エヴァの騎士
いなすような剣捌きで相手の白刃を弾き返し、軽く軸足を後退させる。
間合いを詰めるため一歩前に出る動作で、ほんのわずかに斬撃が遅れることを知っている。
左足を軸にして刺突を繰り出すと、相手の構えが崩れた。とはいえ、本来利き手とは逆の足を軸足に変えたため、身体がよじれて浅い突きになる。代わりに素早く剣を引いて、軸足を基本に切り替える。
構え直したサーベルを、左上から右下に向けて袈裟懸けに振り切ると、高らかな音を立てて相手の剣とぶつかった。一歩踏み込んで力押しに持ち込むと、相手の顔が歪む。押されて前傾姿勢が崩れそうだ。
力が拮抗していた時間は短かった。必然的に手の甲が下にくる角度でお互い剣をぶつけ合ったが、純粋に腕力勝負では相手が劣る。一歩後退した彼は、バランスを崩したように剣を浮かせた。
その一瞬を見計らって、剣を払い落すようにもう一度剣を振り切る。
「あ……!」
容易く彼の手の平が解け、相手の剣が地面へ弾き飛ばされる。
それを視線で追った彼へ足払いを掛け、空を切るような音を立てて剣を振り下ろした。
喉元まで振り下ろし、寸前で止める。
スカイブルーの瞳が恐怖に見開かれるのを、鼻白んだような顔付きをしたエヴァが眺め下ろす。ただの模擬剣だが、手元が狂って喉を突けばおそらく死ぬ。
そうならないよう慎重に体勢を整えた。凌がれたら恐らくカウンターをまともに受けただろうと、伝い落ちそうだった汗を拭う。
「さて、これでもう350回は殺したか、ロイド」
あどけなさを残したかんばせで歯噛みして睨んでくる。負けた癖にと嘲りそうな唇をどうにか噤んだ。
陸軍士官学校へ入学して二年目、彼と手合せをした回数は、そろそろ350回に上る。
戦場であればロイドが死んだ回数。エヴァが本気であれば、ロイドを殺した回数。それを揶揄するような言葉をわざと投げて、エヴァは模擬剣を引いた。
彼はエヴァに負けるたび屈辱そうに、痛ましい顔をして唇を噛む。それはやはり今日も変わらず、青ざめた顔で黙り込んでいた。
それに少しだけ苛立ちながら、エヴァは闘技場に放り出していた模擬剣の束を拾い上げる。
「落ちた剣を、どうして目で追うかね。戦場なら、切り替えてどうにか白兵戦に持ち込むぐらいの抵抗をした方が良いんでないの」
言葉だけは緩んであたりの良い助言を投げ、へたり込んだまま俯くロイドへ一瞥もせずにさっさと闘技場を出る。
いつも腹が立っている。親切で掛けたはずの助言も、自分でも知らない無意識の内に嫌味が混じってしまう。そういう自分が嫌だった。
それと同時に相手にも腹を立てている。なまじ腕が立つからと、高潔ぶって薄っぺらいプライドを振りかざすように見える。家の名に恥じない騎士になるのだと宣言して憚らない彼が、騎士とは何かを深く考えているようには見えない。無関心だからそんな浅薄な言葉を吐けるのだと、冷ややかに思う。
――それは僻みなのだろうか。
疑問に思ったが、違う。貴族になりたいわけではないのだ。彼が貴族であることをやっかんでいるかというと違っていた。自分が彼をいけ好かないのは――
「俺は……」
呟きかけて、人気を察知した。顔を上げると、足音も聞こえてくる。立ち止まると、長いスカートの裾が視界の隅に入ってきた。
気が抜けて、苦笑が滲む。
「ミディア」
類を見ないほど深い青。大きな貴石をはめ込んだような色の瞳がこちらを見上げてくる。
苦い苦笑を微笑みに移すと、ロイヤルブルーサファイヤが優しげに微笑みを返してくれた。
「通りがかったのですが、思わず足を止めてしまいました。お二人とも見事なお手前で、迫力が」
唄うように滑らかな発音が耳に触れる。透き通る声は清らかで柔らかかった。
切り揃えられた、長い栗色の髪の少女。この学校には珍しいほどの小柄な身長の彼女は、ダイヤスート組のNN、ミディアだ。しとやかに微笑んで、並んで見上げてくる。
ささくれ立った気持ちが凪ぐ。無意識に苛立った顔をしていなかったかとばつが悪い思いをしながら、エヴァは苦笑した。
「恐縮だなぁ」
「ずいぶんと物騒な言い方をなさっていましたが……」
しっかり聞かれていたらしく、ますますばつが悪い。苦い気持ちで敏い少女を窺い見た。
高潔というならロイドよりむしろ、およそ聖女じみた彼女の方だった。美しい言葉の繰り方や、清らかな佇まいも物腰の穏やかさも、崩れないノーブルな雰囲気も、女生徒の珍しい学校であることを除いても、誰の目にも特別だった。
隠し事をしていられなくなって、エヴァは苦い顔をする。
「お恥ずかしながら」
「人の好き嫌いがおありだったのでしょうか」
「……違う、とは、思いたいがなぁ」
「鈍いお返事をなさいますね」
特にあれこれと追究するでもなく、ミディアは微笑んでそれだけを言った。十三、四の少女にしてはやけに大人びて、どうにも見透かされているようだ。本心を捕まえられて、エヴァは冴えない顔をした。
好き嫌いできっぱり割り切るなら、ロイドのことは好きだろう。けれど、割り切れないのが実際だ。どうしてもいけ好かないと思う気持ちの正体は何か。
――分かってはいるのだ。
「……あいつはなぁ、貴族だろう。名声とか地位とか、そういうののために生きてる貴族」
ひらひらと小さな蝶のように歩きながら、ミディアは「ええ」と相槌代わりに頷いた。
王侯貴族の子息が、騎士の戦歴を引っ提げて襲爵、あるいは即位する。良くある話だ。地方貴族の彼も、騎士の戦歴を名誉にしていつか爵位を継ぐ。最初から成り上がりの商家の息子などとは違う世界の人間で、いつかエヴァはロイドに傅く側の存在になる。……自分より弱い人間の下に。
屈辱なのは負け続けるロイドではなく、エヴァの方だ。
勝ち続けても力の下にねじ伏せられる方のはずだ。
「分かってんのかね、と思う。騎士は名誉か? 貴族の道楽に見えるのは俺の僻みか? 結局は騎士の命を糧に地位を固持せんとする、上の立場の人間だ。守られる側の人間だ。それがどうしてここにいるのか、どうして俺に見下げられているのか――そう思うとやりきれない」
本当の意味で騎士になりたいのかと、穿った見方をしてしまう。騎士の名誉ではなく、貴族の名声を求めているのではないだろうか。それに彼は、騎士になっても大切にされなければならない"違う価値の命"だ。戦場に出た時彼が死の淵に追い詰められたとして、そこから飛び降りるのはたぶん自分や、他の人間だ。
例えそのためにエヴァが死んだとしても、彼の名誉は損なわれない。人を踏み躙り、死骸を積み上げて上へ上がる――そういう人間が蔓延る場所から、彼はわざわざエヴァと同じ場所へ降りてきた。
彼が理解しているとは思えない。これから理解できるとも思えない。どうしても。
「なんであいつはこの学校に来ちまったのかね。最初から違う世界で生きていれば、俺とは関係ないなぁと思って済むんだが。同じ場所まで下りてきちまったら――もう、上手く普通に接していられんもんだな」
わざわざ降りてきて、ロイド自らエヴァに負けて下って、屈辱そうな顔をするのだ。それを見ると腹が立つ。
エヴァは貴族の道楽にいちいち命を懸けていられない。名声などというエヴァの目から見て無価値なものに執着して、潔白面をして騎士を名乗ろうという、その無鉄砲さと相容れないのだ。
ミディアは咎めるわけでもなく、微笑んで聞いていた。いつも穏やかな彼女が騎士を志すのは、いったいどういう心境からか。貴族の男にでも見初められた方が幸せそうに思うのは、男のエゴだろうか。
「あなたは騎士をそれほど崇高なものと見ていらっしゃいましたか」
「や、そりゃ違うぞ。俺は別に、他に行き場がねえだけだし……行き場がある奴が来るなよとも思ってねえつもりだし」
「ええ」
「……ロイドだけ許せんってのは、やっぱ――いちゃもんだな。分かってんだ、ロイドが悪いわけじゃないってのは」
うん、と納得するように頷くと、ミディアが笑った。無理やり話を畳んだせいで不自然だったらしい。
くすくすと梢のようにか笑って、そうかと思えば青い瞳を細め、囀るような声を紡ぐ。
「十四歳相応に、うまく折り合いがつかないことも、あなたにおありだったのですね」
「……んん?」
「なんでもあっさりやってのけていらっしゃるように見受けていました。他のクラスですから、あまりあなたのことを知っているわけでもありませんが」
買い被られていたようだ、と思いながら苦笑すると、ミディアはさらりとフォローする。
「きっと、上下関係を拗らせてしまわれましたね」
「……かもだなぁ」
入学一年目の昨年は、まだこのクラス別の順位付けがなかった。昨年の期末に公式での模擬試合――これは慣習として『円卓試合』と呼ばれる――が行われ、そこで初めてナンバーが付けられた。仮初めの上下関係を付けられた。いつか消滅するような脆い主従関係を。
まだ誰しもその関係に染まり切らず、ぎこちない。
「キングって謂わば主人だの、従士の首領ってポジションだろう? 俺の柄じゃねえしなぁ、なんぞこそばゆい」
「エヴァは、どんな主人が良いとお思いになられますか」
唄うように唐突な質問を差し出されて、いささか面食らいはした。
最上位に君臨するキングの称号を持つエヴァが、従って良いと思う人間。いつか主を持つ時に、どんな人間だったら良いと思うのか。
おかしなことを聞くものだと思いながら、結局考えた。
「……俺より強い人かね。本能的だけど、どうしても」
動物の順位制のようなものだ。自分より強い人間なら服従しても良い。気持ちでも、剣の腕でも、財力でも知力でも、なんでも良い。頭を下げて良いと思う人間が良い。
曖昧そのものだが。
「頭下げたい人に下げるかな。命を捧げる、つうとなんぞ大袈裟だが、どうせならそんぐらい人間できた人が良い。……適当だろ?」
投げやりに茶化して聞くと、彼女は微かに笑みを深くした。
「適している、という意味なら、同意します」
――好ましいが、食えない少女だ。
「あなたは損得勘定で、より偉い人、より待遇の良い所と仰るかと思っていました」
「まあ実際、結局そうなるだろうがなぁ」
「そう仰らず。純粋で真っ当だと思います。恥じる必要はないとも」
通る声の耳触りはどこまでも優しい。
いつもそうだ。完璧な淑女。そういう立ち居振る舞いが染み付いている。発する言葉にも。
ミディアは素性を口にしないが、あれこれ詮索するのも躊躇われた。だから、一体どうしてこうも変わった気性なのかは分からない。
気恥ずかしくなって苦笑しながら問い返す。
「ミディアは?」
「さて、私は何とも……家での立場が少々特殊なものですから、人に利用されるための存在です。私の意思表示の有無が影響しません。言ってはいけないことです」
女子供が騎兵学校にいる時世に、ずいぶんとアルカイックな思考だ――と思って、うっすら何かに気付きかけた。
未だ古きを頑なに守り続ける。今時貴族でさえそこまで保守的な思考は持たない筈だ。ならば、貴族よりも大きな重圧と責任を背負わされる家は、どこか。ぱっといくつか浮かんだ選択肢の中から、唯一考えられるとしたら、もしかすると。
――薄々気付きながらも、口を噤んだ。余計な事に首を突っ込んでも、知らない振りをしておくのが商人だ。
それともこの場合は騎士道とでも言ったら良いのだろうか。
「……何ぞ難儀そうだな、お前さんは」
「エヴァも」
詳しくは聞かなかった。ミディアも言わずに、短く言葉を返してきた。ロイドのようなこともあるし、衝突の原因になっても困るため、詮索はやはりしない。
「俺はたぶん誰より気楽な身分だが」
話を逸らす意味が半分、本音半分でそう答える。
商家の次男。言ってしまえばスペアのような存在だ。騎士になってどこに勤めても咎められることはないし、将来困ったら実家に戻って雇われれば良い。最悪、その辺の商家の養子に入って、両親に嫌な顔をされるのもありだと思っている。別に商人になりたいわけではないが、自分のことだけ考えていられて、金銭的な心配もない。
客観的に見ても間違いないが、しかしミディアは同意しなかった。
「端から見て困難そうでも、本人にとってはそうではなかったり……その逆で、易く見えることが当人には困難な場合もあります」
「いや、自分で分かっているつもりなんだが」
「自分を客観視して、それに合わせるのが、自己理解だと……」
言いかけて、ミディアははたと口を噤んだ。エヴァの顔色が消えた。
――だいぶその言葉が突き刺さった。
核心を突いていた。他人からは易いことに見えるから、自分でもそうあるべきだと、軽いことのように擦り込んでいる。
本当にそうだったら、こんな風に奇妙な捩れ方をする筈がないのに。
ロイドが気に入らないのは、根を下ろす場所が決まっていて、立ち竦むほどの岐路がないからだ。楽そうに見える。なのに、自分に負けて悔しそうで苦しそうで、どうしても気に入らない。順位が並んで近付いた分、反発力は大きくなる。嫌いではない筈の彼の全部が気に入らなくなる。
「あー……嫌だなぁ、これ」
「あなたを羨む人は、あなたの困難を知らないだけです」
「……あんま甘やかされたらいかん。自分で下らんことで悩んでんなぁ、とは思うんだよ」
「では甘やかしません。逆もまた然り、ということでーーロイドを羨むのは、ロイドの困難を知らないから、というのはどうでしょう」
ひらりと優雅に一歩前へと躍り出て、ミディアは微笑む。
「そうですね、ロイドと少し向き合ってみるのはいかがでしょうか。ひょっとしたら、溜飲が下ることもあるかも知れません」
「ロイドと、ねえ」
「すぐではなく、追々でいいんですよ。その内限界まで行き着きますから」
「どういうこと?」
「例えば――」
どちらかの無理が爆発するとか。
ミディアはさらりとそんな物騒なことを言った。
「…………おお」
「私、外に出るつもりだったんです。失礼させて頂きますね」
不穏な託宣だけ残して言い逃げとは、ますます食えない。
げんなりしつつも、呼び止める理由もないので応じて、思い出したように注意する。
「……あ、あんまり人気のないとこは一人で行かん方が良いぞ。残念ながら身の程知らずがいないわけじゃあない」
ないとは思いたいが、万が一ということもある。オデットやルースも同様の注意喚起はされていたようだが、一番危うげなのは彼女だろう。
ミディアは従順に頷いた。
「では、女子寮の傍で」
「何の用事だ?」
一体外に何の用なのだろうか。あっさり目的地を変更したところを見ると、場所はどこでもいいという様子だが。
首を傾げると、ミディアは苦く笑う。
「先ほどのあなた方の手合せを、少し真似してみようかと……」
「あー……腕力勝負になるから、多分お前さんには向かんが」
「いいんです、近道では身にならないと……そう、私も思います」
「?」
ミディアは楽しそうに言って、小さく頭を下げた。真っ直ぐな栗色の髪が肩口から滑る。さらさらと、掴んでもすぐ指の間から抜けそうに細い。
人柄そのままだと思いながら、廊下の角で別れた。
無理が爆発するまで。
言い渡された期限まで、一体どれだけの猶予があるのだろう。
演習場へ向かう廊下をちらりと振り返る。放課後になり、ほとんどが十ある寮に下がって行った。人気はなく、ひっそりとしている。
割り切れれば困らないが、割り切れないから困っている。今ここで関係性を崩しても、後の想像が出来ないため、躊躇った。
目を瞑り、小さく溜め息を吐いて、身体の向きを戻す。来た道を視界から外し、エヴァは演習場へ背を向けて歩き出した。
気付きそうになったことに目を瞑り、見えそうになったものに背を向けて。
商魂と騎士道と合間の、曖昧な立ち位置に甘えながら、エヴァは今日も口を噤んだ。