25・不思議の国から
週に一度、マアトは美容室を閉めて道具の手入れやフロアの掃除をする。ダンジョンなので、時々形が変わって崩れたり、棚が動いたりして、こまめに手入れをしないとすぐに荒れてしまうのだ。
「あら。鏡が汚れてるわね」
昨日は水野に掃除を頼んだのだが、案の定手を抜いたらしい。マアトはガラスクリーナーと布を持ってきて、鏡を磨き始めた。
すると、鏡の表面が急に波打ち、映っていたマアトの顔が消えた。驚いて離れると、まるで海からイルカが跳ね上がるように、銀色の飛沫を上げて鏡から少女が飛び出した。
「ここはどこかしら」
少女は黒いワンピースと淡いピンクのエプロンをはためかせ、降り立った。長い髪がさらりと踊り、紅茶のような香りが広がる。
マアトを見ると、少女は駆け寄ってきた。
「あなた、魔法使い?」
「あたしは美容師よ。あなたは誰?」
「不思議の国のさくら。シメサバ町から来たの」
さくらが言うには、シメサバ町では今、イルカの鼻の上でジャンプをする競技が流行っているらしい。さくらは二年続けて二位になり、次回優勝すれば町長になれるのだという。
「イルカの鼻って頭のてっぺんの穴みたいなやつでしょ。そんなところでジャンプなんてできるの?」
「簡単よ。激しく頭突きしてもらえばいいの。でも、恐ろしいことになったのよ」
今年の優勝者はスタスタ山の山姥だったが、町の住人ではないので町長になる権利がなかった。怒った山姥はさくらを取って食らおうと、オリーブオイルを持って追いかけてきた。
「山姥は真っ黒な顔に白いアイメイクをしてるの。ものすごく足が速くて鼻もきくから、どこまでも追いかけてくるのよ」
「それは困ったわね」
さくらの髪からは、ダージリンのような深い香りが漂っている。山姥はこの香りをたどってくるのだろう。
「あたしは魔法使いじゃないけど、髪を切ることはできるわ。さくらさん、座って」
鏡はまだ波打ったり、七色に光ったりしている。再びシメサバ町と繋がったら最後、山姥が飛び込んでくるに違いない。
マアトはさくらの髪をとかした。
つやつやした茶色い髪は、そのままでも美しく、編んだり巻いたりしてもきっと似合う。刈り取ってしまうのはあまりにももったいない。
「鏡を壊して、こっちの世界で暮らすのはどう?」
「私はシメサバ町が好きなの。来年こそは町長を目指すから、今はハゲになってもいいわ」
本人がそう言うなら仕方ない。マアトはハサミを握り、さくらの髪をひとつかみ手に取った。
「待って!」
足元から声がして、マアトは手を止めた。ふわりと柔らかいものが足に触れ、下を見ると茶色い猫が身をすり寄せていた。
「まるまりさん! いつの間に」
「声が聞こえたから入ってきちゃった。さくらさん、はじめまして」
美容室の常連猫、まるまりだ。鈴の転がるような声に、さくらも笑顔になる。
「はじめまして。可愛い!」
さくらはまるまりを抱き上げた。そのまま鼻の上に乗せようとしたので、マアトは慌てて止めた。
まるまりは宙返りをして床に降りると、丸い目をにっこりと細めた。
「マアトさん、私の毛を切って。それでウィッグを作ってさくらさんに付けてあげて」
「えっ。あ、なるほど……!」
猫のにおいで山姥の嗅覚を惑わす作戦だ。面白そう、とさくらも言った。
そこでマアトはまず、まるまりの毛を傷めないようにそっと刈り取り、整えた。ずっと切っていなかったらしく、毛糸玉三つ分ほどの量が取れた。
まるまりは軽くなった体でフロアを駆け回り、得意の猫スケートを披露した。
「すごい、まるまりさん! 後ろ足で床掃除ができるのね」
さくらが見とれているうちに、猫の毛ウィッグが完成した。猫耳のような形のシニヨンが二つ付いたデザインだ。
マアトはさくらの髪を肩までの長さに切りそろえた。その上からウィッグをかぶせる。あったかい、とさくらは笑った。
「わあ、ぴったりじゃない!」
三人で鏡の前に集まった。猫の毛は、驚くほどさくらの頭になじんでいる。よくよく見ると地毛との境目がわかるけれど、ウィッグというよりは髪飾りや帽子のようだ。
そして、紅茶の香りが消えている。
「素敵な香りだったんだけどね。山姥がいなくなるまでの辛抱よ」
「ありがとう、マアトさん、まるまりさん」
その時、鏡の表面が再び波打った。見慣れない町の風景が映ったかと思うと、銀色の髪をなびかせた若い女が横切った。
「山姥だわ!」
さくらはマアトの後ろに隠れた。怖がっているのかと思えば、カミソリやバリカンを手に取り、切れ味を確かめている。
山姥は鏡の前に戻ってきて、大きな目を見開いて覗き込んだ。さくらの言った通り、真っ黒な肌をしている。短いスカートから伸びる足はすらりとして、なかなかスタイルが良い。長い前髪をハイビスカスの飾りで留めている。
「思ったより可愛いわね」
マアトは小声で言い、まるまりもうなずいた。さくらは両手に刃物を持ち、鏡の前に進み出る。山姥はさくらの全身を眺め回し、猫の毛ウィッグに目を留めた。
気づかれただろうか。
マアトとまるまりは息を飲んだ。
「なんだ。猫が二匹と美容師だけか」
山姥は気だるげな声で言い、銀色の髪を片手でかき上げた。
「私はなあ、自分の髪は自分で手入れしてんだ。山のキノコと松の葉で作ったトリートメントは良いぞ。仕入れたければこっちへ来い」
「けっこうです!」
「ふん、やる気のない美容師だな」
山姥は背を向け、風のような速さで去っていった。鏡は何事もなかったように、美容室のフロアを映している。
「よかった! さくらさん、これでもう安心よ」
「私の毛が欲しくなったらいつでも来てね」
マアトはさくらを抱きしめ、まるまりも足に抱きついて、三人は喜び合った。
「ありがとう。私、来年こそは必ず町長になるわ。スタスタ山も攻め落として、不思議の国の頂点に君臨するからね」
えっ、とマアトが聞き返す前に、さくらはするりと身をかわして鏡の中へ入っていった。猫の毛ウィッグのおかげで、体まで身軽になったようだ。黒いワンピースの裾が羽のように消えた後は、音も気配も消えてしまった。
マアトは鏡の前に立ち、そっと手のひらを当てた。何も起こらない。ただの鏡だ。
「私、なんだか山姥さんのほうが心配になってきたわ」
まるまりが身を震わせて言った。マアトはうなずき、鏡から離れた。
「そうね。とにかく過酷な世界だから、あたしは当分行かないでおくわ」




