31・マアトの美容室、新装開店!
マアトは手芸屋「ダンジョン・ステッチ」で忙しく接客をしていた。地下水から取れたばかりの布を求めて、次から次へと客がやってくる。
ぬいぐるみ用のキットもあっという間に売れてしまい、急いで追加した。このダンジョンは深層で地下水のほこらと繋がっており、そこから布を仕入れている。
ここ数日で水質に変化が出たらしく、羽のような絹や七色に光るレーヨン、喋るデニム生地、自動で床を拭いてくれる雑巾などが取れるようになった。
「マアトさん、相変わらず働き者だね」
男性店員がやってきて、新しい布をワゴンにどっさり入れた。痩せた体と大きな目はまるでモンスターのようだが、物腰は明るく穏やかだ。
「あなたもね。去年まで無職だったとは思えない」
「マアトさんを見てると働かないわけにいかないよ。それに、布って面白いからね」
彼が言うには、美容室のダンジョンが水質の変化に大きく関わっているらしい。ダンジョンが切り落とされたり釣り上げられたりしたことで、地下水の流れが変わったというのだ。
「それっていいことなの?」
「変化があるのはいいことだよ。ほら、布が喜んでる」
「ふうん。よくわからないけどそうなのかも」
マアトは笑い、一枚一枚丁寧に畳んでいった。
「早く美容室に戻りたいだろう」
「そうね。でもこっちも好きだし、体が二つあればいいのに」
美容室のダンジョンは、先日の騒動で内部がめちゃくちゃになってしまった。洗面台が床に転がり、椅子の足は折れ、鏡が砕けて散らばり、ひびの入った壁にはモンスターの死骸がめり込んでいるという有様だった。
マアトが腕まくりをし、直そうとしているところへ掃除ギルドのタイガがやってきた。
「修繕なら俺に任せてよ」
タイガが持っているものといったら虫めがねやポケット図鑑、折りたたみモップやラバーカップで、とうてい修繕ができるとは思えなかった。断ろうとすると、タイガはリュックの中から茶色いキャスケット帽とブタのぬいぐるみを取り出した。
「これ、両方ともマアトが直してくれたんだよ。一日がかりでさ」
「そうよっ! まさか私を忘れたなんて言わないでしょうね!」
ブタは白いフリルの襟をはためかせ、マアトの肩に飛び乗った。
「ブタさん……! もちろんよ、忘れるわけないじゃない」
不思議な力を秘めた帽子も、ひとりでに動くぬいぐるみのブタも、壊れかけていたのをマアトが繕ったのだ。あまり出来がいいとはいえないが、タイガはずっと大切にしてくれている。
「今度は俺がマアトのためにダンジョンを直すよ」
「でも、帽子やぬいぐるみを直すのとはわけが違うわ」
「同じだよ。マアトの裁縫より綺麗にできると思うし」
どういう意味よ、と突っかかる前に、タイガはブタを連れてダンジョンへ入っていってしまった。ブタはタイガの頭にしがみつき、安心して、と手を振った。
「私がしっかり監視しておくから。マアトは他にもやることがあるでしょう?」
そんな折に、手芸屋が人手不足だと風の噂で聞いた。マアトは売り場に駆け込み、息をするように仕事を始めたのだった。
「やっぱり心配だわ。美容室に寄って帰ろう」
美容室への道のりは、すっかり体に馴染んでしまった。自家製パンのダンジョンやリサイクルショップのダンジョンを通り過ぎ、あとは目立った建物もない。静かな通りに、美容室の看板はいつもと変わらずあった。
ほっと息をついたのも束の間、マアトは目を疑った。入り口付近をうろうろしている茶色い小さな生き物。間違いない。あれは空気モグラだ。その名の通り、空気中に見えない穴をいくつも作る厄介者だ。
「何してるの!」
マアトが近づくと、空気モグラは慌てふためいて逃げようとした。手を伸ばして捕まえようとすると、見えない穴に足をとられて動けなくなった。マアトはもがき、モグラを睨みつける。
「また邪魔しに来たのね!」
「ち、違います。私はちょっとお手伝いを」
その時、地下から声がした。
「おーい、終わったよ!」
タイガの声だ。空気モグラは解放されたとばかりに走り出し、道の向こうに消えた。マアトの足をとらえていた穴も消え、自由に動けるようになった。
「マアト、そこにいるの? 入っておいでよ」
「飛び込むんだよ。プールみたいに」
水野の声も聞こえた。嫌な予感がして、マアトは入り口に足を踏み入れた。その途端、階段があるはずの場所が大きな穴になっていることに気づく。
「きゃっ!」
がくんと体が落ちる。柔らかいベールに包まれたような感触の後、ウォータースライダーを滑り降りるように穴を抜け、フロアに降り立った。美容室のダンジョン地下一階、シャンプーエリアだ。
「お帰り、マアト!」
「お帰り」
エプロン姿のタイガと水野に迎えられ、マアトはまばたきを繰り返した。
「ここは……」
確かに見覚えのあるフロアだが、床も天井も新築のようにぴかぴかだ。壁にはひび一つなく、夏の花のような甘い香りが漂っている。
「工事が終わるまで、空気モグラに入り口を塞いでてもらったんだ」
「工事?」
「あっ、あそこにまだ破片が。水野さーん」
タイガがフロアの隅を指差すと、水野はそこへ向かって走っていった。ふわりとローブをはためかせ、壁際で巨大な竜巻に変身する。壁は一気に崩れ、土煙と氷の粒が巻き上がった。
「ちょ、ちょっと!」
「大丈夫よ、見張ってるから」
気がつくとマアトの肩にブタが座っていた。短い足を組み、愉快そうにタイガたちを眺めている。
やがて壁は元通りになり、落ちていた破片も吸収した。タイガがモップで表面を平らにしていく。隅々まで終わる頃、天井で渦巻いていた冷気が水野の姿になって降りてくる。
「相変わらず細かいね、タイガは」
「水野さんが適当すぎるんだよ」
マアトは二人の顔を見て、それから肩の上のブタを見た。
「まさか、こうやって全部作り直したの?」
ふん、とブタが得意そうに鼻を鳴らす。お前は何もしてないだろ、とタイガが言った。
マアトはフロアを見て回った。生まれたてのようなのに、暖かくて懐かしい。シャンプー台も椅子も新品に見えるけれど、全て元からあった物だ。
次の散髪フロアも同じだ。ここからは階段も元通りになっている。整髪剤を並べた棚も、大きな鏡も、今まで使い込んできたものだ。それでいて、シミや傷が綺麗に消えている。
マアトは目を閉じた。ゆっくり息を吸うと、ダンジョンと一緒に自分も生まれ変わったような気がした。
「最初の階段だけは元に戻せなかったんだ。気に入らなかったら水野さんを踏んでいいよ」
「何で僕?」
「粉々に砕いてばらまいたのは誰だよ、よりによって入り口を」
マアトは笑った。体の内側から笑いがあふれて止まらない。
ダンジョンが喜んでいる。
地下水がダンジョンを育て、町を動かし、全てに染み渡っている。全てつながっている。
そう、自分も。
「ありがとう」
マアトは言った。
「あたし、このお店のお客第一号になりたい」
えっ、とタイガが振り向いた。水野は階段の代わりに寝そべる準備をしていたが、戻ってきた。
「だってマアトは」
「あたしはずっと美容師だった。これからもそうよ。だから新装開店一日目はお客になりたいの」
タイガと水野は顔を見合わせ、うなずき合った。それじゃあ、と言いかけたところに、ブタがマアトの肩から飛び降りた。
「よろしい! 私が切ってあげる」
「おい、何言ってんだ」
ハサミを握っては落とすブタを、タイガが押さえつけようとする。水野は二人の様子を横目で見てから、柔らかな笑みをマアトに向けた。
「もちろん僕だよね?」
「え?」
「僕を指名するでしょ? 一巻きでドラゴンを倒せるパーマも、目潰し効果のあるカラーリングも、他の人にはできないもんね」
そんなのできないほうがいい、とタイガとブタは声をそろえて言った。
「マアト、俺もやりたいな。動物やモンスターしか切ったことないし」
「そんなの心配だよ。僕ならナイアガラの滝も切れるよ」
「私は納豆の糸も切れるわよ」
マアトは三人をかわるがわる見た。水野のローブはよく見るとこの日のために新調したらしく、澄み切った水滴がいくつも光っている。タイガは自前のカミソリをぴかぴかに磨いて胸ポケットに挿している。ブタは白目がちな目でただじっとマアトを見ている。
「わかったわ。みんなで切って」
マアトはシャンプー台の前に座り、バンダナを取った。いつも束ねている茶色い髪は、下ろすと肩より少し長い。ずっと切っていなかったことに今さら気づいた。
「ほら、まずはシャンプーから。テキパキやってね」
最初に飛んできたのはタイガだった。シャワーの蛇口をひねり、丁寧に湯加減を見始める。
そこへ水野が割り込み、自分の帽子を脱いでひっくり返した。泡だらけの冷水が飛び出し、マアトの頭にざんぶりとかかる。
ブタが棒のついたスポンジを握り、マアトをごしごしこすっていく。額からつむじへ、つむじから後頭部へ、首筋を辿って顔までまんべんなくこする。
「ショートにする」
「いや、ドレッドにする」
「何言ってるの、芝生頭よ」
押しのけ合いながら髪を洗う三人を見上げ、マアトは短く息をついた。どんな髪型にされても、ロージアとはなうたの作ったウィッグがたくさんある。山口閣下のブリーフだって、いざとなればかつら代わりになる。
「体が二つ、いや三つあれば良かったんだけどね」
マアトの頭の上に、泡がうず高く積もっていく。シャワーやボトルを奪い合う三人が泡越しに見える。
やっぱりダンジョンが喜んでいる、とマアトは思った。
くすぐったいほどに暖かいのは、自分がこの町で生きているからだ。ダンジョンだらけの町の片隅で、美容室とともに生きているからだ。
泡が弾けると、甘い香りが広がる。夏の花の香り。タイガと水野とブタ、そして今まで来てくれた客たちが咲かせたダンジョンの香りだ。マアトは目を閉じ、生まれては消えていく泡に身を委ねた。
ありがとう、ともう一度心の中でつぶやいた。それは地下水に乗り、光の速さで伝わっていく、魔法の言葉のようだった。
ご愛読ありがとうございました!




