9・転生した髪
マアトの美容室に、とても美しい女性がやってきた。
きりっとした顔立ちに、革製の胴着がよく似合っている。ピンクの肩当てに短いマント、いかにも冒険者という格好だ。
しかし、その女性には髪の毛が一本もなかった。
「い、いらっしゃいませ……」
嫌な予感を拭えないまま、マアトは言った。
髪の毛のないモンスターに、毛糸で髪を植えつけたことならある。柿のヘタで作った養毛剤もある。いざとなれば何とかなるだろうと思い、中へ案内した。
「えーと、本日予約の……」
「プレートニフです」
女性はよく通る声で言った。
「ダンジョンに憧れて、この町に来たばかりなんです」
「そうだったんですか」
マアトは紅茶のカップをプレートニフにすすめた。
この町は、本当にどこもかしこもダンジョンになっている。さぞ愉快でスリリングな毎日が過ごせるのだろうと期待して、わざわざ引っ越してくる人も多い。友達のタイガもそうだった。
しかし実際は、店や公共施設として使われているものばかりで、大規模なモンスター討伐や宝探しができるわけではない。プレートニフが落胆していないか、マアトは心配になった。
「それで、急にハゲちゃったんですよ」
「えっ?」
マアトはカップを落としそうになり、プレートニフがそれを受け止めて一口飲んだ。
「あまりにも面白くて、あちこちのダンジョンに出入りしてたんです。そうしたら、変な罠にはまってしまって」
「髪の毛が抜ける罠ですか?」
「いえ、頭上から降ってくるタライのような罠なんですけど」
「普通にタライ落としじゃないですか」
プレートニフは素早く身をかわしたが、タライのふちが頭に当たってしまったという。すると髪の毛がするりと抜け、タライの中に吸い込まれていったというのだ。
「そのタライが、異世界に通じてたんです」
「い、異世界?」
「このグローバルスコープで見ることができますよ」
プレートニフはポケットから小さな赤い筒型のものを取り出した。片側に覗き穴があり、万華鏡のようだ。目を当ててみると、透き通った紫色の大地が見えた。空は赤々と燃え、龍のような翼の影がよぎる。それを見据えて剣を構えているのは、青い目をした美しい青年だ。
「あれが私の髪です」
「え……? か、髪?」
「異世界転生って知ってます? 冴えない主人公がイケメンになって異世界で活躍する、いわば都市伝説のような現象です」
それはマアトも知っていたが、髪の毛が人間に転生するなんて聞いたことがない。プレートニフは紅茶をぐいっと飲み干し、眉間にしわを寄せた。
「悔しいんですよ。私がハゲて、髪の毛だけが勝手に勇者になるなんて」
「う……それは確かに納得いかないわ」
マアトはカップに紅茶を注ぎ足し、まあ飲んで飲んで、と言った。プレートニフはそれも一気に飲んだ。
「髪の毛の奴を見返してやれるような、かっこいい髪型にできませんか?」
「そういうことなら任せて!」
マアトは立ち上がった。つい昨日、増築したばかりのフロアをさっそく使う時が来た。
「地下六階、育毛フロアへ行きますよ!」
マアトが先に立って案内すると、プレートニフは短剣で床を突きながら慎重に階段を下りてきた。
「あのー、早く行きましょうよ」
「どこに罠が仕掛けられてるかわからないじゃないですか」
「大丈夫ですってば!」
このままでは日が暮れてしまうと思い、マアトはプレートニフの手を引いて走った。その途端、足下から丸い小石が飛び出してきた。またごうとすると大きく膨らみ、マアトの足をねっとりと包んだ。
「あー! それは転び餅の罠!」
プレートニフが叫んだ時には、すでに二人そろってつまづき、階段を転がり落ちていた。踊り場の突き当たりにぶつかり、さらに下へ、次のフロアを通り過ぎても止まらなかった。
薄暗い、じめっとした部屋に二人は吐き出され、折り重なって倒れた。しばらく動けずにいたが、プレートニフが先に起き上がり、ここは、と言った。
「わかめスープみたいなでっかい鍋がありますけど……黒魔術のフロアですか?」
「違うわ! ここが育毛のフロアよ」
ちょうど目的のフロアに着いたのだ。マアトは急いで立ち、明かりをつけた。
大きな鍋で煮込んでいるのは、育毛剤の材料となる柿のヘタだ。さらに、ヘタの繊維で作ったウィッグもある。天井から吊るされているウィッグのサンプルを見て、プレートニフは目を輝かせた。
「私、ちょんまげがいいです!」
マアトは頭を抱えた。なぜ、こんな客ばかりなのだろう。そしてなぜ、ちょんまげのウィッグなどを作ってしまったのだろう。
「ずっとちょんまげにしてみたくて、髪を伸ばしてたんです。でも、剃り上げる勇気がなくて」
「なくて結構ですよ」
「ちょんまげって戦士っぽいじゃないですか。そういうのに憧れるんです」
ハゲが嫌でちょんまげは良いなんて、そんなおかしな話はない。ほんの少し、ツクシのような髪の団子がついているだけで、所詮ハゲに毛が生えたようなものだ。
「ハゲに毛が生えたら全然違うじゃないですか」
「う……確かに」
「ちょんまげは素晴らしいんです。伝統文化ですよ!」
そこまで言うなら仕方ない。一度かぶってみれば満足するかもしれないと思い、マアトはちょんまげのウィッグを取ってあげることにした。
布団叩きを使って取ろうとしたが、もう少しのところで届かない。吊るす時は適当に投げて天井のフックに引っ掛けていたけれど、取る時のことを考えていなかった。
「プレートニフさん、剣を貸してください」
「いいですけど、短いですよ」
剣を持ってジャンプしたが、布団叩きと似たようなものだった。剣を持ったプレートニフをマアトが肩車してみてもだめだ。
「ちょっとそのままで……。あたしがこの鍋に乗りますから」
「だ、大丈夫ですか」
左右にふらつきながら、マアトは鍋のふちによじ登った。プレートニフをかついでいるので、背を真っすぐにすることができない。
「あ、あ、もう少しです……!」
「よし……っ!」
剣の先にウィッグが引っかかる。ぐっと両足に力を入れた途端、足下に不吉な感覚がよぎった。次の瞬間、鍋は傾いて倒れ、マアトも倒れ、プレートニフが投げ出された。プレートニフは鍋の下敷きになり、さらにウィッグがどさどさと落ちてきた。
狭いフロアはあっという間に水浸しになり、湯気が立ちこめた。マアトはびしょ濡れのエプロンをしぼり、急いで鍋をどけた。
「プレートニフさん? プレートニフさん!」
プレートニフの姿はない。ドレッドヘア、金色のカーリー、どっしりと長い黒髪、ウィッグを一つずつ持ち上げて探したが、とうとう見つからなかった。プレートニフと、ちょんまげのウィッグだけが消えてしまった。
「まさか、異世界転生……?」
マアトの頭に、紫水晶のようなあの大地が浮かんだ。青い目の剣士と、ちょんまげの美女が並んで旅をしている。その世界ではそれが普通の光景で、住人たちは羨ましそうに眺めているのだ。
「あのスコープを残していってくれれば良かったのに。残念だわ」
マアトは落ちたウィッグをまた投げ上げて天井に吊るし、濡れた床をモップで拭いた。このフロアを有効利用できる日が、果たして来るのだろうか。