2・狼のおまわりさん
美容室のダンジョンに、今日も客がやってきた。青灰色の体をした、小さな狼だ。
「ひえっ……!」
マアトはおもちゃのラッパを取り出し、吹き鳴らそうとした。狼が来たぞ、と叫べば、駅前の交番まで聞こえるだろうか。
「ボク、警察から来たんですよ」
狼は言った。少女のような声だ。黒い瞳がくりくりと光っている。マアトは一呼吸置き、話しかけた。
「えーと、でもあなたは狼じゃない?」
「はい、狼のローヤです。おまわりさんの見習いをしてます」
ふわふわとした耳に、よく見ると警察のバッジが挿してあった。金色の星がついていて、まるでアクセサリーのようだが、どうやら本物らしい。
「可愛いわね」
「可愛い、ですか……」
ローヤはしゅんとして耳を下げた。
「あのー、もっとクールでワイルドな髪型にしてもらえませんか?」
「えっ。わ、ワイルド?」
「ボクはかっこいいおまわりさんになりたいんです。お願いします」
マアトは困った。狼の髪型なんて考えたこともない。ウルフカットというスタイルがあるにはあるが、それとこれとは違う。
「俺がやろうか?」
店の奥から、友達のタイガが出てきて言った。昨日から、美容室の掃除に来てくれているのだ。薄いシャツとジーンズに清掃用のエプロンをつけた姿は、美容師とあまり変わらない。
「警察官なら俺も憧れてたんだ」
「本当ですか!」
ローヤはタイガに駆け寄り、目を輝かせた。後ろ足で立ち、人間のように器用な仕草でタイガの手を取る。
「制服の金のラインとか、たまらないですよね!」
「それはよくわからないけど」
タイガは持っていた箒とちりとりをマアトに渡した。
「今日だけ交替できる?」
「ちょ、ちょっと待って。タイガ、髪切れるの?」
「犬の毛なら刈ったことあるよ」
そしてローヤを連れて、地下三階のカットスペースへ降りていってしまった。マアトは慌てて追いかけた。
ローヤは行儀よく椅子に座っていた。鏡をじっと見て、タイガが櫛や霧吹きを出してくるのを待っている。ところが、タイガはどちらも取り出さなかった。何の迷いもなくバリカンのスイッチを入れ、ローヤの背中に当てたのだ。
マアトは箒を放り出して走っていった。
「待ってったら! その子、女の子じゃないの?」
「えっ。オスもメスも同じように刈るだろ」
ローヤは嫌がる様子もなく、気持ち良さそうに目を閉じている。本人がいいと言うならいいのだろう。マアトは箒で毛を集め、裁縫袋の中に入れた。あまりにも良い毛並みで、捨てるのがもったいなかったのだ。
タイガは丁寧に毛を刈りながら、昔見た刑事ドラマの話をしている。すっかり意気投合した二人を見て安心し、マアトは掃除を続けた。
「ぎゃ!」
突然ローヤが叫び、金属同士がぶつかるような音がした。マアトが振り向くと、ローヤの耳から何かが飛び、きらりと光って落ちるのが見えた。タイガはバリカンを止め、急いで拾おうとしたが間に合わない。それは三回弾んで転がり、排水口にすぽんと落ちてしまった。
「ボクの……バッジが!」
震えながら立ち上がるローヤを見て、マアトはぎょっとした。背中の毛がごっそり刈られている。人間でいえば、しばふ頭のような短さだ。
しかし本人は毛のことなどまったく気にしていない。
「ボクの、命より大事なバッジを……!」
警察バッジを失ったローヤは、完全に野生の顔になっている。牙をむき、じりじりとタイガに迫り寄る。小さな狼とはいえ、噛みつかれたら死んでしまうだろう。
「わー! 待て待て、今拾う!」
タイガは排水口に手を突っ込んだが、肘まで入れても見つからないようだった。
「あ、あたしがやる!」
マアトはエアーウォッシャーの管を排水口に入れ、スイッチを「強」にした。髪の切りくずやゴミはたくさん上がってきたが、ついにバッジは取れなかった。
ローヤは唸り声を上げ、毛を逆立たせて飛びかかってくる。マアトはかろうじて避け、ムースや霧吹きの乗ったワゴンが倒れた。こぼれた水に映ったローヤの姿は、怒りで揺らめいている。
マアトは壁際に追いつめられた。もう逃げ場がない。その時、タイガが叫んだ。
「新しいバッジを作ればいいんだ!」
「それだわ!」
マアトは針と糸とフェルト、それに星形ビーズを出してきた。呆気にとられているローヤを押しのけて、客用の椅子に座って作業を始める。
ローヤが大人しくなったのを見計らい、タイガは散髪の続きに取りかかった。椅子は一つしかないので、地べたに座ってやるしかない。
「警察犬って言ったらドーベルマンだよな」
「そ、そうなんですか?」
「そうだよ。とりあえず短毛にすればそれっぽく見えるだろ」
マアトはせっせとバッジを作った。紺色のフェルトをシールド型に切り、黄色い糸で蔦の縁取りを刺繍する。それを二枚合わせて薄く綿を入れ、ブランケットステッチで縫い、最後に星のビーズを中央に留める。
「できた!」
タイガはまだ、ローヤの毛を全部刈っていなかった。頭のてっぺんと首元に長い毛が残っていて、まさにウルフカットのようなスタイルだ。
ちょうどいいわ、とマアトは言った。
首元の毛に、作ったばかりのバッジをくくりつけることができた。もし全部刈ってしまっていたら、肌に直接刺さなければならなかった。
「おお!」
「これは……」
マアトとタイガはローヤの姿を見て、少し引いて見て、角度を変えても見た。
毛足の短い犬が、子供用のアップリケをしているようにしか見えなかった。
「ど、どうでしょう、お客様」
マアトが鏡を見せると、ローヤはぱっと顔を輝かせた。毛が短いので、前よりも表情豊かに見える。
「このバッジ、すごくステキです! 蛇の模様がかっこいいですね!」
それは蔦、と言いかけたが、喜んでいるので水を差さないことにした。
「俺のカットは?」
タイガが少しむくれて言うと、ローヤはにっこり笑った。
「よく覚えてないけど、上手だった気がします。それに、とっても軽くなりました!」
ローヤはフロアを駆け回り、三度宙返りをして鏡の前に着地した。後ろの毛まで確認して、どうやら満足したらしい。落ちたバッジのことなど忘れたように、軽やかな足どりで帰っていった。
「そうは言っても本物の警察バッジだろ。探さなきゃ」
もういいんじゃないか、とマアトは思ったが、タイガは変なところで生真面目なのだ。
勤務時間が過ぎても排水口の掃除を続け、結局見つかったのは、下の階の床だった。排水口はただ単に、下へ下へと落ちる構造になっていたのだ。
欠陥建築じゃん、とタイガは言った。
「あら、別に問題ないわ。それがダンジョンの道理でしょ」
マアトはバッジをよく磨き、ポケットに入れた。交番の近くを通った時に届けてあげよう。刈り取った毛でマフラーを作るのはその後ね、と思う。