4・花と蝶
ロージアという女性が、マアトの美容室にやってきた。
顔を見た途端、マアトはあっと声を上げた。町内手芸展に出品していた人だ。マアトも同じところに参加して、隣のスペースだったのだ。和柄のティッシュケースやブックカバーを並べたロージアのコーナーには、人がたくさん集まっていたのを覚えている。
「マアトさん、お久しぶりね!」
ロージアは力のこもった声と表情で言った。
「突然だけど、私と勝負してほしいの!」
「しょ、勝負?」
美しい着物風のドレスを着たロージアが、まるで勇者のように目を光らせている。マアトはたじろいだ。
「このダンジョンが欲しいの。勝ったら私に譲ってくださらない?」
「ええっ!」
ロージアは振袖のような服のたもとに手を入れた。機関銃でも取り出すのかと思えば、出てきたのはマアトが使っているのと同じような針箱だった。
「裁縫対決をしましょう。お題はぬいぐるみでどうかしら」
「ちょっと待って。その勝負、あたしには何のメリットもないじゃない!」
マアトは息巻いて言った。ロージアは少し考え、それもそうね、と言った。
「じゃあ、あなたが勝ったら私の髪を好きにしていいわ。練習台、実験台、何でもオッケーよ」
「うーん……」
マアトが考えていると、ロージアはもう布を広げ、切り始めてしまった。ずるい、とマアトは叫び、急いで自分の裁縫道具を出してきた。布は確か、カーテンを縫った時の残りがあったはずだ。洗面台の後ろの棚に手を伸ばすと、シャンプーの詰め替えボトルがなだれ落ちてきて、マアトは下敷きになった。
「うう……最初からつまづくとは」
「何してるの?」
顔を上げると、濃い紫のローブを着た男が洗面台のふちに腰かけていた。小さな水滴を星のように漂わせ、笑みを浮かべている。
「水野さん! どうしてここに? 掃除でもしてくれるの?」
魔法使いのように見えるが、彼は清掃人だ。タイガと同じ掃除ギルドで働いている。
水野はするりと洗面台から下りた。
「マアトの家が見てみたくなって。でもずいぶん狭いね」
「家じゃないわよ……ちょっと、聞いてる?」
水野は詰め替えボトルをひょいひょいと棚に投げて戻し、散髪フロアへ行った。そこではロージアが床に座り、白い布を蝶の形に切り終えていた。
ロージアは顔を上げ、こんにちは、と言った。
「マアトさんのお友達?」
「僕は水の精霊。マアトの家って狭いよね。広げてあげるよ」
水野は壁に向かって走っていき、体当たりをした。ロージアは悲鳴を上げる。壁が粘土のように柔らかくなり、鏡が伸びて広がる。水野は壁に半分めりこんだまま、ぐいぐい押して歪ませていく。
「マアトさん! ちょっと、あなたのお友達が!」
「友達じゃないわ。勝手に入ってきたのよ」
とはいえ、今回だけはほんの少し友情を感じた。これはいい時間稼ぎになる。
ロージアが逃げ惑っている間に、マアトは反対側の壁際に陣取り、さっさと布を切って縫い始めた。
「蝶のぬいぐるみなら、あたしも作れるわ」
黒地に青や黄色の花模様のついた生地は、アゲハ蝶にぴったりだ。コウモリのような羽に、めいっぱい綿をつめていく。花模様だけでは寂しいので、ラメ飾りをいくつも散りばめ、縫い付ける。そして大きなプラスチックの目玉も付ければ出来上がりだ。
「きゃー!」
はっと我に返り、声のしたほうを見る。ロージアが壁に埋まりかけていた。溶けた壁の一部に髪と袖を挟まれ、身動きができなくなっている。
「ど、どうしたの!」
「お店が……このままじゃ壊れちゃうと思って、止めようとしたの。そしたら壁が噛みついてきて」
マアトは自分が恥ずかしくなった。何も考えず、ぬいぐるみ作りに没頭していたのだ。
「ロージアさん、じっとしてて」
「きゃー! 痛い痛い」
腕をつかんで引き抜こうとすると、壁はさらに強くロージアをくわえ込む。ねばねばした土が、歯のように食い込んでいるのだ。
「貸して。僕がやる」
水野が前に進み出た。ロージアの髪を握り、布用の裁ちばさみを取り出す。ロージアは震え上がった。
「あ、あの……お手やわらかに」
「大丈夫大丈夫」
マアトは止めようとしたが、水野はロージアの髪をざくりとひと思いに切ってしまった。生け花の茎を切るような、淡々とした手つきだった。
「水野さん! 女性の髪はモノじゃないのよ」
「モノだよ。死滅した細胞でできてるんだから」
そしてあっと言う間に、ロージアの両袖も切ってしまった。ロージアは壁から解放され、その場にぐったりと倒れそうになる。
そこへ水野が椅子を滑り込ませる。
「じゃ、せっかく広くなったし、始めようか」
「えっ……何を」
水野は櫛と裁ちばさみを交差させ、投げ上げた。自分の体にまとわりついた水滴を集め、ひと吹きする。途端にロージアの髪は光のシャワーに包まれた。櫛と裁ちばさみが落ちてきて、キンと音を立ててぶつかると、一瞬で毛先がそろえられていた。
「よーし、いくよ」
水野はロージアの椅子を勢いよく押した。椅子は回転しながらフロアを走り回り、風を起こす。その風の中をもう一度通り抜けると、ロージアの髪は完璧に乾き、綺麗な外はねボブになっていた。
「どう? 気に入った?」
「え……何だか丸くて針がたくさん刺さって……これが私?」
「それは針山だよ」
水野はロージアの椅子を回し、鏡のほうを向かせた。ロージアは何度もまばたきをし、頭を振った。まだ目が回っているようだ。
「すごい……素敵」
「ドライヤーはスプレッドイーグルをしながら、ブラシは斜め四十五度で、ひたすら無慈悲に。できる?」
「やってみるわ」
ロージアが立ち上がった。その隙に水野はさっと袖を繕い、ロージアの作りかけの白い蝶を縫い付けた。優雅な振り袖が、ポップで可愛らしい七分袖になった。
マアトは悔しくなり、急いで反対側の袖を蛍光ピンクの糸で縫い、自分の作ったアゲハのぬいぐるみをくくりつけた。
ロージアは笑い、もういいわ、と言った。
「これ以上飾られたら、私が展示会場になっちゃう」
「展示会場?」
ロージアはうなずく。
「私、このダンジョンで手芸展を開きたかったの。マアトさんや水野さんの作品を、ずっと飾っておけるように」
なるほど、とマアトは思う。町内の展示会でロージアを見た時、とても活き活きとしていた。他の人の作品も熱心に見て回り、声をかけたりしていたのだ。
マアトはフロアを見渡した。いつの間にか、元の倍ほどの広さになっている。壁があちこち崩れているが、これだけ広ければ展示会場にもできそうだ。
「じゃあ、このフロアを一緒に使わない? 美容室のお客さんも増えて、一石二鳥!」
ロージアはぱっと花が咲いたように笑った。
「ありがとう! じゃあ早速、作品を並べましょう」
「そうね、どんなのがいいかしら」
その時、ポンと音がした。ロージアの髪に、本当に花が咲いている。つむじに紅薔薇、こめかみにスミレ、毛先にはかすみ草の花が咲き乱れる。あっという間に、頭が花で覆われてしまった。
「あら? なんだか体が軽いわ」
両袖の蝶が羽ばたき、銀の粉が舞い散る。頭の花からも虹色の粉がこぼれ落ち、壁に向かって吹きつけた。
さっきまでロージアに噛み付いていた壁の口が、ちょうどまた開いたところだった。そこへどっさりと粉が流れ込む。
ぶほっ、とくしゃみのような咳払いのような音が響いた。壁が粉を吐き出し、色とりどりの竜巻を起こす。ロージアは体勢を崩し、色の中心に吸い込まれていく。
「待って!」
きらめく風に乗り、ロージアは舞い上がっていった。一瞬で階段を吹き抜け、踊り場に鮮やかな色模様を残す。
「ロージアさん!」
マアトは走って追いかけた。息を切らして地上に出ると、白い空の彼方へ飛んでいくロージアの姿が見えた。いくつもの色に覆われ、はっきりととらえることはできない。見上げるマアトの頬に、花びらが一枚落ちてきた。赤いしずくのような、薔薇の花びらだ。
「綺麗だね」
気がつくと、水野が横にいた。マアトはじろりと睨み、あなたの仕業ね、と言った。
「ロージアさんが怪我でもしたらどうするのよ」
「僕は何もしてないよ」
「そんなはずないわ。あなたじゃなくて一体誰が……」
マアトははっとした。ロージアの裁縫の腕、そして素早い身のこなしを思い出す。
ひょっとして彼女は。
「精霊かもしれないね」
水野がさらりと言った。
「蝶の精霊……いや、花の精霊かな」
「仲間なのにわからないの?」
「仲間じゃないよ。精霊はそれぞれ精霊だから。ナスの精霊も、はんぺんの精霊も、たわしの精霊も、それぞれ元気にやってればいいんだよ」
もう聞かないわ、とマアトは言い、手の中の花びらを眺めた。
花で布を染め、本物の蝶を散りばめて美しい着物を縫い上げる、ロージアの姿が見えるようだった。