源流 前編
*本日は三つに分けて投稿いたします
払暁。山の端から漏れ出した陽の光は深紫の空に赤とも橙ともつかぬ色を滲ませていた。
コトリ、と煙管を打ち付ける音が響く。
東京都下の某所、かつての甲州街道から少し外れた閑静な住宅街の一角、古びた日本家屋である。
十帖余りの坪庭へ突き出た縁側に座り、風覆と取っ手の付いた煙管盆を引き寄せたのは矍鑠とした老人であった。
この老人、名を橘月旦という。
後ろで引き結んだ総髪は透明感のある白髪、髭は丁寧に剃り上げられており鼻筋の通った顔立ちは往年の精悍な青年期を思わせる。
業平菱を江戸小紋で右肩から垂れ下がるようにあしらった藍色の作務衣をゆったりと着こなすその小さな体躯は引き締まった筋肉に覆われ、その年齢を微塵も感じさせない。
ぷかり、と月旦の口から出た紫煙は輪を描きながら空中へと消えていく。月旦はただ目を細めてそれを見送った。
年老いた月旦の眼差しは、奥深く吸い込まれるかのような光を静かに湛えている。
この老人、小さいながらも一流派を継承している達人である。
その矮躯からは想像だにもできぬ凄烈な人生を経た顔には筆舌に尽くしがたいすごみが備わっている。
(ままならぬものよ)
月旦は煩悶している。
代々、彼の家系はおよそ平穏無事な生き方に無縁である。
父や祖父もそうであったし、息子もそうであった。
ならばこそ、年老いた老人が憂慮するのは孫のことである。
孫、啓吾を思うたびに忸怩たるものが胸をよぎる。
その憎らしい運命はかつての幼い少年に牙を剥き、忌まわしい事件を引き起こしたのだ。
両親を失った啓吾が彼の元へとやって来たとき、生来の天真爛漫さはどこにもなく、物静かな思慮深い少年に変貌していたものである。
その頃の月旦は可愛い孫が自分を見上げた目が、
「なにやら、背筋がぞっとする」
ような深淵を覗き込んでいるような気分になったという。
だが不思議と嫌な気分はしなかった。
その啓吾の姿が、狂おしいまでに愛と繋がりを求め、それでいて誰かに拒絶されることを恐れている幼子のように映ったのである。
それから、長い歳月を彼は孫と過ごすこととなった。
老人は老人なりの家族として出来ることを思いつく限りに啓吾に示した。その月旦の愛情に絆されるように少年はよく笑うようになり、俯いていた瞳は真っ直ぐに祖父を見つめるようになった。
その成長がなにより彼には嬉しかったものである。
やがて少年は青年へと変わり、大学生になった。
健やかに育った体躯は六尺程にもなり、謹厳な稽古で培われた武人らしいそれへと逞しく成熟した。
日々の修練で打ち合うたびに増していく手応え、そしてその剣筋に垣間見えるかつての息子の幻影。
懐かしくも仄悲しい、静かな情熱に満たされた時間が月旦にはかけがえのないものである。
ふと、感慨に耽る月旦の背に影がよぎる。
徐ろに振り向いた先にいるのは、愛しい孫の姿。月旦のそれと色違いで生成り色の作務衣に前掛けをつけた橘啓吾が立っている。
「爺さん」
「ん、おお。もう朝飯の時間か」
「あぁ、もう出来てる。先に行ってるぞ」
「……のう、啓吾」
思わず月旦は愛孫を呼び止めていた。
啓吾が料理を作ってくれるようになって随分と経つ。
最初は美味いものを喰らって元気になってほしいという単純な企みだった。
自身がそれなりに包丁を遣うこともあって時には家で、時には行きつけの店で色々と孫に馳走した。
啓吾が興味を持てば料理のイロハも丁寧に教えてやった。
実のところ、ここにやってきて間がなかった啓吾にとっては何か役割が欲しかったのかもしれない。
そうと知りながらも月旦は彼の好きなようにさせたし、実際、孫に作ってもらった飯というものは思っていたよりもずっと良いものであった。
「いつも、ありがとう」
「……ばっ、やめてくれ。ガラでもないだろ」
「そうかのう」
月旦は呵々として笑いながら煙管を灰落しに打ち付けた。
精緻な蝸牛の彫り物が施された雁首が鈍く光るのを何とはなしに老人は見つめていた。
乱暴な口調とは裏腹に台所へと行ってしまった啓吾が照れたように口元を緩ませていたのがどうにも可愛いものである。
既に成人も済ませているというのに、あの純朴な青年は未だに褒められ慣れていないのだ。
(ほんに、わしのような老害にはもったいないほどによく出来た孫じゃて)
万感の思いに揺らぐ瞳に、月旦はそっと瞼を閉じた。
どこかでキジバトが鳴いている声が聞こえた。
【脚註のようなもの】
煙管盆……煙管を吸うのに必要な道具が一式入ったもの。盆以外にも箱型とか色々あってお洒落。
六尺……一尺が30センチほど。なので約180センチ。
雁首……煙管の先、煙草の葉を詰めるとこ。江戸時代の煙管はこだわりがあって見るだけでも面白い。