オデットの天秤
鼓膜に叩き付けるような大音声が、爆発音のような振動を伴って周囲を震わせる。
「――いい加減にしろ貴様らァッ!!!!」
ガラスが揺れたように見えた。さすがに石造りの建物だけあって足下から響いてくることはないが、物凄い剣幕は思わず後ずさりをしそうになる。
オデットは冷や汗を滲ませながら肩幅に開いた足をふん縛り、微動だにせず何とか平静を装った。隣にいる男に取り乱す醜態を晒したくなかったからだ。
嫌いなのだ。嫌みくさくて陰険で。
だがそれにしても、なんで私も怒られてるんだ──と思ったのが、どうやら顔に出たらしい。見咎めた教官がぎろりと鋭く睨み付けてきた。
「……なんだその顔は」
「恐れながら、理解に苦しみます、サー」
正直にオデットは思ったままを言った。いっそう険しく睨み付けられたが、やはり平静を装った。
なぜこんな事になったのか。
隣に立つこの男が絶対に悪いと思っている。ヨハン・ハドルストン――同学年で他クラスの男子生徒だが、入学以来やたらと粘着されている。
今日も今日とて廊下ですれ違う際、進行方向に立ち塞がってきたヨハンがねちねちと不愉快な事を――主にオデットの素性に対する話だ――言い募って、反論にもことごとく憎まれ口で返されて、我慢に据えかねて殴り合いに移行した。腕より口の方が立つ男だ。騎士でなく詐欺師にでもなれよと馬鹿にしたのでかなり逆上された。
双方、全身に痣ができている。騒ぎに教官を呼ばれて、押さえられて、そのままこの別室で説教を受けている。
本当に理解に苦しむ。何もオデットだって、自分から理由もなく因縁を付けるような真似はしないし、同級生と揉め事を起こしたいとも思っていない。貴族だの騎士だのの特別な家柄でない分マイナススタートだったわけで、できれば穏便に、脇目を振らずに学園生活を送りたいのだ。
それなのにこれだ。不満だらけだ。
「何がだ」
「自分が呼び出される意味が分かりかねます」
「揉め事を起こしたからだ」
「発端は自分ではありません。罰するは関係者ではなく、発端となった人物ただ一人ではないかと存じます」
うわやっべえ、陰険くせえ言い方した。どこぞのヨハン野郎みてえだ――と思いながら、オデットは教官のネクタイから視線を外さない。隣にいる男をなるべく視界に入れないためだが、鬼のような形相で睨んでくる教官の目を見られるほど太い神経でもない。
教官は交互にオデットとヨハンを見た。
「先に殴ったのはどっちだ」
「は。一年ハートスート組オデット・オートレッドです」
「オートレッド、貴様か?」
即答したのはヨハンだった。そのせいで教官にまた鋭い視線で振りかぶられ、殺意に近い気持ちを抱いた。本当に陰険野郎だ。
「Bastard……」
「はっきり物を言え!」
「――異議を申し立てます、サー!!」
教官の怒号と競うかのように、オデットが声を張り上げる。一時的に止まっていた鼻血が再びぼたぼたと垂れた。
「何だ」
「言葉による侮辱を受けたためです。他者を貶めて鬱憤を晴らす、騎士として不適格な卑しい性根に軽蔑を覚えました」
「……とりあえず鼻血を拭け。子女だろう」
「失血死に至る出血ではありません、問題ないと自分は判断します。お気遣い痛み入ります」
真顔で返すと、教官の鬼の形相は崩れ「いや、そういう話じゃ……」と優れない表情になった。学生の流血ぐらい別に見慣れているだろうに――と思いながら、オデットは袖で乱暴に鼻血を拭う。ますます微妙な顔をされたが、話しにくい以外の問題はない。大人しく起立したまま黙る。
隣のヨハンが勝手に口を挟んだ。
「忍耐力の欠如も騎士として不適格かと」
「足の引っ張り合いは止めろ、見苦しい!」
「あと陰気くさくて女々しい」
便乗して言ってやると、ヨハンが小声で悪態を吐いてオデットを一瞥する。オデットはぶすくれた顔を背けて無視し、やり過ごす。
我慢に据えかねたのか教官の両拳が振り下ろされた。
「「い"……ッ!」」
木槌でも振り下ろされたのではないだろうかという衝撃だった。一瞬言葉に詰まる。
「いい加減にしろと言っているだろうが!」
「「ッ異議があります!!」」
「黙れ!!」
今度は取り合ってくれなかった。教官が右利きなのだから、必然的により痛いのは向かい合って右手側にいるオデットの方だ。理不尽極まりない。腹立たしい。
ぶすくれた顔が並んでいるためか、教官はそろそろうんざりしてきたらしい。深くため息を吐いて、ぼりぼりと頭を掻いた。
「何がそんなに気に入らんのか……お前らはいつもいつも。殴り合いまでいくか? 普通」
「男社会における、力関係を誇示する卑近な方法と認識しています」
「お前は女だろうが」
「男社会に身を置いたからには、郷に従うのが道理です」
「獣の上下関係の決め方だそれは……」
お前は獣レベルか、という教官の呟きに、隣のヨハンが鼻で笑った。殺意が湧くほど腹立たしく、横目で一瞥をくれて反論する。
「しかし自ら売った喧嘩で利き腕を損傷しているようでは、獣だろうが人間だろうが同じこと。勝算の見極めを損なうのでは、獣に劣る判断ミスです」
「何だハドルストン、石の切片でも刺さったのか?」
「……石壁の角に擦っただけです」
「ナースに診て貰え。後々何かあっては困る」
だせえな、と小さく呟いてやると、もう一度教官から脳天へ拳を振り下ろされた。どうして自分だけ――という不満が顔に出たが、教官は無視した。
「……オートレッド、お前もちゃんと診て貰えよ。特に顔」
「は、顔……? 優先度は……頭頂部が高いかと……」
「顔だ」
色々と言いたそうな顔をした教官も、あえて深くは言わなかった。形容し難いような表情で、オデットの顔の傷をとっくり眺めている。
「オートレッドも問題だがハドルストン、お前、子女の顔を殴るというのはどうだろう……」
教官が指摘する通り、オデットの目元には青痣が浮き、右頬からは擦傷による出血が起こっている。右ストレートを喰らったせいで鼻血もぼとぼと流れていた。顔だけでなく、無論それは手足にも及んだが、ヨハンの方にも同様に顔の痣や手足の出血も起こっているし、右手から流血している。この辺りはお互い様というか、利き腕をやられたヨハンよりかはオデットに軍配が上がる。
しかし、教官の叱責にはどちらかというとヨハンを咎めるニュアンスが強い。オデットは顔を顰めた。
「あの――」
「オートレッドも騎士を目指す身だ、時には衝突も仕方ないし、子女だからと折れてやるわけにもいかんだろうが……騎士道というものがある。子女に暴力を振るうお前を見たら、外部の人はどう思う?」
オデットはつい口を噤んだ。学校内だからこそ特に周囲を気にせず、オデットは取っ組み合いに持ち込んだ。しかしそれと同じような気分で、一般の人の目が触れる場所でやった場合、悪いのはヨハン一人ということになる。
例えば、オデットが彼の名誉を損なうような言動を取った時でさえ、だ。
「……すみません」
「万が一顔に傷でも残ったら、お前、オートレッドを嫁に貰わんと――」
言い掛けて、その瞬間二人揃って浮かべた絶望的な顔が余程酷かったらしい。教官はそれ以上言わなかった。
「まあ何だ……そんな事も考えて、喧嘩も程々にしておけ。今はまだお前らは13歳だし、体力差も少ないから良いかも知れんが、どうしても男の腕力だと加減が付かんようになる。 そこの所をちゃんと考えて……」
「サー、自分はまだ12歳です」
「御託はいい」
「ノー・サー。意見があります」
オデットは滴る鼻血を拭いながら口を挟む。まだ誕生日を迎えていないので、正確には12という年齢だろう。しかし、本題はそれではなかった。
オデットはさらに言い募る。
「このPeanuts男に自分が劣るとの意図を含んだ発言は撤回して頂かなければなりません」
「オートレッド、それだけは絶対に謝れ」
「そもそも、それでは自分はこの男を一方的にどつきまわして良いという事になります、サー。とてもありがたい申し出です」
オデットは殴られなくて良いのに、オデットは女である事を笠にヨハンを殴って良い事になる。
ヨハンは「クソ女」と小さく悪態を吐き、教官には「上げ足を取るな」と怒られたが、言わないからには収まらずさらに続けた。
「腕力に差が付くという話は、確かにいずれそうなる事実であります。しかし、自分にとってこのPissheadは……」
「止めなさい」
「……ハドルストンはいけ好かない人物であり、そのいけ好かない人物をサンドバッグにして良いとの素晴らしい案を実行すると、自分にとってこの人物はいけ好かなくなくなります。これはハドルストンの唯一『いけ好かない』というアイデンティティの喪失と存じます。これでは空気以下の存在への降下です」
「……ふざけんなよクソアマ死ねよ……」
「よって自分は上官の発言内容に異議を申し立てます」
隣からちくちくと突き刺さってくる視線を無視して、オデットは毅然と教官へ訴えた。
陰険が移るのは御免だ。少なくとも自分が思い描く騎士は、高潔で明朗で、何より公平である筈だ。そして、子女だからとヨハンが咎められることを平等で公平だととは決して思わない。ヨハンが貶められているようで、その実オデットの名誉こそを損なっている。
「また、自分は騎士になるため男子学生と肩を並べ精進する身であり、子女として過剰な庇護を受けるのは不当であると訴えます」
「同じように扱えと言うのは無理だ」
「無論です。しかし、子女である事を理由に、自分が当校の一学生たる名誉を守るための諍いを禁じられるのは、自分の女性に対する差別です。 自分はそれを望みません」
学校に入学する時に、背中を押してくれた家族が、入寮する前に様々な事を教え込んだ。男と全く同じ扱いをしろというのは無理だとか、男と張り合うことと、貞淑でなくなることは同義でないとか。
中でも父には、女の身である事を理由に特権を与えられるのは間違っているからと言われた。男社会に自ら飛び込んでおいて、女だから守られるとは決して思うなと、それはそれはきつく言い聞かせられた。それは自分への侮辱と同義であり、それを良しとするのは自分を貶める行為だと。
相手がヨハンであろうと、というよりも、寧ろいけ好かないこの人物相手だからこそ、余計に侮辱は許せない。教官の目を見据えてオデットは畳み掛ける。
「どうしてもハドルストンに、自分を殴るなと要求するのであれば、自分にも同様の命令を課して頂かねばなりません」
「……そ、そうか。では」
「その場合、刀剣の使用のご許可を」
「………………」
ここが騎兵の学校である以上、剣術で決着を付けるのが正しい筈だ。殴り合いは確かに獣じみた蛮行だったと反省する。そして、喧嘩であろうとも名誉を賭けるなら勝敗という落とし所は必要だ。
しかし、折れたにもかかわらず教官の表情は冴えない。
「なぜ普通に喧嘩しないという発想はないんだ……」
「ハドルストンが絡んでこなければ、自分が彼に因縁を付ける理由はありません」
「怒られたからって人のせいかよ暴力女。 さすが卑しい出は人に汚名を着せるのがうまいな」
「……そういう取り方しか出来ない性根の腐りきった短小野郎に言われるとは思わなかった。ホントぐずぐずみっともねえな……!」
「すぐ下品な罵声に持ち込む辺り、本当にお里が知れる。 呆れたもんだ」
「……そんな捻くれきって嫌らしい性根になる辺り、あんたのお家とやらも、身分はともかく内実はずいぶんドブ臭くて卑しいに違いねえけど」
「てめえ……」
「反省してるのか貴様らは……!!」
再びの怒号と、叩き込まれる拳で、あやうく舌をかみそうだった。
「いッ……てえ……」
「クソ女が……」
「オートレッド、貴様の訴えを認めてやる。 模擬剣、あるいは木剣等の訓練用刀剣の使用を許可する。 ただし場所を選べ。 これ以上ぐずぐずと見苦しくこじれるようなら、懲罰房に送るからな……!!」
衝撃で一瞬返事に詰まったが、頭のてっぺんをさすりながらオデットは凛と声を張る。
「は、お聞き入れ頂きありがたく存じます!」
「ハドルストンもそれで良いな」
「……はい、貴官の寛容なご配慮に感謝申し上げます」
良い子ぶりやがって、うぜえ……とは、オデットはかろうじて言わなかったが。
もうすぐ授業が始まるからと、教官に部屋を追い出された。最後にくれぐれもわきまえろよと釘を刺されながら扉を閉めたが、廊下で二人になった途端、雰囲気は最悪に戻る。
「てめえのヒスった声のせいで、あんな騒ぎになったんだぞ」
そもそもこいつが絡んでこなければ、騒ぎにだってならなかったはずだ。だが、彼はその点を全く視野に入れていない。
後ろから刺されて死ねば良いのに、という物騒なことを思った。
「あーあーそれは悪かったですね……とでも言えば満足すんのか、あんたは。何なら今から闘技場出ても良いけど!?」
「すぐ頭に血が上る。そんな調子じゃ将来どこ行ったってすぐに暇を寄越されるな。せっかく身の丈に合わない学校に来ておいてそれじゃ、金の無駄だ」
「へえ、お気遣いありがとう。私の学費は国が出してくれてるから、あんたらが払った税金が巡り巡って私の学費ってわけだけど。あんたのその面を見るのに比べたら、路頭に迷うぐらい痛くも痒くもない」
「わきまえろって言ってんだ、貧乏人。……良い子ぶりやがって、似合わなすぎて総毛立ったふざけんな死ねよ」
良い子ぶりやがって、ってそれは私の台詞だ――と言おうと思ったが、どういう意味か気付いたせいで、言い損ねた。
かばったと思われた。自分の顔を殴ったせいで怒った教官へと、撤回を求めた。結果的に一方的にヨハンが堪えなければならない不条理を覆したわけだが――そう思われることが既に、自分への辱めだと思った。
「──女に庇われて屈辱?」
驚いた顔のままじっとヨハンを見詰めて尋ねた。
反論できずに大人しく黙っていたヨハンを思い出す。オデットが反論した口上を彼が訴えても、結果は変わらなかった筈だ。しかし、ヨハンはオデットが守られるべき子女であることに反論しなかった。
その意味を考えていると、ヨハンはオデットを見ず、吐き捨てるように言い放つ。
「そうだな」
無機質に返った返答が、頭でよく理解できなかった。
かっと血が煮えるように熱くなる。感覚が遮断され、身体のコントロールを激情に奪われた。うまく息が出来なくなり、視界がきかなくなって、腕を振り上げた。
力一杯振り下ろした手でヨハンの頬を張る。
「――いっ……!!」
「ふざけんじゃねえよ!! お前は今まで私をそんな風に思ってたのか……!」
ヨハンが怯むほどの剣幕で叫んでいた。
開いた扉から教官が飛び出してきても、まるで目に入らない。ヨハンの胸ぐらに掴み掛かり、オデットは校舎に響き渡る怒声を張り上げる。
もう半年だ。学校に入って彼と顔を合わせて半年。その間中、彼は。
「誰がお前なんか庇うか、平気で私の大事なものを貶すお前なんか、庇うわけねえだろうが! お前は、私が女だから傷付けられないルールが必要なほど弱いって思ってんのか!? そんな風に侮ってきたのかよ……!!」
ずっとそう見下されてきたのか。同じ学校の生徒として、何隔てないと思っていたのは自分だけだったのだろうか。
些末なやり取りで露呈したヨハンの本心に、烈火のような怒りが弾けた。
教官がヨハンを掴む腕を引き離して、腕を押さえてくる。何かを怒っているが、聞こえなかった。拘束されてもまだ腕を振り回してもがき、オデットは火の付いた怒りをぶつけた。
オデットがどんな思いで異議を訴えたか、彼には少しも伝わっていない。
「私はお前にどんな劣ったところがあるって言うんだよ! お前より優れていることもなければ、劣ったところもねえよ!! なんでそれが分からないで騎士になりたいと思えるんだ恥知らず、お前なんか――」
「止めろ、オートレッド!」
「お前が自分をどんな偉い人間で、どんな優れた人間だと思ってるか知らねえけど……少なくともお前に私を差別していい権利なんかねえよ!! お前みたいな身の程知らずこそ、こんな所にいるべきじゃねえんだ……!」
血を吐くような思いで、石廊下に反響するような大声を張り上げた。
家柄が劣ると嗤われるのは仕方がない。ただの事実で、悪口だと思わない。けれど、公平であろうとする努力と自尊心を踏みにじり、合わない型に無理やり押し込められるような差別だけは耐えられない。
鋭く睨んだ視線の先、ヨハンは何も言わなかった。
否定せず、訂正せず、返す言葉もないと言いたげに目を逸らす。
その動作に、オデットはぴたりと抵抗を止めた。腕をだらりと下げる。俯くと、半端な長さの鮮紅の髪が流れ落ちた。
激情は諦観に形を変えた。
溜め息を零した後、顔を上げてヨハンの横顔を殺意を込めて睨む。
「──覚えておけよ。お前がそのまま私を見下して良い気になってんなら、戦場に出た時、私がお前の首を落としてやる。お前が私を侮っている内に殺してやる。だから好きに蔑めばいい」
この男に対して努力してやる気持ちが惜しまれる。
女だから手加減してくれるのなら好都合だ。戦場で相対するのなら。
「私に殺される時、今の言葉を思い出せよ。殺してやるからな、この詐欺師! お前が侮って見下して貶めた私に首を取られ、晒される屈辱と共に死ね……!」
教官がヨハンから引き剥がすように、オデットを無理やり連れて行こうとする。オデットは抵抗はせずに大人しく連れられながら、首を捩って叫ぶ。
「絶対今日のこと忘れてやらねえからな……!!」
貫くような呪詛を吼えた。
後にも先にも、彼に対してこれほど怒ったのはそれだけだ。絡まれて、殴り合いになって、巻き添えで教官に怒鳴られた時も、こうも激しく憤ることはなかった。けれどその時ばかりは我慢ならなかった。生まれついた家についての不公平では決して感じなかった類の理不尽だった。
その日は、入学したばかりの一年生から初めて出る、懲罰房入りを強いられた。
監獄と大差ない鉄格子の中は最悪だった。湿って薄暗くて、ヨハンみたいだと思ってますます不愉快だった。一日だけでもずいぶん参ったし、烈火のような怒りが冷めると空しくて馬鹿馬鹿しかった。ふてくされて寝ていた。
不思議と教官からの叱責はなかった。最後の殺してやる、は止めろとだけたしなめられて、強い力で頭をぽんぽん叩かれた。少し痛かったが、咎めがなかったことで安心もした。
ヨハンの方は特に罰はなかったようだ。それも仕方のないことだと沈静化した頭で納得しながら、一晩を房の中で越した。
クラスが違うため、翌日はヨハンと顔を合わせることはなかった。頭を冷やす冷却期間が続くと、ひどく馬鹿馬鹿しい気持ちになった。
翌々日になって、廊下を歩いていると、向こうから歩いてくるヨハンの姿を見付けた。
一度だけ、炎のような橙色の双眸とかち合ったが、彼はすぐに逸らした。普段なら彼が何かにつけ因縁を付けてくる間合いに入っても、やはりだんまりのままでゆっくりと横を通り過ぎる。
やはりと思いながら、すれ違った後、不意を突くようにオデットは立ち止まった。
「──ごめん」
振り返らずにきっぱり言い切った。
ヨハンの足音が止まる。後ろから刺さる視線を感じながら、オデットは淡々と続ける。
「いくら本当のこととはいえ、悪いことを言った」
「…………」
神妙な顔で、大人しくオデットは謝った。あくまで発言の撤回はしなかったが、罪悪感を持って謝罪していることだけは伝わるようにゆっくりと言う。
「少なくとも教官の前で、侮蔑の言葉として使ったのは悪かった。謝る」
「…………?」
「ピーナッツにも失礼だったし。そんなご立派じゃないから……でもそう落ち込むことはないと思う。私がごちゃごちゃ言うことじゃないってのは分かってるけど、望みぐらいは捨てなくて良いんじゃない」
「……あ?」
「短小で粗末でも良いっていう寛容なお嬢さんがいてくれたら良いね。私がこんなこと言うのもほんと余計なお世話だけど、気にされたら気分悪いし……それじゃあ」
「ちょっと待てよ」
颯爽と退場しようとしたところを、しっかり肩を掴まれた。
振り返りざま叩き落とす。
「私がこんな殊勝に謝ってんのにぶち壊しだっつの……なに」
「殊勝!? 冗談は下品だけにしておけよ下ネタ女……ッ!」
胸ぐらを掴まれて剣幕で怒鳴られる。たまらず掴み返して詰め寄った。
「そっちこそ冗談は陰険だけにしとけよ……真面目に心配してやってんだろうが、この期に及んでまだぐずぐず言う気かよ面倒くせえな!」
「謝るところが違うんだよ!!」
「他に謝るところなんかなかっただろうが、お得意の因縁か、あぁ!?」
「分かっちゃいたが、二日前のことも忘れるほどおつむまで貧しいとは、つくづく嘆かわしいな」
「はぁ~? キッチリ覚えとるわ! 乙女にナニの話なんぞさせやがったな、死ね変態!!」
「都合のいい時だけ女ぶってんな、世間一般の乙女様全員に土下座してからお前が死ね……!」
出所早々にいつもの泥仕合になった。廊下を通りかかる生徒達が囲んで馴染んだ光景を眺めていたが、双方まったく目に入っていなかった。その後も何度か口汚い罵声の応酬を繰り返した。
いつもと違ったのは、普段なら殴り合いになろうという頃になって、互いに掴んだ手を離したことだが。
少し距離を取って、腕を組んで不遜に睨み合う。
「……エモノ持ち出し解禁だったな」
「お前なんかのために、大事な休み時間を使って損した。次、訓練だ」
オデットとヨハンが吐き捨てるようにそれぞれ言って、冷やかに視線を交わす。大概進歩がない、と思いながらも、幸か不幸かすれ違った時のぎこちなさはない。
ヨハンが踵を返す。
「首洗って待っとけド素人」
最後までうるさい輩だと思いながら、向きを返してハートスートの教室を目指す。広がるスカートを手で潰して、同じような憎まれ口を叩いた。
「言ったな。ケツからげて逃げんじゃねーぞド三流」
ヨハンの嘲笑が返ってきた気もしたが、構わなかった。取り巻いていたギャラリー達の輪を押し退けて教室へ向かう。
延長戦の決着は訓練でだ。コインを投げ合って賭けをしている同級生たちを尻目に、オデットとヨハンは振り返らずに廊下を進む。
――決着は、未だついていない。