのが無性に楽しいのだ。
人間よりも早く体が成長するアニム族の妹と、人間としては破格の成長過程を踏んでいる兄はこれでちょうどいい勝負なのである。
それでいてどちらがより早く到着するかという、たったそれだけのことに夢中になれるほどには彼らは幼かった。
ところでいくらエリアスやクリスタといえど、子供が森の奥地に入っていいのかというと、もちろんそんなわけがない。
メンカルトゥールと呼ばれる大樹がひしめくこの森は鳥獣ばかりか多くの魔獣が跋扈しており、中には歴戦の戦士ですら「生き残れるかどうか……」という強者も住み着いているのである。
子供が踏み込んで良い場所、とはとても言えない。
もっとも、そのおかげで隠れ里は存続しえているのである。
その上で狩人や戦士たちが日頃から周辺の魔獣を狩っているから、里の近隣は比較的安全で子供でも薬効のある植物や香草の類を集めに行くことも珍しくはない。
ところが、である。
オーストレームを北東に出て、大人の足で歩いて半刻ほどであろうか、大樹の群が豁然として開けた空き地がある。
その景色のほとんどを占めるのは天色の水鏡。
森を割るかのように長く広がったハミル湖の静かな水面に映る鏡面世界が現実離れした美しさをたたえている。
このハミル湖の南側の一角に木々が途切れたところがあって、辺り一面に不思議な勿忘草が群生しているのである。
本来、勿忘草というものは勿忘草色というものがあるくらいなのであるから水色に近い青色の類なのだが、どういうことかこの湖の勿忘草だけは鮮やかな白であり、これがまた湖の天色によく映えるのである。
それはさておき、この湖からオーストレームの里を繋ぐ直線上の獣道だけは魔獣の類が一切合切出てこないのである。
このことは里の大人たちの間で公然の秘密であった。
それと知った子供たちが好奇心に駆られぬようにという理由である。
事情を知る信仰心厚い大多数は畏れ敬ってなかなか立ち入ろうとしない。
逆に伝承に詳しくない者などはこの異常と言ってもいい状態を忌み嫌い、呪いの類だと信じきっているくらいだから当然人の行き来も無いに等しい。
もっとも、里の最高齢を更新し続け伝承にも造詣深い先代リベラスのアネルマに言わせれば、
「むかーしむかしの伝説と、そいつを律儀に護ってくれる精霊様のおかげ」
であって、根拠のない風評だということになる。
実際、アネルマの後を継いだヘンリクや、アネルマと親交の深い里長アルトゥーリ、各地の伝承に触れたことのあるヨウシア夫妻などはむしろこの道と湖に深い敬意すら覚えている。
そんなわけで、目立つことを避けているエリアスと兄にべったりなクリスタが日頃の修練を兼ねた遊び場としてこの湖を使うことが両親と里長を交えた話し合いで決まったのはむしろ自然なことであった。
同年代のアニム族と比べても抜きん出た才覚を持つエリアスが里中で遊びまわれば嫌でも目立つことは自明であり、保護者の目が届かないところで面倒ごとに巻き込まれるのも憚られる。
とはいえ戦士たちのまとめ役として働くヨウシアも里の外で培った薬師としての腕を頼られるエミリアも日中は手が離せない。
それぐらいなら魔獣がいない、エリアスたちならば少なくとも逃げ切れる程度の鳥獣しかいない湖の方が「まだマシ……」に思われたのである。
実のところ、里ではエリアスは少しばかり足の早い、いわゆる“本の虫”だと思われている。
制限の多い家の外でエリアスができることのうち、彼の興味を引いたのが読書だけというのが本当のところであったが、ともかくそのおかげでエリアスは一部の者どもに蔑んだ視線を投げかけられたり嫌味を言われたりする程度で済んでいるのだ。
もしもエリアスが頭角を現して、その素質に将来の脅威を夢想した人々が恐怖を抱けばどうなるか。
里を追い出されるだけならともかく、「殺してしまえ!」となれば血で血を拭うことになりかねない上に、子供達に大きな傷を残すことになると良識ある大人たちはそれを警戒している。
齟齬はあるであろうが、それをこの歳でちゃんと理解し耐えているエリアスも分かって兄を支えようとするクリスタも驚嘆すべき早熟であった。
これが二人の素質なのか、環境が彼らを育てたのか。
ヨウシアとエミリアなどは苦い感謝と尊敬の念を愛情と共に兄妹に注いでおり、だからこそ二人が自由でいられる場所を作ろうとしたのであった。
随分と話が逸れてしまった。
結局、エリアスとクリスタはハミル湖まで辿りつくのにさほどの時間はかからなかったようである。
走った時間だけならば四半刻もかかってはいまい。
勿忘草で埋め尽くされた空き地に転がる二人は汗みずくであったがどことなく満足そうに見える。
勿忘草の原の中に、一本ポツリと立っている紫丁香花の木が兄妹の顔に影を落とし火照る体を日差しから遮っていた。
「あーあ、また負けちゃった」
「ギリギリだったけどね」
「にひひ、私も成長してるんだからね」
「あぁ本当に、ね」
言い止すエリアスの顔に陰が落ちる。
その目に映るものは悔恨か不安か。日頃の言動に似合わず繊細な少年にとって今日の一件が尾を引いているのは確かであった。
兄の顔色に何かを感じたのか、クリスタは唐突に起き上がると腰に下げていた木太刀を引き抜いて構えた。
「さぁさ、お兄ちゃん。いざ尋常に勝負!」
「なにバカをやってるんだよ」
「ふふーん、絶対にお兄ちゃんより強くなってみせるんだ」
「……そっか」
苦笑する兄にそう言いながらクリスタはない胸を張るかのようにして腰に両手を当てて見せた。
天真爛漫な振る舞いが多い彼女であるが、日頃の事毎に思うところはある。
その顔色にはえも言われぬ真剣味があった。
「そしたら私がお兄ちゃんを守る! 嫌なこと言う奴なんかぶっ飛ばしちゃうんだから」
「クリスタ……」
「人間だとか関係ないもん。お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだもん」
スクと立ち上がったエリアスは感極まって瞼に涙を溜めた妹の頭にそっと手を当てると優しく撫でた。
その瞳には先ほどまでの色はなく、ただ愛らしい妹へのぬくもりが宿っている。
撫でられているクリスタも心地よさげに目を伏せて、垂れた尻尾は緩やかに振られている。
「ありがとうね」
「えへへ、嬉しい?」
「そうだね、俺にはもったいないくらいの出来た妹だよ」
「キュウン」
「……だけど、打込稽古はまだダメだって父さんに言われてるだろ」
「ぶぅぅ。お兄ちゃんのばか」
「あはは、ごめんごめん」
頬を膨らませながら、ポスンと倒れこむようにして抱きついた妹をエリアスは柔らかく受けとめた。
無邪気なクリスタはこの兄には殊の外に甘えたがる。
からからと笑う兄にクリスタは照れたような笑みを見せた。
【脚註のようなもの】
跋扈……魚がカゴをこえて跳ね回ること。転じて、思うがままにふるまうこと。のさばり、はびこること。
豁然……パッと視界が広がること。突然、迷いや疑いが晴れるさま。ん〜〜っ、ッパ!!
天色……”あまいろ”と読む。晴天のような澄んで鮮やかな青色。こんな色の湖ってすごくきれい。
勿忘草……ヨーロッパ原産の花。茎の先に小さな青い花が集まって咲く。花言葉は”私を忘れないで”
紫丁香花……ライラックのこと。リラとも呼ばれる花。香りが良く香水の原料にもなる。花言葉は”誇り””美”