20・出土した猫
黒曜石のダンジョンに、珍しい猫が住んでいるという。全身が石でできていて、二つの瞳は明けの明星と宵の明星、爪は三日月でできているという噂だ。
猫愛好家たちはこぞって探しているが、一向に見つからない。黒曜石のダンジョンは暑くて険しいので、探索が難しいのだ。
その幻の猫がなんと、マアトの美容室にやってきた。
「髪を切ってほしいんだが」
そう言って階段を転がり落ちてきた。てっきり体を丸めているのかと思えば、そうではない。丸い透明な石の中に、猫が入っているのだ。黒くてふさふさした体に黄色い瞳を持つ、少し気位の高そうな猫だ。
「石でできてるって、そういうことだったのね」
「人間はちょっとしたことで騒ぐからな」
黒猫はさらりと言ったが、石に閉じ込められているのはちょっとしたことではない。石はバスケットボールよりも少し大きい程度なので、さぞ窮屈だろう。
「いつからそこにいるの?」
「今来たばかりだが」
「そうじゃなくて、いつから石の中にいるのよ」
だいたい三百年、と黒猫は言った。マアトは腰を抜かしそうになった。そんなに長く生きていたら、とっくに猫又になっているのではないだろうか。
「わからない。それくらい寝た気がする」
「気がするだけでしょ。とにかく、このままじゃ何もできないわ」
マアトは金槌を持ってきて、石に振り下ろそうとした。待て、と黒猫が言う。
「それは安全か?」
「保証はないわ」
「じゃあやめた方がいいな」
ちょっとしたことで騒ぐ猫ね、とマアトは思う。
とりあえず石の表面を手で叩いてみた。やはり固い。体重をかけても、卵のようにひびが入ったりはしない。そこでハサミを取り出し、刃先でつついてみた。
「待て、何する気だ」
「一箇所に力をかけたほうがいいと思ったの」
「確かにそうだが、私にも刺さるだろう」
黒猫は逃げ出そうとしたが、石の中ではどうにもならない。マアトはハサミに精神を集中させた。
山口閣下が床に穴をあけた時、このハサミで穴を切り取ることができた。まるで手とハサミが一体化したように、思い描いたことがそのまま起きたのだ。
「大丈夫。このハサミはただのハサミじゃ……」
ぱりん、と割れる音がした。
ひびの間にハサミが食い込み、一気に中まで入り込んでしまった。黒猫はギャッと叫んだ。背中を突き刺すすれすれのところで止まったのだ。
「ただのハサミのようだな」
「おかしいわね。前はうまくいったのに」
とにかく穴をあけたのだから、ここからは簡単だ。マアトは石を床に押しつけ、ごろんと転がした。ぴしぴしぴし、と穴からひびが広がっていき、一気に崩れる。
「黒猫さん?」
「ここだ」
「どこ? まさか潰れた?」
散らばった石の欠片をかき分けてみたが、黒猫はいない。石と一緒に割れてしまったのではと思った時、上から声が降ってきた。
「ここだ、ここ。間一髪で脱出したぞ」
シャンプー台の上に黒猫が乗っている。マアトは胸を撫で下ろした。
思ったよりも普通の猫だった。毛は確かにつやつやしているが、石でできているわけではない。柔らかい長毛だ。目は確かに、金星を二つ閉じ込めたように明るい。喉の下をさわると、ちゃんとゴロゴロ言った。
「伝説が一人歩きしてたみたいね」
マアトは黒猫の毛を丁寧に洗い、乾かした。
「短くしてほしい。三百年も伸び放題だったからな」
マアトは笑い、はいはいとうなずいた。どう見ても数週間放っておいただけの長さだ。
「黒猫さんは、黒曜石から生まれたの?」
「いや、普通に親から生まれた。独立してからは、あのダンジョンで鉱石を掘って暮らしていたんだ」
ダンジョンの奥には、黒曜石だけではなくトルコ石や翡翠、メノウなどの原石もあった。夢中になって掘っているうちに、階段が崩れて出られなくなってしまったのだという。
「私は石に取り込まれ、長い間眠っていた。やがて、海の底に積もった石が山を作るように、ゆっくりと押し上げられていった」
「ダンジョンは勝手に形を変えるからね。大変だったでしょう」
「いろいろな石が流れていくのが見えた。綺麗だったぞ。まるで時間の流れそのものみたいでな」
マアトは黒猫の毛を梳かし、耳のそばから後頭部、そして背中の毛を切っていった。切っても切っても減らない。マアトはハサミの動きを大きくした。
「おい。切りすぎてないか」
「大丈夫よ」
「いや切りすぎてる」
「じゃあ短いほうに合わせるわ」
ハゲる、なくなる、と黒猫は騒いだ。バリカンで一気に剃ってしまいたい衝動を抑え、マアトはなだめすかしながら切った。
「三百年も経ってみなさいよ。切りすぎたところなんて、どうせわからなくなってるわよ」
切り終えてみると、それほど不揃い感はなかった。顔の輪郭がほっそりとして、活動的な雰囲気だ。背中の毛はやや長いので、シャンプーでさらさらになった質感も活きている。石のようなつややかさはなくなってしまったが、瞳の明るさは目立つ。
黒猫は機敏に一回転をして、自分の姿を鏡に映して確かめた。柔らかな仕草で椅子から降りると、階段に向かって駆けていった。
「黒曜石のダンジョンに帰るの?」
「いや、今度は博物館のダンジョンに住むことにした。あそこにも石がたくさんあるからな」
「猫なんて入れてもらえるかしら」
黒猫は振り向き、マアトをじっと見た。瞳の光に、全てが吸い込まれていくような気がした。マアトと黒猫以外の全てが消え、途方もなく長い時が経ったような気がした。
「私は出土品だから大丈夫だ。じゃあな」
黒猫はどこから出してきたのか、光るものを床に置き、階段を駆け上がっていった。マアトが拾い上げてみると、赤い色をした石だった。ビー玉ほどの大きさだが、蠍座のアンタレスのように強い光を発している。
「出土品ねえ……」
今度は博物館のケースに閉じ込められなければいいけど、と思いながら、マアトは飽きずに石を眺めていた。
* * *
数日後。
美容室常連の猫、まるまりから電話がかかってきた。
「マアトさん? あのね、今うちに知らない猫が来てて、マアトさんのところから来たって言うんだけど」
久しぶりに聞くまるまりの声は、明らかに困惑していた。あの黒猫だ、とマアトはすぐに察した。
「もう千年も美容室で暮らしたから、あとは穏やかに老後を過ごしたいって言うのよ。かつぶしご飯を分けてあげたら、そのまま居ついちゃって」
「追い出していいわよ」
マアトはため息をついた。博物館へ行く道がわからなくなって、たまたま見かけた猫についていってしまったのだろうか。
また数日後。
今度は駅前の交番から電話がかかってきた。
「もしもし。ボク、ローヤです」
「あら、久しぶり! ミカンちゃんちの犬になったんじゃなかったの?」
「ボクは狼です! それにかっこいいおまわりさんです」
ローヤは受話器の向こうで咳払いをし、声を落として続けた。
「じつは今日、不審な黒猫を見つけて職務質問をしてたんです」
「そ、それは不審者じゃないわ。出土品……」
「マアトさんのところで一万年も働いたからご飯が欲しいと言うんです。仕方なくカツ丼を注文してあげたら、そのまま居ついてしまって」
マアトは肩を落とした。博物館のダンジョンになど、最初から行く気はなかったのだろう。
迎えに行くわ、と言い、マアトは立ち上がった。呆れ返っているはずなのに、なぜか顔が微笑んでしまうのだった。




