22・大魔神の妹
美容室の常連、クロから電話がかかってきた。
「ボクの妹が髪を切ってほしいって言うんだけど、今日は空いてるかな?」
「えっ。ええ、どうぞ!」
言ってしまってから、マアトは考えた。クロはクレンザーの精霊だ。その妹なのだから、きっとその人もクレンザーでできているに違いない。
つまり、髪も頭もガチガチに固まっていて、ハサミも櫛も通らない。水をかければ粉になって溶け、時空の彼方へ消えてしまう。そしてそのうち戻ってくる。
「どれくらい大きいのかしら」
クレンザー大魔神と呼ばれるクロは、大きな悪鬼のような姿をしている。ひょっとしたら妹はさらに巨大で力も強いかもしれない。モンスターの中には、メスの方が凶暴なものも多いのだ。
タイガに頼んで、掃除ついでにダンジョンの壁を補強してもらおう。そう思った時、入り口で物音がした。マアトは慌てて走っていった。
「お、お待ちください、まだ入らないで! 壊さないで!」
しかし、入ってきたのは水野だった。まだ何も壊してないよ、と言い、掃除用具を床に置く。その中に、見慣れない銀色の缶があった。マアトはほっと息をつく。
「今日はあなたの当番だったわね。その缶は何?」
「さっき拾ったんだ。クレンザーって書いてある」
「クレンザー? まさか」
マアトは止めようとしたが、水野は缶を開けてしまった。白銀の煙が吹き出し、天井まで立ち上る。マアトは口を覆った。ようやく煙が収まった後には、一人の女性が立っていた。
「よいしょ」
女性は狭い缶の中から足を引き抜き、床の上に移動した。もっと派手な登場の仕方を想像していたので、マアトはかえって驚いた。
「はじめまして。クロの妹のオペラです」
とても穏やかで優しげな外見だ。背はすらりと高いが、モンスターのように大きくはない。肩までの茶色い髪は柔らかく波打ち、白いブラウスに黄色い花模様のスカートを合わせている。全体が秋の日差しのように、暖かい印象だ。
「兄がいつもお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ!」
マアトは話しながら、オペラの髪を注意深く見た。どう見ても普通の毛髪だ。クロのようにペンチでも歯が立たないということはなさそうだが、触ってみないとわからない。
「来てくれて嬉しいわ、オペラさん。まずは髪質をチェック……」
言い終わる前に、水野が椅子を滑らせて走ってきた。そのままオペラに体当たりをして座らせると、鏡の前まで運んでいってしまった。
「カットは全てを壊す勢いで。スタイリングはチョップで海を割りながら。じゃあ始めようか」
「待って、水野さん!」
止める間もなく、水野は手のひらから水を振り撒き、オペラに浴びせかけてしまった。マアトは顔を覆った。オペラが溶けてしまう。粉になって泡になって、そうなればもう床掃除に使うしかない。
ところが、オペラは平然と椅子に座っている。頭はずぶ濡れで顎まで水がつたい落ちているが、全く動じていない。
ふふ、とオペラは寂しげな笑みを浮かべる。
「私は落ちこぼれなの。クレンザーとして機能してないのよ」
「えっ……」
「粉になれないし、溶けることもできない。つまりね、掃除ができないのよ」
それは、とマアトは言いかけてやめた。
クレンザーとして生きるよりも、普通の女性として生きるほうがずっと幸せなんじゃないかと思ったが、クレンザー大魔神の家系では違うのかもしれない。
「掃除ができないの? 僕も昔はそう言われてたけど、今は掃除ギルドで働いてるよ」
水野はオペラの髪をとかしながら言った。本当に、とオペラは顔を上げる。
「あなたは水の精霊よね。クレンザーじゃなくても掃除ができるの?」
「うん。適当にゴミを取って、あとは隅のほうに寄せとけばいいんだよ」
こら、とマアトは二人の間に入った。
「間違ったこと教えないでちょうだい。掃除っていうのはこうやるのよ」
マアトは水野の持ってきた箒でフロアの隅々まで掃き清めた。集めたゴミを素早く袋に入れ、デッキブラシで床をこする。
「どう? 早いでしょう」
しかし、誰も見ていなかった。
水野はオペラの髪を右斜め上から一気に切り落とし、反対側からもざくりと切り、シャンプーとリンスをボトルごとかけたかと思うと、ひと吹きで泡を飛ばした。
「ちょっと! 何勝手なことしてるのよ」
「マアト、こっちにも髪の毛落ちてるよ」
「もう!」
結局、マアトが床を掃いている間に水野はオペラの髪を切り終え、ブローも済ませてしまった。ハサミとドライヤーでお手玉をしているようにしか見えなかったが、ちゃんと綺麗な内巻きボブになり、前髪も軽くなっている。後頭部はふんわりと、羽のように柔らかく膨らんでいる。
「素敵! この髪型なら掃除ができそうだわ」
「そうそう。この髪型なら国立劇場のダンジョンも五分で掃除できるからね」
また適当なことを、と思ったが、とても可愛い髪型だ。オペラはバッグから小さな包みを出し、マアトと水野に差し出した。
「これ、お礼……になるかしら」
マアトは受け取り、はっと息を飲んだ。透明なビニールの包みには、世にも美しいブレスレットが入っていた。ローズクォーツとロードナイトを組み合わせた輪の中に、ハートの形をした赤い石が一つ混じっている。
「これは……すごいね」
水野が受け取ったのは、アクアマリンとオニキスの輪に銀の十字架が吊るされたブレスレットだ。こちらも美しく、荘厳なオーラさえ放っている。
「これは、クレンザーだね」
「そう! クレンザーよ」
二人の言葉に、マアトは滑って転びそうになった。どう見ても貴重な天然石なのに、的外れにも程がある。
「クレンザーの精霊が作ったものは無条件にクレンザーなんだよ。宝石だろうとカレーだろうとおっさんだろうと、とにかくクレンザーなんだよ」
「そうなのよ。クレンザーはクレンザー。キャベツでも猿でもとにかくクレンザーなんです」
マアトはどうにか聞き流し、ブレスレットを包みから出した。色合いも形も、光が当たった時のきらめきも、文句なく美しい。
「オペラさん、これをただで配るのはもったいないわ。どこかのダンジョンを借りて、お店を開くべきよ」
「そんな、私は商売なんて」
オペラは恥ずかしそうに言い、水野に向き直った。
「私、掃除ギルドに入れるように頑張ります。修行を積んで帰ってきますね」
「うん。人手不足だからいつでも入れるよ」
信じられない、とマアトは叫んだ。
しかし、オペラは水野から入社用の書類をもらい、嬉しそうに帰っていってしまった。
「精霊の価値観ってやっぱりわからないわ」
本人が手芸より掃除を好むなら、それでいいのだろう。それにしてももったいない、とブレスレットを眺めて思った。
数日後、タイガがやってきた。掃除用具一式を持って、すたすたと階段を降りてきたが、いつになく顔が疲れている。どうしたの、とマアトは言った。
「寝てないの? あたしが作った安眠枕使ってる?」
「うん、なんかトゲトゲしてたな。いや、そうじゃなくて」
タイガは深いため息をつき、帽子を取った。
「水野さんの紹介で新人が入ってさ。綺麗な女の人なんだけど」
「ああ、それ! オペラさんだわ」
知ってるのか、とタイガは言った。かすかに非難めいた声に、嫌な予感が当たったような気がした。
「まさか……」
「あのさ、水野さん一人でも大変なわけ。掃除と称して床を全部消したり、上から下まで洪水にしたり、お金をゆずあんぱんに変えたりして、俺が大変なわけ」
「まさか、オペラさんも」
タイガはさらに大きく息をついた。こんなに困惑しているタイガを見るのは、水野が初めて掃除ギルドにやってきた時以来かもしれない。
「オペラさんが掃除したところは、全部クレンザーになっちゃうんだ。床を掃いたら粉になるし、水をまいたら泡になる。跡形もなく」
それは大変、と言いながら、つい笑ってしまう。思わぬ形でクレンザーとしての才能が花開いたのだ。兄のクロも喜んでいるだろう。
「おい、何笑ってるんだよ」
「あのね、オペラさんって手芸が上手だから、作品を売ればダンジョンの一つくらい建て直せるわよ」
そうは言っても、本人は掃除のほうが好きなのだ。そしてまた一つダンジョンが泡と消えていく。
精霊って何なのかしらね、とマアトはつぶやいた。
 




