6・柿のはなうた
美容室のダンジョンに、柿が落ちてきた。入り口から階段を転がり落ち、地下二階まで弾んできた。
「あら、おいしそうな柿」
仕事の前の腹ごしらえにちょうどいい。マアトはかぶりつこうとした。
「待ってください!」
柿が叫び、手のひらから跳ね上がる。そして勢いよく床に落ちた。
「いたたたたた……また鼻を打ってしまった」
「ごめんなさい。でもどこが鼻なの?」
柿はくるりと回り、マアトに顔を向けた。どう見てもマジックで適当に描いただけの顔だ。鼻も確かにあるが、点のようなものだった。
「収穫前に木から落ちて、その時も鼻を打ったんです。おかげで出荷できなくなってしまって」
「ふうん。何ていう種類の柿なの?」
「わかりません。鼻を打ったから、はなうたと呼ばれていました」
果樹園の植物たちが、あだ名で呼び合っているとは知らなかった。マアトは感心し、はなうたと名乗る柿をもう一度手に取った。
「おいしいの?」
「わかりません。渋柿だったか甘柿だったか、鼻を打った時に忘れてしまったので」
マアトは柿をあらゆる角度から眺めた。そんなに鼻を打ったなら傷んでいるかもしれない。食べるのはやめておこうと思った。
「それで、柿さん」
「はなうたです」
「はなうたさん、美容室に何のご用?」
はなうたは点のような目と鼻をぴくりと動かした。
「もちろん、髪を切ってほしいんです」
「髪?」
「ああ、あなた方はヘタと呼んでいる部分です。ちょっと伸びすぎてしまったので」
言われてみると確かに、普通の柿よりもヘタの部分が長い。先がカールした髪の毛のように見えて、マアトは笑った。
「いいわよ、切ってあげる」
マアトは小さめのハサミを取り出し、はなうたのヘタを四ヶ所切った。真っすぐではつまらないので、ギザギザになるように切ってみた。
「どう? 可愛いでしょ」
「はい! 今ならさるかに合戦の主人公にもなれそうです!」
さるかに合戦の主人公はカニではないだろうか。何はともあれ、こんなに楽な仕事はない。マアトはハサミを磨いてエプロンにしまった。
ところが次の日、はなうたのヘタは倍以上の長さになっていた。オレンジ色の実を覆い尽くし、わかめのように垂れ下がっている。
「今朝起きたらこうなっていて……」
「大丈夫、また切ってあげるわ」
同じように切ったが、次の日になるとやはり伸びていた。今度は床の上まで波打ち、絡み合っている。触ろうとすると、先端が蛇のように伸び上がった。
「これは下手にさわれないわね」
「ヘタだけに、ですね」
友達のタイガを呼ぶと、すぐに来てくれた。ポケットサイズの植物図鑑を開き、柿のページを探し当てる。タイガは何でも本で調べるのが好きなのだ。
「ヘタの長い柿は南国産で、平安時代末期から明治時代のどこかで日本に伝わったような伝わらないような、だってさ」
「適当な図鑑ね。ちょっと見せて」
タイガから図鑑を受け取ろうとすると、はなうたのヘタが伸びてきて体当たりをした。図鑑は叩き落とされ、マアトの手には真っ赤な跡がついてしまった。
「すみません、私のヘタは照れ屋なので、調べられるのが恥ずかしいみたいです」
はなうたはすまなそうに言った。ヘタはまだ興奮して上下に揺れている。すごいな、とタイガが顔を近づける。
「切ったらもったいないよ、これ」
「いやー、鬱陶しいので切ってください。鼻に何度もぶつかるんですよ」
「じゃあ俺がやってみるよ」
タイガは工作用のハサミを出し、さくさくとヘタを切った。マアトの時よりも短く、形がわからないほどにまで切ってしまった。
はなうたはくるくると回り、点のような目をさらに細めて笑った。
「これは気持ちいい。ミカンになったような気分です」
しかし次の日、マアトは美容室のダンジョンに踏み入ることすらできなかった。はなうたのヘタが網のように張り巡らされ、全てのフロアと階段を覆ってしまったのだ。
「もう! あたしの店なのに!」
マアトは枝切りバサミでヘタをなぎ払い、階段を下りていった。ヘタの途中には小さな柿がいくつもなり、よい香りが漂っていた。きっと甘柿だ。
ようやくはなうたの姿を見つけた。ヘタはまだ伸び続けていて、フロアを埋め尽くし、下の階まで続いている。全部片付けていたら、きっと日が暮れてしまう。
「すみません。私のヘタ、切れば切るほど元気になるようで」
「元気すぎるわ。何とかならないの?」
「それが……ちょっと複雑なんです」
はなうたはヘタに引っ張られているせいか、間延びした声で言った。
「実は、鼻がスイッチになっているんです。最初に打った時、成長が止まりました。ここへ来た時にまた打って、それで今度は急速に伸び出してしまったというわけです」
「なんだ、すごく簡単じゃない」
マアトはほっとした。もう一度鼻のスイッチを押して、成長を止めればいいのだ。確かに柿が自分で押すのは難しいが、マアトが手伝えばすぐにできる。
「それが……三度目にスイッチを押すと、私は物言わぬ柿になるんです。こうしてお話することも、髪を切ってもらうことも、もう……」
マアトは手を止めた。ここ数日の間に、はなうたが店にいるのが当たり前になっていた。伸びすぎたヘタも、なんだかダンジョンの一部のような気がしていた。
いいんですよ、とはなうたは言った。
「ただの柿になったら、私を食べてくれますか?」
はなうたの顔が、マアトを見上げている。心から笑っているように見えた。
マアトはうなずき、わかったわ、と言った。
次の日、はなうたのヘタは良い具合に、フロアの半分ほどを埋め尽くしていた。
マアトはそれを切り分け、大鍋の中に放り込む。水をいっぱいに入れ、弱火で煮込む。熟成させたら瓶に詰めて出来上がりだ。
「あのー、私のヘタで養毛剤なんて、本当にできるんでしょうか」
「できるに決まってるわ。だってすごい発毛力じゃない」
ヘタから採れた小さな柿は、かりかりとしてお菓子のように甘かった。これが毎日食べられるなら、ヘタの手入れも苦にならない。
「あなたを食べちゃったらそれで終わりだけど、こうしておけばいくらでも食べられるものね」
「ずっとは無理ですよ。繁忙期には果樹園に帰らないと」
「はいはい、仕事熱心な柿ね」
マアトは採れたての柿を口に放り込み、エプロンの紐を後ろで結んだ。今日の客が薄毛なら、さっそく養毛剤を試してみようと思った。