8・髪の毛オバケをやっつけろ!
美容室のダンジョンにオバケが出るという噂が広まった。そして案の定、客足が遠のいてしまった。
いい迷惑だわ、とマアトは思う。誰が言い出したのか知らないが、捕まえて坊主頭にしてやりたい。
「まあ、こんな時だからこそできることがあるわね」
いつもはタイガと水野に任せている床清掃を、一人でじっくりやってみた。鏡や洗面台もぴかぴかに磨き、入り口をいつもより華やかに飾り付ける。日が暮れる頃、ようやく客がやってきた。深緑のコートを着て、分厚いマフラーで口元を覆った男だ。
「こんにちは。ここにオバケが出ると聞いたのですが」
マアトはうんざりする。どうせならテレビ局が取材に来てくれればいいのに、と思う。
「変な噂が流れてるみたいだけど、きっと誰かのイタズラよ」
「そう! オバケのイタズラです」
男はマフラーを取った。マアトより少し年上ぐらいだろうか。やや長い黒髪に、穏やかな顔立ちをしている。
「僕はゴーストハンターのタフといいます。噂好きのオバケなら、大して強くもないでしょう。すぐにやっつけて見せます」
「ちょ、ちょっと待って。うちにはオバケなんていませんってば」
タフは慣れた様子で階段を下りていった。追いかけると、地下五階のカラーリングセットの横で立ち止まり、いたいた、と言う。
「ほら、この子ですよ」
タフが指さしたのは、壁のシミだ。歯磨き粉をにゅっと出したような形でぼんやりと白く、オバケに見えなくもない。
「恐怖心というのは、意外なところから生まれます。台所に現れる黒い虫が怖いとか、三か月放置したぬか床が怖いとか思ったことはないですか」
「それは誰でも怖いわよ」
タフは壁のシミを叩いたりなぞったりし、丹念に調べた。そしてため息をつき、これは難しい、と言った。
「完全に壁と一体化してますね」
「だってシミだもの」
「いったん何かに憑依させないと倒せません。ここには君と僕しかいませんから……」
マアトは後ずさった。壁のシミとはいえ、乗り移られるなんて嫌に決まっている。生気を吸い取られて、それこそ放置されたぬか漬けのようになってしまう。
タフは笑い、大丈夫、と言った。
「僕が憑代になりますから、マアトさんが倒してください」
「あなたを……倒す?」
「髪に乗り移ってもらうのがいいでしょう。綺麗に切ることができればマアトさんの勝ちです」
言うが早いか、タフは壁に頭を押し付けた。壁のシミがあるところにつむじをぴったり当て、小声で何か唱えている。
もういいです、とマアトが言おうとした時、壁のシミがむずむずと震え出した。発泡スチロールのきしむような音とともに、壁の表面から盛り上がったかと思うと、タフのつむじに流れ込んだ。
『誰だ……』
タフの髪が広がり、イソギンチャクのように逆立った。黒い色がくすみ、濁った灰色になる。
『私を呼ぶのは誰だ!』
つむじから低い声が響き、空気を震わせる。生暖かい吐息が顔にかかり、マアトは逃げ出したくなった。
「さあ、マアトさん、切ってください!」
髪の下からタフが叫んだ。マアトはハサミを取り出したが、近づけようとすると手が止まってしまう。磁石の同じ極同士をくっつけた時のようだ。
「マアトさん、早……く……」
タフは懇願するようにマアトを見つめ、突然表情を失った。光のない目が、遥か遠くを見ている。
『お前が私を呼んだのか。身の程知らずめ』
タフの口から髪の毛の声が漏れ出てくる。完全に乗っ取られてしまったのだ。
「あ、あたしは腕利きの美容師よ。山口閣下のお墨付きだもの」
『馬鹿げている。髪なんて伸び放題かハゲ、二択で十分だ』
恐ろしげな声より、内容に腹が立った。伸び放題もスキンヘッドもそれなりに手入れが必要なのに、何もわかっていない。
マアトはハサミを振り上げた。今度はしっかりと力が入った。
「覚悟なさい! これ以上あたしの店に手出しはさせないわ!」
刃を開き、タフの髪に切りつけた。灰色の塊が飛び散り、どさりと落ちる。
『まだ、まだ……!』
残った髪が束になり、マアトの腕に絡みつく。反対側の手ですかさず切るが、今度は後ろの毛が伸びてきて、首に巻きついた。
「ぐ……苦しい」
『認めろ。美容室は高いし面倒だ。切ってもすぐに伸びて不格好になる。お前のようにセンスの欠片もない奴に切らせたらなおさらだ』
「違うわ!」
マアトは懸命に手を動かし、巻きついた髪にハサミを差し入れた。切り落とすと、肺にどっと空気が流れ込む。
「髪型を変えれば気分も変わる。そういうちょっとした変化で、仕事も恋愛もうまくいくようになるのよ。ついでにあたしのセンスは、人間から動物にまで幅広く支持されてます!」
タフの前髪、サイド、後ろをひと思いに切っていき、長さがそろわなくなったのでもう一周する。それでも合わないのでもう一周。最後は襟足からつむじへ、つむじからもみ上げへ、ジグザグと駆け回るようにハサミを動かした。
『ああ、やめろ、やめろ……!』
タフの口から白い煙が漏れ、視界を覆ったかと思うと、次の瞬間には消えていた。タフは床に崩れ落ち、動かなくなった。切り落とした髪は、元の黒い色に戻っている。ものすごい量だ。
「タフさん。ちょっと、大丈夫?」
マアトが手を差し伸べようとすると、タフはがばりと起き上がった。落ちた髪の山を見て、自分の頭をさわり、ああっ、と声を上げる。
「だめです! 逃げられました」
「えっ?」
「言ったでしょう。綺麗に切らないとだめなんです!」
マアトはむっとして、タフを鏡の前に引っ張っていった。多少切りすぎてしまったかもしれないが、けなされるほどではない。と、思いたい。
「どこが不満なの?」
「オバケに聞いてください」
「オバケはどこにいるの?」
「さあ。どこかでまた、別の噂を流しているんでしょう」
マアトは少し考え、それならそれでいいか、と思った。どうせ噂なんて、あちこちに立っては忘れられていくものだ。
「さて、また探しに行かなくちゃね」
「どうしてオバケなんか探すの?」
タフは優しい笑みを浮かべた。
「君が髪を切るのと、きっと同じ理由ですよ」
憑き物が落ちたような笑顔だった。実際に、乗り移っていたオバケが離れたばかりなのだ。それなのにまた乗り移られに行くなんて、余程の物好きなのだろう。
「タフさん、髪、やっぱり切りすぎたかも……」
「大丈夫ですよ。次は歯か爪に乗り移ってもらいますから」
飄々とした足取りで、タフは帰っていった。マフラーを巻いていても、虎刈りの後頭部が寒々しい。次に来た時は、柿のヘタで作った養毛剤をサービスしようと思った。