24・執事のお仕事
美容室のダンジョンに、見慣れない男がやってきた。背が高く、黒いスーツに身を包み、黒縁のメガネをかけ、髪はかっちり固めたオールバックだ。
「ここで雇ってもらえないでしょうか」
男はマアトの前に立ち、よく響く声で言った。マアトは出しかけていたヘアカタログを棚にしまった。
「あなたも美容師なの?」
「私は執事です。この美容室にはまだ執事がいないと聞いたので」
「当たり前じゃない。美容室に執事なんて必要ないもの」
そんなことはありません、と男はメガネを指で持ち上げて言った。
「美容室は客へのもてなしが命です。執事がいなければ成り立ちません」
「美容室の命は美容師の腕よ。失礼しちゃうわ」
そうは言っても、執事がどんな仕事をするのか興味があった。一日くらいは雇ってもいいだろう。
「名前はなんていうの?」
「渋茶ノ宮秋人です」
「えっ?」
執事というより皇族のような名前だ。マアトは何度も小声で繰り返し、呼びにくいわ、と言った。そうですよね、と男は笑う。
「あきちゃん、と呼んでください」
「余計呼びにくいわ」
「じゃあ渋茶で」
そういうわけで、美容室のダンジョンは一日執事付きとなった。
「渋茶さん、まずは練習よ。清掃員のタイガが客として来るから、もてなしてみて」
「承知しました」
タイガが入り口から階段を降りてくる。わざわざ清掃服を脱ぎ、いつもより仕立ての良いコートを羽織っている。
いらっしゃいませ、とマアトが頭を下げると、渋茶が横からハサミを差し出した。
「どうぞお使いくださいませ、お嬢様」
「ありがとう……って、あたし!?」
突然恭しい態度をとられ、つい動揺してしまう。マアトは咳払いをした。
「あたしをもてなしてどうするのよ。やり直して」
「はい、では……お帰りなさいませ、ご主人様」
渋茶はタイガに向き直り、深々と頭を下げた。さすがに慣れた口調だ。
「ご主人様かあ」
「コートをお預かりします」
タイガは笑い、ちょっと堅いんじゃないの、と言った。
「そんなじゃ俺も緊張しちゃうよ。お互いもっとリラックスしないと」
「そうですか。では」
渋茶は椅子を回し、どうぞ、と言った。
タイガが座り、マアトがハサミを持ったのを見計らい、さっと鏡に映り込んでくる。
「ご主人様、私の歌を聴いてリラックスなさってください」
そう言って、マアトの手つきに合わせて歌って踊り始めた。マイクもスピーカーもないのに、フロア中に声が響き渡る。
「へえ、うまいな。エレジー先生とは大違いだ」
しかし声が大きすぎて、リラックスどころか作業に集中できない。マアトはハサミを置いた。
「渋茶さん、ちょっとタイガと代わって」
「えっ。私は仕事中ですよ」
「いいから座って。まずは体感してもらうわ」
マアトは渋茶を座らせ、ジャケットを脱がせて柔らかいタオルを肩にかけた。オールバックの髪を濡らして崩し、両手で力いっぱい揉んでいく。
「あの、何してるんですか」
「マッサージよ」
「そうですか。ではお揉みくださいませ、お嬢様」
マアトは大笑いした。慣れてくると、このノリも悪くはない。
「どう? リラックスしてきた?」
「はい。これ以上痛くなると困るので、早急にリラックスしたいです」
マアトは渋茶の髪に櫛を入れ、毛先を切りそろえ始めた。えっ、とタイガが声を上げた。
「いいの? お客じゃないのに」
「あら、いけない!」
ついいつもの癖で切り始めてしまった。しかし途中でやめるわけにもいかない。
「渋茶さん、あたしのおもてなしは何と言っても散髪よ。リラックスできる髪型にしてあげますからね!」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
マアトはほっと息をついた。気を取り直し、渋茶の髪を柿エキスに浸し、ロージアの手作りカーラーを巻きつけ、エレジー印のぽこぽこパーマ液をかけ、山口閣下のブリーフ型ハットで蒸した後、クレンザー製の染料をふりかけた。
「みんなお客さんからもらったのよ」
「私もお客様からはいろいろいただいてます。特にお金を」
「前はどこで働いてたの?」
「樹海のダンジョン、保育園のダンジョン、十連ガチャのダンジョンなどですね。来る人をお嬢様、ご主人様と呼べばいいだけですから、簡単なんです」
話しているうちに散髪が終わった。ちょうどタイガも床を掃き終えたところだったので、鏡の前にやってきた。
「わあ! これは……すごく……その」
「でしょ! すごく……」
渋茶の髪は、その名にふさわしい色に染まっていた。ほうじ茶と煎茶を混ぜたような、暖かく深い緑だ。そして、鳥の巣のようにふわふわとカールしている。
渋茶は呆然と鏡を見つめている。長い沈黙に、マアトも何と言っていいかわからなくなった。可愛いと思ってつい巻きすぎてしまったけれど、執事にふさわしい髪型とは言えない。厳しい主人なら、即クビだろう。
「あの……渋茶さん」
「素晴らしい!」
「えっ?」
渋茶は立ち上がり、マアトの手を取った。別人のように目を輝かせている。
「こんなにリラックスしたのは初めてです! まるで髪がふわふわのくるくるになったような心地です」
「あの、それ、心地じゃなくて実際に」
「頭の中まで柔らかくなったようです。今なら私にぴったりの仕事が見つかりそうです!」
渋茶はそう言って、階段を駆け上がって帰っていってしまった。マアトとタイガは顔を見合わせ、まあいいか、とうなずき合った。苦情ややり直しは、店を出てしまえば受け付けなくて良いのだ。
渋茶は一体どんな仕事に就いたのだろう。バードウォッチングのダンジョンで頭に鳥を住まわせているのか、猫カフェダンジョンで猫をもてなしているのか、マアトはしばらく考えていたが、慌ただしい日々の中でやがて忘れてしまった。
そんなある日、皇居のダンジョンの前で渋茶に会った。黒いスーツではなく、フリルのついたブラウスを着ていたので、気づかずに通り過ぎそうになったが、深緑のふわふわ頭を見て思い出した。
「渋茶さん! あなたやっぱり皇族だったの?」
渋茶は笑い、まさか、と言った。どことなく雰囲気が柔らかくなっている。
「ここで働いてるんですよ」
「えっ。皇居のダンジョンで?」
そこへ、頭の三つあるネズミのモンスターがやってきた。皇居の周りに住み着いているという、とても凶暴なモンスターだ。歯をガチガチ鳴らし、噛み付く相手を探している。
渋茶はすぐさまモンスターの前に躍り出て、お帰りなさいませ、と言った。
「ご主人様、どうか私の歌と踊りをご覧になって、お心を鎮めてください」
渋茶は衿をはためかせてお辞儀をすると、跳ね回って踊りながら歌い出した。
「かーわいいキノコ鍋、わたしーの、赤い鍋、かーわいいキノコ鍋、燃えておあがり」
歌を聴くと、モンスターは体を揺らしながらどこかへ行ってしまった。ブーブーと鼻を鳴らしているのは、真似して歌っているつもりなのだろう。
「こうしてモンスターをもてなし、満足させることで、皇居の被害を防ぐのです」
「そ……そうなの」
それは執事というより、門番を兼ねた道化師ではないか。しかし渋茶が満足そうにしているので、何も言わないでおいた。
「あなたの歌と踊り、素敵ね」
「ありがとうございます。いろいろ考えた結果、やっぱり執事が私の天職だと思ったので」
歌って踊るのが執事の仕事だと言うのなら、それも間違いではないのだろう。
マアトは広い皇居のダンジョンに沿って歩き、自分の美容室へ帰った。途中、金の瞳をしたドラゴンや翼の生えたランプ、顔に傷のあるトンカツなどとすれ違った。みんな渋茶の声に吸い寄せられていくようだった。




