30・ダンジョン一本釣り
マアトの留守中に、水野が美容室のダンジョンを地下へ切り落としてしまった。残骸となった入り口から這い上ってきたのは、鉤爪のある手足を生やした魚だった。魚は「髪を切ってくれ」と繰り返すが……。
鉤爪のある魚は、ダンジョンの地下百八階に住んでいたという。
「そんな奥深くまであったの?」
「知らなかったのか。五十階から下はモンスターの巣窟だ。縄張り争いをしたり炎を吐き合ったり、冒険者を襲う計画を立てたり、週末の天気を予想したりして平和に過ごしている」
「あんまり平和とは言えないわね」
魚は物音に敏感なので、地上近くに美容室ができたことにも気づいていた。せっかくなので髪を切ってもらおうと、百八階分の階段を上ってきたというわけだ。
「髪がないのに?」
水野は躊躇なく言った。マアトは心の中で蹴りを入れつつ、魚に先を続けさせた。
「最初は溢れるほどあったんだ。背びれを全部覆い尽くして、後ろにそよぐほどの長さだった。魚にしては少し長すぎるだろう?」
「無用の長物だね」
今度は本当に蹴りを入れたので、水野は前のめりに倒れた。マアトは魚に向き直り、ごめんなさい、と言った。
「心配しなくても、俺はお前を襲ったりしない。ただ厄介な奴らもいてな。地下七十二階の棘コンブと、五十八階のちくわウサギは恐ろしかった。命からがら通り過ぎてきたが、ストレスで髪が全部抜けてしまった」
「それは気の毒ね。他にも誰か住んでるの?」
魚は少し考え、そうだ、と目を見開いた。
「ほんのさっき、おかしな奴とすれ違った。もう少しで地上に着くという時に、大きな箱のようなモンスターが真っ逆さまに落ちてきてな。危うく押しつぶされるところだったぞ」
「大きいって、どれくらい?」
「俺もお前もそこの兄ちゃんも、まる飲みにできるくらいだ」
マアトは身の毛がよだつのを感じた。地上のすぐそばということは、美容室があったあたりだ。そんなに大きなモンスターがいて、どうして今まで気づかなかったのだろう。
そこまで考え、はっとした。ようやく起き上がってきた水野と顔を見合わせる。
「ねえ、それって……」
「ダンジョン!」
水野が切り落とした美容室のフロアだ。間違いない。
「今なら間に合うよ」
水野が釣竿を出してきたので、マアトは魚の胴体に糸を括り付けた。魚は驚いて飛び上がり、何をするんだ、と言った。
「お願い、大人しくしてて」
「何のつもりだ、正気か?」
「ダンジョンを釣り上げなくちゃ。あたしの大事な店なの」
マアトは焦った。こうしている間にも、地下を移動して逃げてしまうかもしれないのだ。
水野は手のひらから小さな水流を出し、魚を地面の割れ目に押し戻した。
「待て、待て! 俺を餌にするつもりか」
「ダンジョンを見つけたら鉤爪で引っ掛けて。そうしたら釣り上げるから」
マアトと水野は二人掛かりで釣竿を持った。これがなかなか骨の折れる作業だった。魚が沈めば沈むほど、自分たちまで割れ目に落ちそうになるのだ。
「水野さん、この釣竿は丈夫よね?」
「丈夫だよ。星を釣ったこともあるし」
「本当?」
「うん。折れたから直した」
ぐいっと手応えを感じ、急いで竿を引き上げた。魚の鉤爪には、確かに大きな獲物がかかっていた。マアトたちが全員乗ってもまだ余るほど大きな座布団だった。
魚は息を切らし、これしかなかった、と言った。
「そんなわけないでしょう。もっとよく見てきてよ」
「無茶を言うな……うわあっ」
マアトと水野は糸を結び直し、再び魚を割れ目に落とした。魚は大声で叫んだが、しばらくするとまた手応えがあった。引き上げてみると、今度はテントのように大きなステテコがかかっていた。
「これは貴重品だ。俺は履けないが」
「当たり前よ。お願いだからダンジョンを探してちょうだい」
もう一度魚を割れ目に落とした。すぐに手応えがあったが、少し待とうと水野が言った。
「このままじゃゴミしか釣れないよ。何か作戦を考えなきゃ」
「それもそうね。でもどうしたらいいの?」
「餌が悪いんじゃないかな。あんな魚じゃなくて、ダンジョンが好むようなものにしないと」
確かにそうだ、とマアトは思う。でも、ダンジョンの好みなど考えたこともなかった。
僕は違うよ、と水野は急いで付け加えた。
「え?」
「この町には豊富な地下水があって、そのおかげでダンジョンも潤ってるけど、水の精霊は餌にはならないからね」
「ああ、そういうことね」
いざとなったらその手があるわ、と思った時、竿がぐんと動いた。魚が自力で糸をつたい、登ってきたのだ。その姿を見てマアトはぎょっとする。
「あなた、髪が……!」
「いてててて、酷い目に遭ったぞ。でかい鍋に爪が引っかかってな。ひっくり返したら中身を全部浴びてしまった」
魚は銅の鍋を頭にかぶり、胴体にびっしり髪の毛を生やしていた。ライオンのたてがみのようにふさふさとした、赤茶色の毛だ。
「それ、あたしの……美容室の鍋よ! 柿エキスの養毛剤が入ってたんだわ」
マアトは嬉しくなった。美容室のフロアはまだ遠くへ行ってはいなかったのだ。
「餌だ」
水野は魚の髪を指差して言った。
「良かったね。きみの髪が役に立つ時が来たよ」
「ど、どういうことだ」
「美容室は髪が好きなんだ。髪があればきっと釣れるよ」
なるほど、とマアトはうなずき、さっそく魚に糸を巻きつけ直した。
「おい、またか。もう十分やったじゃないか」
魚は抵抗したが、髪が顔にかかってうまく動けず、またしても地面の割れ目に落ちていった。マアトと水野は竿を握り、ダンジョンの気配が上がってくるのを待った。
長い時間が経ったような気がした。ふいに竿が動き、マアトは目を見開いた。
これだ、とすぐにわかった。
引っ張られるというよりは、何かがぴたっと吸い付いてきたような感触だ。引き上げなくても自然に近づいてくる。しっかりと竿を持っているだけでいい。
「来たぞー!」
魚が元気よく飛び出してきた。鉤爪には何もかかっていない。長い髪の先が、ぱっくりと何かに挟まれている。ダンジョンの地下一階、シャンプーフロアが地上に頭を覗かせていた。天井のひび割れが、魚の髪をくわえ込んでいるのだ。
「早く! 髪を切ってくれ! 切ってくれないと動けないぞ!」
魚は尾びれを振って叫んだ。
マアトは近づいていき、しゃがんでダンジョンの天井に手を当てた。ひんやりした手触りなのに、なぜか暖かく感じた。
階段の入り口が見える。シャンプーフロアの下はドライヤーフロア。その下は散髪フロア、パーマフロア、カラーリングフロア、養毛剤の熟成フロア、ウィッグ置き場。そして遥か深くには、モンスターたちの住処もある。
「マアト、切ってあげたら?」
水野の声で我に返る。魚が自分の髪を指差し、飛んだり跳ねたりしている。
マアトは首を振った。
「水野さん、やってあげて」
「え。でも」
「あたし、なんだか大きな仕事を終えてしまったような気分なの」
マアトは入り口に腰かけ、深い地の底からダンジョンが戻ってくる様子を思い浮かべた。今まで訪れた客たちの顔や髪型を一つ一つ思い出した。
まるで自分が旅をして戻ってきたような気分だった。地下水に身を浸し、暗い土の中を掘り進み、いくつものダンジョンとすれ違い、ここへ帰ってきた。
お疲れ様、とマアトは小さくつぶやいた。その言葉はダンジョンの階段を降りてフロア中に響き、マアトの心に跳ね返ってきた。




